バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は鍵盤作品の聖書といわれるだけあって、世界各国から多数の出版が行われている。「バッハの平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書、ベートーヴェンのピアノソナタは新約聖書」という言葉も流布しているが果たしてバッハは旧約聖書だろうか?

バッハに対する有名な賛辞に「5番目の福音史家」という言葉がある。福音史家とは新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人である。バッハが5番目という意味であるからバッハは明らかに新約聖書である。旧約聖書に福音史家は無い。

またシュヴァイツァーは言う。「バッハは一つの終曲である。彼からはなにものも発しない。一切が彼のみを目指して進んできた」
もし、バッハが旧約聖書だというのなら、「バッハから何も発しない」というのに、実際は旧約から新約を発したのである。「一切がバッハのみをめざして進んできた」というなら、バッハは新約でなければならない。バッハは「一つの終曲である」 というのだから旧約が一つの終曲となってしまう。

従ってバッハは旧約ではなく、新約聖書と言うのが正しいのではないだろうか。バッハが新約だとすれば、旧約は何だろうか。バッハのみを目指して進んできたものといえばグレゴリオ聖歌だろうか。「グレゴリオ聖歌は旧約聖書、バッハの平均律クラヴィーア曲集は新約聖書」と言い直したい。

「平均律クラヴィーア曲集」が旧約聖書ではなく、新約聖書であるという考察が終わったところで本題に入ろう。

「平均律クラヴィーア曲集」というのは日本での呼び方であって、これが誤訳であると言われて久しい。原語のドイツ語は「上手く調律されたクラヴィーア曲集」という意味である。ドイツ以外の国ではそれぞれの国語で翻訳して出版されている。英語圏の出版社から出ているのもは「The Well Tempered Clavier」と訳されている。「well」は良いという意味で、これは原語のドイツ語に照らし合わせて正しい。ところが日本では明治時代に 「平均律」 翻訳されてしまい、今もそのまま使われている。素直に「良い」と訳せばよかったのだが、当ブログでは、「適正律クラヴィーア曲集」と訳すことにする。

「適正律クラヴィーア曲集」が最初に出版されたのは、1801年(バッハ没後50年)のフォルケル版であるフォルケルが校訂したのでフォルケル版という。その直後にシュヴェンケ版、ネーゲリ版が出版され、世界中に広がっていった。以下に主だった校訂版を列挙する。

1837年 悪名高い チェルニー版
1866年 旧バッハ全集の クロル版
1883年 他の校訂版との比較を欄外に記載した ビショッフ版
1894年 偉大なピアニスト、多数の作品を書いた作曲家 ブゾーニ版
1908年 全作品を難易度順に並べ替えた作曲家 バルトーク版
1090年 奏法についての詳しい注釈付き ムジェリーニ版
1924年 詳しい解説付き トーヴィー版
1950年 ヘンレ社の旧版 イルマー版
1953年 春秋社 井口基成版
1955年 ベーレンライター社 デュル版(2巻)
1977年 ウィーン原典版 デーンハルト版
1977年 全音楽譜 市田儀一郎版
1989年 ベーレンライター社 デュル版(1巻)
1997年 ヘンレ社の新版 ハイネマン版(1巻)
2005年 春秋社の新版 園田高弘版
2007年 ヘンレ社の新版 富田庸版(2巻)

原典版と言われるものは校訂者の解釈が入らないから、どれも同じかというとそういうわけにはいかない。たいていの校訂者は手稿資料の中から信憑性の高いものを選択し、それを主資料とする。資料の読み込みには当然、校訂者の視点が反映するので原典とはいえ、複数の原点版が存在することになる。

解釈版は、フィンガリング、フレージング、アーテキュレーション、デュナーミク、拍子記号、発想記号、テンポ記号など、校訂者によって大きく違う。
ピアニストのエレーヌ・グリモーは言う「バッハほどいわゆる正しい奏法が存在しない作曲家はいません」
バッハを演奏するにあたっては、先入観稔にとらわれることなく、自分の頭で考えることが特に大切である。