ベートーヴェンは最初ネーフェのもとで作曲の基礎を学ぶが、やがてウィーンに出て本格的な作曲の勉強に励む。作曲の師はシュテファン大聖堂オルガニストの地位にあって、ウィーンで最も有名な教師、アルブレヒツベルガーである。アルブレヒツベルガーがベートヴェンを指導する際に使用したのはキルンベルガー著「純正作曲の技法」だった。これはバッハの弟子のキルベルガーが、バッハの作曲法を著したものである。作曲に関する理論書を全く書かなかったバッハの作曲法を知る上で最も重要な理論書である。当時、理論書はいくつもあり、本人が書いた理論書も多数あったにもかかわらず、師のアルブレヒツベルガーによって、バッハの理論体系が選ばれたことは重要である。。その理論書の第1部第1章は「音階と音階の調整について」から書かれており、音律は作曲の一部であり最も重要なものであることが強調されている。

ウィーンではそのころから「12等分平均律クラヴィーア曲集」について議論されていたものの、鍵盤楽器においてはまだ一般的ではなかった。当時はキルンベルガー音律が一般的であって、それがウィーン古典派にとってのまさに”今日の音律”であった。当然ベートーヴェンもキルンベルガー音律を前提として多数のピアノ作品を書いた。音律ばかりか、作曲理論もキルンベルガーに負うところが大きい。

ベートーヴェン自身の言葉にもあるように、彼は音律にはことさら敏感で合っただけに調選択には極めて厳格だった。
彼は言う「緊張長3度を持つホ長調から祝典的な表現に適したニ長調、ト長調への移調は出来ない」。これはキルンベルガー音律で作曲したベートーヴェンだから言えることで、12等分平均律で作曲していたら、緊張長3度も、祝典的もない。なぜなら、どの調の長3度も皆等しいからである。

もう少し詳しく説明すると、キルンベルガー音律におけるホ長調の長3度 「E-Gis」は406セントと極端に広い。等分平均律の長3度は400セント、純正の長3度は386セントである。比較するとキルンベルガー音律は非常に緊張した長3度であることがわかる。一方キルンベルガー音律における、ニ長調 「D-Fis」 や ト長調「G-H」 は386セン、つまり純正である。
キルンベルガー音律において、ホ長調からニ長調やト長調に移調するということは、長3度が406ー386=20セントも違ってくるということだ。だからベートーヴェンは「ホ長調からニ長調やト長調への移調はできない」と言ったのである。この言葉はベートーヴェンの作曲がキルンベルガー音律を前提としていることの証拠でもある。

今私たちは、ベートーヴェンのピアノソナタを12等分平均律で弾いている。ホ長調の長3度を平均律の400セントで弾いている。キルンベルガー音律以外の音律でベートーヴェンのピアノ作品を弾くと、音体系つまり精神が変わってしまう。だからベートーヴェンのピアノ作品は音律の違いによって窒息してしまっている。現在ほとんどのピアノ奏者が演奏しているベートーヴェンは作曲者が意図した音響とはかなり違っていると思われる。