やわらかなバッハの会 The Society of Soft Bach

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所  所長  橋本絹代
Equal Method Music Institute President Kinuyo Hashimoto

バッハの意図

シュヴァイツァー

シュヴァイツァー(1875〜1965)はオルガンの名手であり音楽家としての成功を約束されていましたが、30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、アフリカのランバレネにおいて、住民への医療などに生涯を捧げました。彼は医師としてアフリカに行く準備のための多忙な生活の中で『J.S.Bach』を書き上げました。この論文は今もなお、バッハ研究書としての価値を失わずシュヴァイツァーの名を永く音楽界に残すことになりました。この中から一部を以下に引用します。

「本物の芸術と偽者の芸術を区別する分別においてはたしかにずっとすぐれているとすれば、それは第一にバッハのこれらの曲に負うものといえよう。それを練習したことのある子供はーその際どんなに機械的に行われたにせよー声部進行を目のあたりに学び取るのであり、この直感は2度と消し去られることはないであろう。そのような子供は他のどんな曲にも同様な音響の線による尊厳な動きを本能的に求めるようになり、その欠如を貧しさと感ずるであろう。」

また彼は《平均律クラヴィーア曲集》の世界を次のような美しい言葉で表現しています。
「平均律クラヴィーア曲集は宗教的な感化を与える。喜び悲しみ泣き嘆き笑いーすべてが聴く者に向かって響き寄せてくる。しかし、その際にわれわれは、このような感情を表現する音によって、不安の世界から平安の世界へと導き入れられ、あたかも山間の湖畔で底知れない深さをたたえた静かな水面に山や森や雲の映る姿を眺めるときのように、現実を見るのである。平均律クラヴィーア曲集ほど、バッハが自己の芸術を宗教を感じていたことをよく理解させてくれる作品はない。彼が描写するものは、ベートーベンがそのソナタでしたような自然のままのさまざまな魂の状態ではなく、また一つの目標に向かっての苦闘や抗争でもなく、生を超越していることをあらゆる瞬間に自覚している精神―最も激しい悲しみと最も底抜けの朗らかさなどの極度に対立した感情をいつも同一の超然たる根本的態度によて体験する精神―が感じ取る生の実在なのである。それゆえに第1巻の悲痛に打ち震える「変ホ短調プレリュード」の上にも、また第2巻の憂いなく流れてゆく「ト長調プレリュード」のなかにも同一の浄い光が漂っている。」

バッハ時代のソルミゼーション

バッハが平均律クラヴィーア曲集第1巻の巻頭に書いた「長3度ドレミ、短3度レミファに該当するすべての全音と半音によるプレリュードとフーガ」と言う表現にバッハ時代のソルミゼーションが感じられます。バッハの巻頭の言葉は24すべての調を網羅した曲集と言う意味ですが、現代人なら、長3度をドレミ、短3度をラシドと書くのではないでしょうか。では何故バッハは短調を意味する短3度を「ラシド」ではなく「レミファ」と書いたのでしょうか。

これについて考えるにはグイードが考案したとされる6音音列のヘクサコードを簡単に説明しなくてはなりません。
ヘクサコードとは2オクターヴと6度に渡る声域を「ドレミファソラ」の6音を使ってムタツィオ(階名の読み替え)しながら歌う実践的な階名唱法です。ヘクサコードには自然、硬い、軟らかいの3種類があります。自然なヘクサコードはハ長調、硬いヘクサコードはト長調、軟らかいヘクサコードはヘ長調と考えると理解し易いでしょう。

ヘクサコードでは「ミファ」は必ず半音になります。また現在の「シ」に当たる音はフラットが付くときは「ファ」、ナチュラルあるいはシャープのときは「ミ」と歌います。余談になりますが、ナチュラルとシャープは同じ意味として用いられた時期もありました。

バッハの弟子であるアグリーコラ(1702〜74)が書いた「歌唱芸術の手引き」によるとムタツィオは上昇のときは階名「レ」によっておこなわれ、下降のときは階名「ラ」によっておこなわれました。また、バッハ時代の人々はハ調以外の長音階はすべてハ調からの移調として歌い、イ調以外の短音階はすべてイ調からの移調として歌いました

アグリーコラの方法で自然ヘクサコードから硬いヘクサコードに「レ」でムタツィオすると「ドレミファソレミファ」となります。これが今日で言う7音音列であるハ長調音階の歌い方です。

次に硬いヘクサコードから自然なヘクサコードに「レ」でムタツィオすると「レミファレミファソラ」となります。これが今日で言うイ短調自然音階の歌い方です。

ヘクサコードの大まかな説明に留めましたが、これでバッハが平均律クラヴィーア曲集1巻の巻頭に書いた「短3度レミファ」の意味がお分かりいただけたかと思います。バッハの時代、今日で言う短調は「レミファ」と階名唱しました。そもそもヘクサコードの中に「シ」と言うシラブルがないのですから短調を「ラシド」と階名唱することは不可能でした。

イコール式はすべての調をハ長調とイ短調から移調したものとして考えます。
バッハ平均律クラヴィーア曲集全48曲をハ長調とイ短調に移調したイコール式版を出版しました。





ピアニスト

1737年、バッハ52歳の時、進歩的な音楽雑誌の最新号はバッハを猛攻撃する記事を掲載しました。それはバッハ批判で有名な新進の音楽評論家シャイベが書いたものでした。シャイベは、バッハの手の込んだバロック風な作風を古臭い音楽として排斥し、もっと単純で分りやすい音楽を求める若い世代の美学を代表する音楽雑誌の編集者でもありました。彼がバッハのことを皮肉を込めて「優れた楽士」と書いたのです。音楽雑誌に書かれたバッハ批判の中で、バッハにとって最も侮辱的だたのは「楽士」という言葉でした。

この「楽士」という言葉に対してバッハ擁護派のライプツッヒ大学講師ビルンバウムが猛反撃に出ました。その内容についてはバッハ・アルヒーフ所長そしてハーヴァード大学教授のヴォルフの著書から引用させていただくとビルンバウムの反撃はおよそ次のようなものでした。「楽士と言う語は一般に、専ら音楽の実践と言う一形態しか主要な業績がない人々に用いられる語であり、そういう人々は他の人々が書いた作品を楽器によって音にするという目的のために雇われる。実際、この種の人々すべてに使われることすらなく、通常最も身分の低い人々だけがこう呼ばれる。従って、楽士は酒場のヴァイオリン弾きと大差がないのである」

ビルンバウムはバッハが「他の人々が書いたものを楽器によって音にする」ところの楽士ではなく、自ら作曲する音楽学者であると同時に最も偉大なオルガン奏者であり、クラヴィーア奏者であると言いたかったのです。
この音楽雑誌から分るように、バッハの時代は自ら作曲しない器楽奏者を楽士という侮辱的な言葉で呼んでいました。現在はどうでしょうか?ピアニストは主として他人が作曲した名曲を演奏するばかりで、自作の曲を演奏することは非常に稀なことです。今ではピアニストの殆どが楽士のようになってしまったかに見えます。これを画家の世界に置き換えるとどうなるでしょうか。他人が描いた絵を寸分違わず上手に写す行為は贋作ということになります。どんなに本物らしく描いてもそこにある感情や意図は原作者のものであって、贋作者のものではありません。ピアニストも全く同じことです。

シャイベをはじめ若い音楽家たちを中心とする時代の風潮が、もっと分りやすい旋律的なものに向かっている時代にバッハはフーガを書き続けました。バッハがいっさいの音楽の最初にして最後であるということを世の人々が知るのはずっと後になってからのことです。フーガ芸術が古臭いと考えられて新しい音楽の道を歩み始めた時、フーガの楽匠は存在しなくなり、どのようにフーガを語ろうとももはやフーガの教師でしかなくなったのです。そしてその道はやがて指の故障でピアノが弾けなくなったシューマンの時代から作曲家と演奏家という二つの道に別れ、それはもう後戻りできない音楽の終焉に向かう道となったのです。

自筆譜

「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」の自筆譜はベルリン国立図書館に大切に保管されていますが、紙やインクの腐食のため存続の危機に瀕していました。ゲッティンゲンのバッハ研究所から小林義武が自筆譜の調査に出向いた時、穴だらけの資料を渡され開いてみると記入箇所がさらにこぼれ落ちそうになったため、即座に返却し修復の措置を取るように図書館側に伝えたことが何度かあったそうです。修復方法は紙面の表面と裏面をはがし、その間に新しい紙を1枚挿入して再び張り合わせるという方法です。この方法によって「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」の自筆譜は紙が厚くなり強化修復されました。

「平均律クラヴィーア曲集第2巻」の自筆譜は祖国を離れロンドン大英博物館所有となっており、保存の状態はかなり良好ですが、不完全な形で残されています。このロンドン自筆譜は24曲中、3曲のプレリュードとフーガ(嬰ハ短調、ニ長調、ヘ短調)が欠けており表紙も消失しています。
従って正確に言うと「平均律クラヴィーア曲集第2巻」という表題はバッハがつけたものではないことになります。現存する筆写譜の中にバッハの弟子で娘婿でもあるアルトニコルの手によるものがあります。これは研究者たちがバッハの意図も反映しており最終稿に相応しいと見なしているものですが、その表紙に「平均律クラヴィーア曲集第2巻、すべての全音と半音を用いたプレリュードとフーガ集。ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家、楽長、ライプツィヒ合唱音楽隊監督ヨハン・セバスティアン・バッハがこれを作曲す」とあります。これによって私たちは「平均律クラヴィーア曲集第2巻」と呼ぶことになったのです。第2巻はバッハの肩書きや「全音と半音」という表現が第1巻のそれとは異なっています。

第2巻は第1巻のように完全な形の自筆浄書譜が残っていません。欠けた3曲は信頼のおける弟子たちが書き写した「もう一つの失われた自筆譜」によって完成しています。弟子のアルトニコルやキルンバルガーの筆写本にはバッハが更に改訂の手を加えているので信頼できる資料と言えるのです。第2巻の自筆譜は次の3つのグループを成しています。第1のグループは調号が4つまでで比較的簡単な調が12曲入ったもの、第2のグループは調号の多い難しい調が7曲入ったもの、第3のグループはハ長調と変イ長調の2曲、そして最後に欠けている3曲です。
        

出版譜

「平均律クラヴィーア曲集」の出版譜が世に出たのはバッハの死後50年を経た1901年のことでした。出版譜が出るまでは自筆譜をはじめとする手書きの筆写譜によって伝承されてきました。最初の出版譜は時期を同じくしてライプツィヒのフォルケル校訂、ボンのシュヴェンケ校訂、チューリヒのネーゲリ校訂による3種類でした。これらの出版譜は死後世間から忘れ去られていたバッハの復興運動を起こす導火線の役目も果たしました。

1829年はメンデルスゾーン(1809生)によってマタイ受難曲の復活上演がバッハ縁の地ライプツッヒで行われ、それが大センセーションを巻き起こした年です。この時以後バッハの音楽の偉大さが広く再認識されることになり、1837年にはチェルニーの校訂による解釈付き「平均律クラヴィーア曲集」が出版されました。
1850年にはバッハ没後100年を記念してバッハ協会が設立され、バッハの全作品の校訂が始まることになります。何度も改訂の手を加えた自筆譜や沢山ある筆写譜を校訂する作業は半世紀もの年月を要し、バッハ全集の最終巻が出版されたのは1900年のことでした。このバッハ全集の中にあるクロル校訂の「平均律クラヴィーア曲集」は当時としては最も権威のあるものでした。ビショッフ、ブゾーニ等の校訂者にも多大な影響を与え、多くの校訂版が出版されました。

当時としては画期的だったバッハ全集も第2次世界大戦を経て1950年には絶版になっていました。再版も可能でしたが、これを機会に新バッハ全集を作ろうという声が上がり、新バッハ協会が設立されました。旧バッハ全集が主に音楽的見地から校訂されているのに対して、新バッハ全集は文献的な見地から校訂されています。文献的とは現存するすべての資料を調査し、資料間の親子関係を明らかにし、その家系図を作り、さらに資料批判をするという緻密な作業で、今回もまた半世紀の年月を要しました。ゲッティンゲンのバッハ研究所で編纂されたデュル校訂の「平均律クラヴィーア曲集」が出版されたのは1997年、最終巻の出版完了が伝えられたのは極最近のことで2007年6月13日でした。

新バッハ全集の校訂進行中に、イルマー校訂版、デーンハルト校訂版、トーヴィ校訂版などが相次いで出版されたことによって、従来の解釈的校訂版に替わって原典版ブームが起こり、通称ヘンレ版は音大生必携原典版になりました。しかし1出版社の1校訂者が世界中に散らばった資料の大捜査や資料批判をすることは個人の仕事としては限界を超えています。このことはゲッティンゲンのバッハ研究所でバッハ全集の編纂に携わった小林義武氏は「すべての資料のレチェンジオ(資料批判)を行って原典を探る仕事は、収益とは無関係に、国家の文化政策の一環としてのみ実現されるものである」と述べていることからも明らかです。新バッハ全集をもとにベーレンライター社から出版されたデュル校訂の「平均律クラヴィーア曲集」も、ベーレンライター社に出版のみを委託したに過ぎません。
デュル校訂版は通称ベーレンライター版と言われていますが、本当は出版社名を言うのではなく、ゲッティンゲンのバッハ研究所編纂による新バッハ全集のデュル校訂版「平均律クラヴィーア曲集」です。
原典版の主流であったヘンレ社はベーレンライター社に負けじと2007年に更に新しい校訂版を出版しました。最新版は「平均律クラヴィーア曲集 第2巻」に関する世界的権威である富田庸の校訂によるものです。

バッハの転職

時は1720年のクリスマス前、ドイツのハンブルク聖ヤーコビ教会で起こった話です。
ケーテン宮廷楽長で35歳になっていたバッハは聖ヤーコビ教会オルガニストに志願しました。最も名高く最も偉大なオルガンの巨匠はハンブルグの最も大きなオルガンによって見事な演奏を聞かせ、絶賛を浴びました。老巨匠のラインケン(1623生)はバッハの演奏に「オルガン音楽はもう死滅したものと思っていたが、今君の演奏を聴いて未だその精神が受け継がれていることが良く分った」という賛辞を贈りました。

しかし、その採用試験には、他の無能なオルガン奏者とならんである金持ちの職人の息子も志願していました。彼は指で弾くよりも財産で弾く方が上手でした。そして、その彼がオルガニストに選ばれたのです。これにはほとんどすべての人が納得できませんでした。聖ヤーコビ教会の後任者を実力ではなく寄付金で決めたことに対する不満の意をヤーコブ教会牧師がその年のクリスマス説教で次のように述べました。
「たとえ、天使がこの教会のオルガニストを志望して天から舞い降り、神の様な演奏をしても、現金を持ち合わせていなければこの町では受け入れられないのだから、虚しく飛び去る以外にないであろう」

バッハが失望することはこのことの前、31歳の時にも起こりました。それはヴァイマル宮廷でのことです。高齢の宮廷楽長の後任になりうるという見通しで奉職していたバッハが、自分ではなく、高齢で亡くなった楽長の息子にその地位を奪われたことです。今まで認められてきたバッハの業績が軽視され、全く凡庸な息子の下に位置づけられるということは、バッハの正当な自負心を傷つけ、辞任を願うこと意外にありませんでした。そして、バッハは自ら望んだ転職によって、ヴァイマルでは得られなかった楽長の地位をケーテンで与えられ驚くほどの高額な俸給を約束されたのです。





バッハのホ長調

バッハの鍵盤楽曲の中からホ長調についてを調べてみましょう。

当時最も傑出したオルガン奏者であったバッハは#♭3個までの調でオルガン曲を書きました。例外的に#4個のホ長調が1曲だけあります。それは「プレリュードとフーガ ホ長調 BWV 566」です。しかしこれはクレープスやケルナーが筆写した手稿譜ではハ長調になっており、ホ長調でもハ長調でも良いような曲です。

バッハはオルガン以外の鍵盤楽曲も#♭3個までの調が大半を占めています。#4個のホ長調は数えるほどしかありません。ホ長調は以下の8曲です。
インヴェンション6番 BWV 777
シンフォニア6番 BWV 792
フランス組曲第6番 BWV 817
平均律クラヴィーア曲集 第1巻の9番 BWV 854
同上          第2巻の9番 BWV 878
6つの小プレリュード BWV937
カプリッチョ「ヨーハン・クリストフ・バッハを讃えて」BWV 993
ヴァイオリンとチェンバロのための6つのソナタ BWV 1016

それではここでバッハが書いたホ長調の各曲の性格を一つづつ見てみましょう。
インヴェンションは軽やかで愛嬌があり、シンフォニアは田園的、フランス組曲は6曲中最も輝かしく、平均律のプレリュードは穏やかな気分、6つの小プレリュードは軽快なアルマンド、カプリチョは若さにあふれた活発な気分、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタは穏やかな田園的気分です。
マッテゾンが言う調性格のホ長調は悲しい曲想ですが、バッハのホ長調の8曲は明るく活発、静穏な癒しが感じ取れます。

マッテゾンはミーントーン音律におけるホ長調の性格、バッハは不等分平均律におけるホ長調の性格です。調性格は音律が違えば当然違ってきます。12等分平均律のホ長調はマッテゾンやバッハともまた違った性格になります。
ただしここではっきりしている事は、12等分平均律のホ長調は1種類、それ以外の不等分音律のホ長調は無限にあるということです。
さらに言えることは12等分平均律におけるホ長調は特有の性格を持たず全長調が同じものになるということです。不等分音律においてはこのようなことは起こりません。

Bach の象徴14

バッハは数の象徴による数学的な計画を音楽のなかに織り込みました。
数の象徴とは例えば以下のようなものを言います。
3=三位一体
5=5本の指、人間
6=天地創造にかかった日数
7=安息日、聖なる
10=十戒
11=律法の拒否、11人の弟子
12=信徒、教会
13=ユダが裏切ろうとしていた時食卓には13人いたことから罪と災い
14=バッハ

14がバッハ(Bach)になるのは漢字の画数を足して総画が14になるというのに似た考え方です。ローマ字に画数があるのは変ですが、AからZまでの26文字を1から順に番号を付けていき、最後のZが24になります。ローマ字は26文字あるので、IとJは両方とも9画、UとVは両方とも20画と数えて最後のZが24画になるように帳尻を合わせます。この方法でバッハ=BACHを数えると、B=2,A=1,C=3,H=8ですから合計すると14ということになるのです。

バッハの代表作である《平均律クラヴィーア曲集》に網羅されている理論上考えられるすべての調の数は24、ローマ字による画数も24と共通しています。

また、バッハは《平均律クラヴィーア曲集》の最初のフーガを14個の音符からなる主題(1巻1番
C−Dur フーガの主題)で開始することによって第1巻の頭に自分の印章を押しました。実際の印章にもバッハは14粒の真珠を使っていました。

「イギリス組曲」「フランス組曲」「パルティータ」などは神が天地を創造したまいし6日間に敬意を表すためにそれぞれ6曲がセットになっています。

コラール前奏曲「これぞ聖なる十戒」では主題を10回登場させています。

またバッハは意味のある数字をたしたりかけたりした数字も象徴として用いました。
例えば21は「聖なる7」の3倍した数ということで「聖なる」という言葉を3回繰り返すという意味になります。
《平均律クラヴィーア曲集》の1巻24番、2巻1番、2巻24番といったけじめのフーガを7×3=21個の「聖なる聖なる聖なる」音符で構成した主題で結んでいます。
さらにある音楽が64小節で作られている場合は Kyrie(10+23+17+9+5=64)であるなど 、音楽の小節数と聖書の何章何節との関連や詩編の番号との関連による数の象徴は果てしなく続きます。

数の象徴の歴史についてはシュミット著『聖書における数』、エンドレス著『数の神秘と魔術』、ヤンゼン著『バッハ数の象徴』、フェルトマン著『数の神秘』、スメント著『バッハその名の呼びかた』『ルターとバッハ』、タトロー著『バッハの暗号 数と創造の秘密』などに詳しく述べられています。

ニッセンはバッハ年鑑(1951年)に書いた論文のなかで、バッハが平均律クラヴィーア曲集を「神の聖霊と天地創造で始まり、死せるキリストの復活で終わるキリスト教の世界のドラマを音楽で描いたもの」にするつもりであったと主張しました。

数の象徴がバッハの音楽に対してどの程度本質的なかかわりを持つかは研究者の意見が分かれるところですが、スメントらによって新たな研究分野が開かれたことは確かです。しかし数の象徴というものがあまりに際限なく広がってしまったために単なる「こじつけ」と見なす研究者もいます。例えばバッハ研究所に勤めたこともあるヴェントは「バッハと13」という挑戦的な題名の論文で何でもこじつけられるということを証明しようとしました。

2巻 嬰ハ長調 フーガ

バッハが自ら移調した作品のひとつである平均律クラヴィーア曲集2巻の3番嬰ハ長調フーガを見てみましょう。
バッハは#7個もの調号をもつ嬰ハ長調を平均律クラヴィーア曲集でだけ使用しました。
当時の調性格論者マッテゾン(1681生)は嬰ハ長調を「その効果がまだあまり知られていない」調に数えています。

このフーガはバロック音楽特有の高貴な華美に包まれていますが、その初期稿は素朴なハ長調フゲッタとして書かれたものです。(写真)
バッハは19小節しかないフゲッタを35小節に拡大し、トッカータ風の処理など大幅な手直しを加え、ハ長調を嬰ハ長調に移調して収録しました。初期稿
平均律クラヴィーア曲集は全曲が一度に書き下ろされたものではなく、折にふれて書かれたプレリューとトフーガを改作して編纂したものです。編纂時に移調されたと思われるものを以下にあげてみましょう。移調は調号の#♭が多いものから少ないものへ行われています。

1巻8番 変ホ短調フーガは 二短調から移調、2巻7番 変ホ長調フーガは ニ長調フゲッタから、2巻8番 嬰ニ短調は ニ短調から、2巻17番 変イ長調フーガは ヘ長調フゲッタから、2巻18番 嬰ト短調はト短調から移調されました。

平均律クラヴィーア曲集の中で音楽史上初めて用いられた調も幾つかありますが、そこで表現されている気分も従来になかった新しいものということはできません。
バッハは調性格の確立に重点を置いたのではなく、24すべての調を踏破することが「平均律クラヴィーア曲集」の目的でした。

バッハは移調によって音楽の本質が破壊されるとは考えていなかったのです。
イコール式で移調した楽譜も音楽の本質を破壊するものではありません。特に平均律でもって演奏する場合には全く利に適っていると言えます。
イコール式移調で音楽を相対音感的に学ぶことは良い耳を育てる最良の方法です。

2の12乗根

純正な音程が簡単な整数比になることから、音程の計算はもっぱら、掛け算と割り算で行いましたが、イギリスの数学者エリス(1814生)はこれを足し算と引き算で行う方法を考案しました。

エリスの方法とは半音の周波数比が2の12乗根になるという等分平均律のための計算法です。2はオクターヴの整数比を表し、12は半音が1オクターヴに12個あることを表しています。2の12乗根とは、2のルート12であり、ある数を12回掛けると2になる数ということもできます。そのある数とは1.059463094.......という無理数になります。
1.059×1.059×1.059......これを12回掛けると2になります。

今なら計算機で簡単に2の12乗根が出せますが、中世の頃にこれを筆算で出した人もいました。一番最初が中国の朱載育(1596生)、続いてメルセンヌ(1636生)、日本の中根元圭(1692生)などが計算しました。これは12
等分平均律の計算としては成立していましたが、機械を使わずに人間の耳だけで正確に無理数的調律をすることは出来ませんでした。そのため人間の耳で調律し易い不等分音律が使われました。
少なくともバッハが歴史的な「平均律クラヴィーア曲集」を編纂した1722年の時点では12等分平均律を人間の耳で調律していたとは考えにくいのです。何故ならばバッハが「15分で調律する」と言ったからです。人間の耳だけで簡単にたった15分で調律できるのは不等分音律であったと考えるのが妥当です。

バッハの死後約100を経てからエリスによって考案された平均律セント値は、皮肉なことに、古楽の不等分音律の音程計算にも利用されるようになりました。その理由は掛け算や割り算を使う周波数比率の計算が、セント値を使えば足し算と引き算で簡単に計算できるからです。

セント値を使うことによって、音律は1オクターヴが1200段の階段と考えることができるようになりました。平均律は100段ごとに半音の標識が規則正しく立っている状態です。スタート地点Cから−−−100段目にC#−ー−200m段目にD−−−300段目にD#の標識、更にどんどん上がって1200段目が1オクターヴ高いCになります。
不等分音律のミーントンでは76m段目にC#ーーー193段目にDーーー310段目にD#の標識があることになり、平均律とは相当違うことが分ります。
このように不等分音律は1オクターヴの配分の仕方によって無限の音律が考えられます。
やわらかなバッハの会
〒753-0072 山口県山口市大手町
3−6 大手町ビル4F
毎週土曜日18:00 PM
毎週金曜日10:00 AM
毎月1回   対話集会18:00 PM
都合により日時を変更する場合もありますので初めての方は事前にご連絡ください

お問い合わせはこちら

マンスリーバッハ (第2日曜日)
午後4時〜6〜時
場所:新山口駅構内

バッハ・イン・ザ・サブウェイズ
2019年3月21日
場所:新山口駅構内

<プロフィール>
やわらかなバッハの会 
会長 橋本絹代
新しい鍵盤楽器記譜法「イコール式」の創始者

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取り
バッハのとりこになった。
初級者でもバッハのフーガを楽む方法を提案している。

2007年 世界で初めての楽譜《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》カワイ出版 

2009 音楽書『やわらかなバッハ』春秋社

2013「やわらかなバッハの会」設立

2014 バッハ礼讃音楽祭 (於 旧県会議事堂) 毎年開催

2016 バッハ・イン・ザ・サブウェイズ (於 新山口駅構内)毎年開催

2017 Bach Network UK 対話会議研究発表 (於 ケンブリッジ大学)

2017 Prof.Yo Yomita (富田庸) 講演会「バッハを嗜む」主催(於山口大学)

2018 Thomas Cressy 明治150年記念「日本の明治時代におけるバッハ受容」

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも「どんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりすることはできない」と述べています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の中の難しい調を簡単な調に移調してまず親しむことが大切です。初級者は更にそれをアンサンブルで楽しむことが大切です。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。


世界唯一! 平均律クラヴィーア曲集の移調
音楽の構造が良く解る










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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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