1523年に出たアーロン(Pietro Aaron 1480頃〜1550頃)の著作はハープシコードの調律法について、「最初のC音を任意のピッチに置いてよい」と教えた。また、1542年のガナッシ(Fontego Dal Ganassi 1492〜16世紀中頃)の著書は「弦楽器と声のピッチは作品や演奏能力に合わせて自由に変えて良い」と教えている。
つまりピッチは自由に変えてよいというのだ。楽譜に書かれた音符は音の動きを示してはいるが、実際の音の高さ=ピッチを示しているわけではなかった。ピッチというものは記譜された音と関係なく歌手の声域如何によってその都度決められていたのである。

ピッチと記譜された音符との関係に一種の標準ピッチが用いられるようになるのは16世紀末になってからである。とはいえ、当時の標準ピッチは教会ごとに、或いは街ごとに異なる多様なものだった。

19世紀になってもまだ多様な標準ピッチが共存しており、都市や演奏団体ごとに違っていた。1810年にパリのオペラ座の標準ピッチは a‘=423 であったが、やがて432にまで上昇した。歌手たちの反対運動がそれを426まで下げさせることに成功した。しかし、1830年にはまた元に戻ってしまい、その後さらに上昇を続けた。1859年にフランス政府の委員会は標準ピッチを a’=435 と結論し、これが法的効力を持つようになった。
ところが、ロンドンのコヴェントガーデンオペラでは、ピッチが450 にも上昇した。1895年のプロムナード・コンサートにおいて異常に高いピッチで演奏しようとした時、ソプラノ歌手と咽喉医の圧力でピッチを435に下げるという条件で開催にこぎ着けることができた。ロンドンの他の都市もこれに倣い、ヨーロッパとアメリカ大陸のピアノ製造会社もその後を追った。

20世紀になるとピアノ貿易協約に至るピッチに関する複雑な議論が交わされた。この議論は国際標準化機構に移され、機構は1938年の英国規格協会会議勧告に従い、標準ピッチをa’=440と勧告した。この 440 が
今日に言うところの標準ピッチである。世界的な標準ピッチがやっと決まった。それは1938年。1938年といえば、プロコフィエフがピアノ・ソナタ第6番を書いたころだ。ということはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー、ラフマニノフなどのピアノ作品は標準ピッチが決定される以前に成立した作品である。従って、私たちは作曲家が意図した高さと違うピッチで今日演奏しているかもしれないのである。
例えば、バッハの時代は今日より約半音低かったと言われている。バッハがハ長調で書いた曲を今日の標準ピッチで演奏すると、バッハの耳には半音高い調に聞こえたことだろう。バッハが意図したピッチで演奏するには、半音低いロ長調で弾かねばならないことになる。バッハが書いた調で弾くべきとの主張はピッチの上から考えても矛盾していることになる。