第3回バッハ礼讃(らいさん)音楽会を7月31日に開催しました。バッハの命日7月28日を記念して、毎年この時期に開催しています。バッハ礼讃音楽会は「バッハが礼讃したものを礼讃する音楽会」という意味です。けっしてバッハという人間を礼讃するものではありません。その理由を述べましょう。
コンサートにおいては、とかく指揮者や演奏家が讃えられがちですが、その音楽は彼らが作ったものではありません。バッハの時代と違って、現在のコンサートは過去の作曲家のもの、他人の作品を演奏することが多いものです。それならばコンサートにおいて讃えられるべきは演奏家ではなく作曲家なのでしょうか。否、それも違います。本来、音楽というものは音を通じて宇宙の波動、宇宙の法則のような 「或る聖なるもの」 を讃えているのではないでしょうか。それこそがバッハの礼讃したものであり、バッハの作曲姿勢でした。バッハが礼讃したものが「バッハ礼讃音楽会」の目的とするものです。

バッハのみならず、名を成した偉人たちは、それぞれの分野において、名もなく形も無く言葉で言い表せない「或る聖なるもの」に目覚め、それを讃えました。「皮相な見解」である儀礼的、経典的、学説的なものを除去した「或る聖なるもの」 を礼讃しました。
バッハは自己に執着する芸術家のような自己表現には一切の関心を持ちませんでした。バッハは自我を捨て、ごく当たり前の生活の中で淡々と音楽を生産しました。今日に言うところの芸術家とはかけ離れており、むしろ技術者と言えるでしょう。バッハの音楽は宗教宗派を超越した宇宙の法則のようなものであり、バッハは楽譜の最後に「ただ神の栄光のために」と度々書いています。キリスト教ルター派として一生を終えたバッハですから 「ある聖なるもの」 「宇宙の法則」 といったものを 「神」 という言葉で表現しましたが、彼の真意はキリスト教の「神」に限定されず、あらゆる宗派に通底するとろの 「或る聖なるもの」 と考えられます。それこそが宗教宗派を超えてバッハの音楽に心から感動を覚える所以でしょう。

音楽会場は築100年の洋館、旧県会議事堂です。重厚感あふれる建物の中に優雅なバッハの音楽が鳴り響きました。30余名の奏者の熱演は、観客と一体となって、言葉に現せない或る聖なるものを感じとることができたように思います。

プログラム第1部は 《平均律クラヴィーア曲集第1巻》 の1番から12番までを順に演奏。
楽器は電子ピアノのソロあり、デュオあり。音色はオルガン、ハープシコード、ピアノなど曲によって様々です。中には、ヴァイオリンと電子ピアノで演奏した曲もありました。

プログラム第2部は、演奏形態自由、編曲自由のバッハ尽しです。

ヴォーカルとしては《インヴェンション》 8番 を男性2人が「ダバダバ」で合唱、
《マタイ受難曲》より アリア 「憐れんでください、神よ、私の涙ゆえに」 の カウンターテナー独唱、
《カンタータ186番》より「ああ、魂よ、憤ることなかれ」のソプラノ、アルト二重唱、
《無伴奏チェロ組曲1番》より「ジーグ」をバスのアカペラ独唱、
《クリスマスオラトリオ》より「主よ、勝ち誇れる敵どもの息まくとき」のテナー独唱など。

鍵盤楽器では《2つのヴァイオリンのための協奏曲》より第2楽章、
《チェンバロ協奏曲 5番》よりラルゴ、
《オルガン小曲集より》より「われ汝に呼ばわる」
《フランス組曲 6番》よりメヌエット など

その他にリュート独奏で《リュート組曲 BWV 996》より、アルマンド、ブーレ、
ダルシマーで「グノーのアヴェマリア」
鼓とのコラボで《無伴奏チェロ組曲 1番》よりプレリュード、
ジェンベとのコラボで《トッカータとフーガ ニ短調》、
ギターとコントラバスで《ゴルトベルク変奏曲》よりアリア、
ギターとのコラボで《トッカータとフーガ ニ短調》など。

最後は全員で《主よ人の望みの喜びよ》を演奏しました。続いて《G線上のアリア》でお客さまをお見送りしました。
長時間のコンサートでしたが、皆さんから「楽しかった」との感想をいただきました。
翌日の新聞には写真入りの大きな記事が載っていました。
高度な演奏を追及するアカデミックなバッハは演奏者を讃えることになりがちです。「バッハ礼讃音楽会」は演奏者ではなく、バッハが讃えた或る聖なるものを讃えます。誰でも自由にバッハ体験のできる「やわらかなバッハの会」が主体となって行っているこの音楽会は毎回大好評をいただいています。これからも暖かい目で見守っていただければ幸いです。