英国クィーンズ大学音楽学部の富田庸はバッハに関する気鋭の研究者です。
彼は英国リーズ大学で「平均律クラヴィーア曲集第2巻」の論文によって博士号を取得しました。
また、ヘンレ版「平均律クラヴィーア曲集第2巻」の最新の校訂者として世界中の音楽家から注目されている研究者です。

富田庸は論文の中で、バッハが「平均律クラヴィーア曲集」を編集する際に移調したと思われる曲が幾つかあると述べています。バッハ全集 第12巻 (P.77)

富田庸は「ロンドン自筆譜の記譜中に同時に移調を試みたと考えられる根拠が修正箇所に見られるもの」として第2巻だけで8つのプレリュードやフーガを上げています。
バッハが移調したと見られる曲は編集第2段階の遠隔調に多く存在します。

2巻No.3 Cis: Fuga (C:の初期稿から移調)
  No.7 Es: Fuga (D:から)
  No.8 dis: Praeludium (e:から)
  No.8 dis: Fuga (d:から)
No.13 Fis: Fuga(F:から)
  No.17 As: Fuga (F:から)
  No.22 b: Praeludium (a:から)
  No.23 H: Fuga (C:から)
      
バッハは《平均律クラヴィーア曲集》を順番通り一気に完成させたのではありません。
草稿を発展拡張して編集し、それを浄書しながらも更なる改訂の手を何度も加えるという過程を経て書かれたものです。
更に出来上がった曲を弟子に教える時にもまた改訂の手を加え、それを弟子が写して持ってきた楽譜に書き込みました。
都合の悪いことにバッハは、レッスン中の改訂を、家に帰って自筆譜に書き改めることを怠っていました。
そのためいくつかの改訂稿が存在します。
バッハは生涯にわたって、文章を推敲するように、機会あるごとに改訂の手を加え続けたのです。
このように複雑な成立過程を経る中で、バッハは草稿を移調するという改訂も行いました。
バッハの手になる移調は、当時ほとんど使われなかった難しい調つまり遠隔調を作る一つの手段であったことが、富田庸の研究から明らかになったわけです。

ここで平均律クラヴィーア曲集第2巻の3番 嬰ハ長調フーガを例にとって考えてみましょう。
このフーガは初期ヴァージョンでは、一番基礎的なハ長調で書かれており、わずか19小節しかありませんでした。(  《平均律クラヴィーア曲集第2巻》  ベーレンライター P358参照)
またアグリーコラの筆写譜では、同じくハ長調ですが、30小節に増えています(同P352参照)
通常私たちが演奏しているものは、さらに増えて35小節です。これは32分音符の挿入により曲の終わりに向かって緊張感のあるものに作り変えたものです。小節数もさることながら、最も大きな改訂は半音上げて嬰ハ長調に移調したことです。

嬰ハ長調はシャープが7個もつく遠隔調であり、バッハの全作品の中でも《平均律クラヴィーア曲集》でしか使われていません。当時嬰ハ長調はよく知られておらず、バッハも最初から嬰ハ長調で作曲したとは考え難いのです。作曲家に聞けば先にハ長調で作曲してから移調したに違いないと言うことでしょう。

今私たちが嬰ハ長調フーガをハ長調で弾いたらバッハは何と言うでしょうか。
「半音低くて気持ち悪い」と今日の絶対音感者のようなことをバッハが言うでしょうか。
否、バッハは、調やピッチが変わっても音楽の生命は変わらないと言うことでしょう。
何故ならバッハ自身がハ長調で演奏した証拠の早期稿が現存するからです。

バッハの時代は絶対音感という概念が無く、楽譜に書かれている音とピッチの関係は絶対的なものではありませんでした。
例えばバッハはコーアトーンより、かなり高いピッチで調律されたオルガンでも見事に弾きこなしました。
もし、バッハが絶対音感で音楽を捕らえていたらピッチの違うオルガンで演奏することはできなかったはずです。

またバッハはカンタータ演奏の際、管弦楽や合唱と高すぎるオルガンのピッチをそろえるために、オルガンパートだけ低い調に移調しました。
もし、バッハが調性格にこだわっていたなら、オルガンパートを移調することはできなかったでしょう。
なぜなら、当時のオルガンは非平均律であり、調を変えれば、主和音の響きも何もかも変わってしまうのですから。

バッハの時代のピッチは町によってさまざまでしたし、一般に現在のピッチより約半音低かったとされています。
それならば、現在の半音高いピッチで弾くハ長調は、丁度バッハの時代の嬰ハ長調と同じピッチになるわけです。

このように調やピッチといったものは誠に不確実なものです。イコール式は不確実なものにこだわる愚を排します。ハ長調とイ短調の基本調に移調して音楽を正しく理解することの方がよほど大切です。イコール式音楽研究所はすべての調を絶対音感式固定ドで読む今日の鍵盤楽器教授法に警鐘を鳴らし、相対音感を大切にする教授法のひとつとしてハ長調とイ短調に限定したイコール式を提唱しています。
 



     

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