バッハが生きた時代の鍵盤楽器奏者は今日のピアニストとは異なり、自分が作った曲を演奏するのが当たり前でした。自分で作曲する力を持たず、他人が書いたものを音にするだけの人は「楽士」と呼ばれ、酒場のヴァイオリン弾きと同等の扱いを受けました。
「楽士」とは「他の人々が書いたものを楽器によって音にするという目的のために雇われる人」という意味でもありました。「雇われる」ということは「報酬を得る」と考えても良いでしょう。今日のピアニストは他の人々が書いたものを演奏してギャラを得ています。つまり、今日のピアニストは「楽士」と同じ行為をしているわけです。できるだけ高いギャラを得ることが高いステータスとなっていますが本当にそれでよいのでしょうか。音楽の本当の目的は何でしょうか。プロフィールに華々しい経歴を並べることが目的でしょうか。ステージで拍手喝采を浴び、高額のギャラを得ることが目的でしょうか。否、本当の目的は他のところにあるような気がします。華々しい経歴の中身はというと、日本においては難関有名音大の卒業、留学暦、著名教授の師事暦、コンクール暦から始まり、次にその立派な経歴が呼び寄せた数々のコンサート、内外オーケストラとの競演、受賞暦などです。これらはすべて審査委員や聴衆などの他人から見て自己の優秀性を証明するもの、つまり勝ち組を証明するものに他なりません。勝ち組になることが音楽の目的でしょうか。

音楽は本来人と競ったり、審査委員や評論家や聴衆に優劣を決めてもらうべきものでしょうか。否、音楽の起源は素朴な祈りでしょう。音楽を祈りとして考えると、音楽で人と競ってみたり、神ならね人間が優劣を判断するのはおかしな話です。しかも、今日のピアニストは自ら作曲しない場合が多いので、自分の祈りではなく他人の祈りを代読するに等しい状況です。祈りは本来一人静かに神と一体になることであって、その祈りは自分の内から汲み出す以外にはないはずです。他人の祈りをステージの上で仰々しく我が物顔で祈るものではないはずです。ましてその祈りによって聴衆からギャラを得たり、拍手喝采を浴びるのは音楽の本筋から外れているように思います。祈りはただ一人神の前にひざまずき自分のすべてを投げ出して感謝、讃美する行為です。演奏行為がこのように純粋な祈りであれば神に喜ばれるはずです。もし演奏行為が試験やコンクールやコンサートといった評価を伴う時は無用な緊張が伴うために、祈りというよりはむしろ大げさなパフォーマンスになってしまいます。

コンサートとは異なる教会の礼拝においては、演奏行為に対しての拍手やギャラはほとんどの場合ありません。なぜならば礼拝において讃えられるべきはただ神のみ、演奏行為はその神への讃美とみなされるからです。教会の礼拝ではコンサートのように演奏者を讃える拍手喝采は神への不遜であり場違いなものと考えられます。また、演奏の場も礼拝堂後部のバルコニーなど奏者の姿が見えない状態で音だけ聴こえる場合が多く、ステージでのスポットライトを浴びてのパフォーマンスとはかなり異なります。礼拝における祈りとしての音楽と、コンサートにおける娯楽的な音楽とではどちらが演奏者にとって幸せなのか考えさせられる問題です。

イコール式音楽研究所の主張はステージでパフォーマンスするための音楽ではありません。魂の至福を得るための音楽を目指しています。それには西洋音楽の中で最も優れた鍵盤曲と言われるバッハの《平均律クラヴィーア曲集》ほど宗教性に富んだ相応しいものはないと考えます。
専門的なピアニストも、ピアノ教師も、ピアノ愛好家も、学習途上の子供も、日々《平均律クラヴィーア曲集》を弾いて、決して乾くことのない水を汲んで欲しいと思います。この水を飲まずして、他の作曲家の曲ばかりを弾くのは大切な時間の無駄、人生の無駄ではないでしょうか。《平均律クラヴィーア曲集》を弾く時は速く流暢に弾こうとしたり、定評のある演奏家と比較検討してはいけません。音楽による真の祈りは他人の評価と無縁だからです。ただ無心に毎日少しの時間でも《平均律クラヴィーア曲集》と向き会うならば必ずや魂の奥底から至福の喜びが全身に広がるのを覚えることでしょう。

自分が作曲したのではないバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を弾くのでは、自分の内から湧き出る祈りにならず単なる「楽士」にすぎないのではないかと心配しないでください。バッハは他の作曲家のように、作曲家個人の感情をもって作曲したのではありません。なぜならバッハの曲は個人の感情を超越した宇宙の法則だからです。宇宙の法則とは神であり、神という目に見えないものを波動で感じることを可能にしたのがバッハなのです。

バッハの至福の喜びを得るためには鑑賞するだけでは不十分です。自らの持てる技術の範囲内で結構ですから実際に演奏しなければ本当の至福は味わえないのです。信仰告白も念仏も、知識として知っているだけ、あるいは他人が唱えるのを聞くだけでは不十分です。自ら念じ行じることが先決です。《平均律クラヴィーア曲集》もCDを聴くだけでは不十分です。たとえ1パートだけでも自分で弾くことによって宇宙の法則が心の奥底に伝わってくるのです。

イコール式の《平均律クラヴィーア曲集》は多くの利点を持ちますが、その中の一つとして技術的に簡単にしてあるということが上げられます。全曲をハ長調とイ短調に移調し、難しい調号を廃止しました。多くの方がイコール式の楽譜によって、《平均律クラヴィーア曲集》を身近に感じ、実際に弾いてくださることを願うものです。バッハを弾かずして、また《平均律クラヴィーア曲集》の全曲を弾かずしてピアノを弾いたとは決して言えないことを理解していただければ嬉しいと思います。シューマンは《平均律クラヴィーア曲集》を日々の糧と言い、カザルスは毎朝《平均律クラヴィーア曲集》を弾くことから一日を始めました。その理由は、《平均律クラヴィーア曲集》が音楽の中の音楽、最初にして最後、これを越える曲が未だ人類に与えられていないことを証明しているように思います。