20世紀前半最高の一人に数えられるバックハウスはドイツのピアニストです。
彼は「平均律クラヴィーア曲集」の中のどの曲も、あらゆる調で自由に弾くことができたといいます。
なぜこのような超人的なことができるのかいうと、音楽を相対音感的に捉える訓練が必要なのです。
子供の時から、相対音感(=移動ド)で簡単な曲を他の調で弾く訓練をしていれば、《平均律クラヴィーア曲集》を弾く頃になってもそれほど難しくはないはずです。

現在のピアノ教育は絶対音感(=固定ド)が主流であり、相対音感(=移動ド)は絶対音感を持たない音楽的敗者の方法と誤解されるようになってしまいました。
絶対音感保持者にとって、移調によるピッチの変動は耐え難く、《平均律クラヴィーア曲集》の移調奏はまず耳が拒否してしまうでしょう。
音楽を鍵盤と指の感覚で覚えている人にとっては、たちまち指の運びに支障をきたす移調奏は困難です。
楽譜で音楽を覚えている人は、音部記号を変える感覚で多少対処できますが、日頃使わないハ音記号などは、たちまち頭の混乱を起こし、移調がスムースにいきません。

このように絶対音感ピアノ教育では《平均律クラヴィーア曲集》の移調は難しく、音楽を相対音感で覚えている人は比較的楽に移調奏ができるのです。
ピアノの楽譜は絶対音感(=固定ド)で読む人が大半ですが、非絶対音感者の中にも、固定ドで《平均律クラヴィーア曲集》を弾く人は少なくないのです。
この現象は根幹的な大問題をはらんでいますがこれについては拙著に詳しく述べました。(『やわらかなバッハ』 橋本絹代 著)

リスト(Franz Liszt 1811〜86)は19世紀の華麗なるヴィルトゥオーソですが、彼は 10 才の時、ハンガリーの貴族たちから提供された奨学金でもって父親と共に、ウィーンに移住しました。
そこでリスト父子は有名なベートーベンの門を叩きました。
ベートヴェンは何度も入門を断ったのですが、あまりの熱意に根負けしたベートーヴェンは幼いリストに「今弾いたバッハのフーガを別の調で弾けますか」と問いました。
10才のリストは移調を見事にやってのけたということです。もしリストが絶対音感をもち、音楽を固定ドでとらえていたら移調奏はできなかったでしょう。
リストの秀でたピアノテクニックは相対音感(=移動ド)がもたらした精華といえるでしょう。


相対音感的訓練こそ、真の音楽家の基礎となるものです。絶対音感は音楽家にとって邪魔にこそなれ音楽力とは無縁のものです。
イコール式はハ長調とイ短調の基礎調を用いますので、音楽を相対音感的に捉えることが容易です。
相対音感こそが音楽家としての良い耳を育てるのです。