バッハ平均律クラヴィーア曲集のテンポはアーティストによってかなり違っている。
例として平均律クラヴィーア曲集第1巻24番プレリュード、歩き続けるバスの上を2つの声部が対位法的に進行する夢のような美しいトリオソナタ。

速いテンポはグスタフ・レオンハルト(1928-2012)である。彼はオランダに生まれ、ウィーンやアムステルダムで活躍したチェンバロ奏者で、ピリオド楽器による古楽演奏の先駆けを作った。彼はこの曲を ♩=100  で演奏している。

遅いテンポはフリードリッヒ・グルダ(1930-2000)である。彼はウィーン生まれのピアニスト、広いレパートリーに加えて、ジャズにも興味を示すなど、新しい音楽の可能性を探る挑戦者だった。彼は♩=48 で演奏している。前述のレオンハルトと比べると、ほぼ2倍の遅さである。2人とも同世代の音楽家であるが、これほどまでにテンポは違う。

《平均律クラヴィーア曲集》といえば必ず名盤として名が上がるのは、 エドゥイン・フィッシャー(1886-1960)である。彼はスイスに生まれたピアニストで、少し古い時代に活躍した。テンポ は♩=66 とややグルダに近いが中庸のテンポである。

同じく名盤として名高い スヴャトスラフ・リヒテル(1915-79) はソビエト連邦のピアニストで、レオンハルト、グルダとほぼ同世代である。彼も ♩=52 でかなりゆっくり弾く。グルダに近い。

独特の解釈で人気の グレングールド(1932-82) はカナダのピアニストで奇異な行動で知られる。彼は ♩=88 でやや速めだが、レオンハルトの速さにはかなわない。

上記の5人を遅いテンポから順に並べてみると、グルダ・・・リヒテル・・・フィッシャー・・・グールド・・・レオンハルト となる。いったいどのテンポが正しいと言えるのだろうか?

古楽の第一人者アーノンクール(1929〜)はバッハの演奏について次のように述べている。「もはやすべてを定められたものとして受け入れることはない。不遜や誤解にみちた伝統によって築かれた解釈の不確実性は、関心を抱くものの探求によって揺らいでいる」

バッハの解釈は変遷し続けてきたし、これからも変遷するだろう。しかしバッハの音楽はどのように演奏しようとも、音楽の生命を損なうことがない。様々な演奏法で、様々な素晴らしさを発揮する。どのように演奏してもバッハになるところが、他の作曲家と違う。バッハは変幻自在の音楽といえるだろう。