私の音楽の原点は小学生の頃の体験にあって、それはシュヴァイツァーの言葉と同様な体験であった。
――「バッハのフーガを練習したことのある子供は(その際どんなに機械的に行われたにせよ)声部進行を目のあたりに学び取るのであり、この直感はもう二度と消し去られることは無いであろう。そのような子供はどんな曲にも同様な音響の線による尊厳な動きを本能的に求めるようになり、その欠如を貧しさと感ずるであろう」――シュヴァイツァー

(その際どんなに機械的に行われたにせよ)という部分は特に大事である。なぜなら、作法を間違えて弾くと壊れてしまう曲もあるが、バッハはどのように弾かれても壊れない、機械的に弾かれても壊れない、我流で弾かれても壊れないからだ。

子供の頃、ピアノの愛好家だった父と一緒にバッハの曲を連弾で楽しんでいた頃の体験は忘れがたく、今でもあの貴重な体験が私の中に息づいている。「やわらかなバッハ」とは、まさにその到達した心境に他ならない。音楽を学ぶ上で、既成観念に囚われない自由な精神をモットーとするものである。

バッハを愛してやまなかった作曲家、レーガー(1873〜1916)は 「バッハはアカデミックに弾かねばならぬというのが、お偉い先生がたの合言葉になっていますが、演奏の本質に思いを致す時、この言葉を聞いただけで、私はときどき激しい怒りに襲われるのです」と言う。

父は子供にあまり極端な音大受験教育をさせようとしなかったが、今になって思うと、それは父の大学オ−ケストラの先輩、朝比奈隆(1908〜2001)の影響が大きかったのではないかと思う。朝比奈隆は大学の学生オーケストラの指揮者からやがてプロになり、最後には世界最長老指揮者として世界各国で活躍した。これまでに西洋音楽関係で文化勲章をもらったのは、山田耕筰と朝比奈隆の2人だけである。

朝比奈隆は言う――「スポーツのように体を動かせば良いと思われるようなものでも、アタマを使わなかったら負けてしまう。音楽もアタマを使え。アタマを使うとは自分で考えよということである。先生の言うことを鵜呑みにせず、自分で考える習慣を身につけると本当の意味で音楽が理解できるようになるものである」

作曲家ブラームス(Johannes Brahms 1833〜97)は言うーー「良い音楽家になるためにはピアノを練習するのと同じだけの時間を読書に費やさねばならい」

古楽オーケストラを立ち上げるた指揮者、チェロ奏者のアーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929〜2016)は言う――「もはやすべてを定められたものとして受け入れることはない。不遜や誤解に満ちた伝統によって築かれた解釈の不確実性は、関心を抱くものの探求によって揺らいでいる」――

ウィーン三羽烏の一人、ピアニスト、音楽学者のパウル・バドゥーラ=スコダ(Paul Badura-Skoda 1927〜)は言う――「常識は幾つかの規則としてまとめられ、世界中の音楽学校で”標準の作法”として教えられています。しかしこのように普遍化された奏法がバロックの伝統に合致する保証は全くないばかりか、多くの奏法は粗雑な単純化がもたらした”思い込み”に過ぎないのです。正しい知識の断片や、資料の部分的な参照から導かれ、限定された事象にのみ適用可能な奏法が、その他すべてに通用するわけではありません。」

父は大学と大学院の間、学生オーケストラのクラリネット奏者として過ごし、社会人になっても仕事の合間に世界中のオーケストラを聴いて歩き、家庭ではピアノ演奏を楽しんでいた。父が時には我流でバッハの鍵盤曲を弾き込んだとしてもバッハの音楽は壊れない。バッハは弾き手の自由に答えてくれる。そして何度弾いてもまた最初から繰り返して弾きたくなる。バッハはそのような尽きせぬ魅力をもっている。バッハの音楽の魅力は、理屈抜きで子供にもわかる。大人の固定観念を刷り込まれる前にバッハと出会うことが大切ではないだろうか。