バッハ亡きあと、バッハの作品は全世界にとって標準的なウィーン古典派の学匠たちの中へ浸透していった。バッハは生前、自分の作品を世間にあまり認めさせることができなかったのに反して、バッハの作品はウィーン古典派の血液として,識者やドイツのオルガニストによって伝承された。その流れの延長線上に、フォルケル(1749-1818)の『バッハの生涯、芸術および作品について』が史上初めて登場し、ドイツ愛国主義と共にバッハを狭いサークルから担ぎ出した。バッハの理解者の一人、ロホリッツ(1769-1842) も、彼の指導で創刊された 「一般音楽新聞」 にバッハについて数多くの記事を書きバッハの音楽が一般に広く理解されることに大きな貢献をした。
それまで主としてバッハのクラーヴィーア曲とオルガン曲が伝承がされてきたが、メンデルスゾーンは新しいバッハ伝承に貢献した。メンデルスゾーン(1809-47)
はマタイ受難曲を復活上演し、100年の眠りから目覚めさせのである。その後シューマン(1810-56)らがバッハ協会を設立し、バッハ全集の刊行が始まった。

バッハ伝承の初期の段階ではスヴィーテン男爵(Gottfried van Swieten 1734 - 1803)によるところが大きい。彼はオーストリア帝国政府の要人であり、大使としてベルリン滞在中にバッハの価値をいち早く認め、その作品を収集した。また彼は、ウィーン楽友協会の前身である音楽協会を設立した。スヴィーテン男爵はバッハのほかにヘンデルとバッハの息子達の作品も加えたバロック音楽のコレクションを作り上げ、ウィーン古典派の陰の指導者となった。

学校の音楽室にズラリと掲げてある音楽家の肖像画はバッハが一番左端である。次がウィーン古典派と呼ばれるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンである。
 
モーツァルト(1756-91)は、バッハ没後6年目に生まれたが、ウィーンに移り住んで間もない頃、スヴィーテン男爵のサロンに顔を出した。モーツァルトの手紙には「毎日曜日、12時にスヴィーテン男爵家へ行きます。そこではヘンデルとバッハしか演奏されません」とある。彼がバッハやヘンデルの作品のを知ったのは男爵のお陰だった。男爵はモーツァルトが亡くなった1791年12月5日には、茫然自失の妻コンスタンツェに代わって葬儀を取り仕切った。また1793年1月のレクイエムの初演に尽力したのもスヴィーテン男爵だった。

モーツァルトは旅の途中、ライプツィヒに立ち寄り、バッハのモテットを聴くやいなや「ここにはまだ学び取るものがある」と叫び、それを書き取ったという逸話も残っている。バッハに触れその真価を見抜きバッハを模範としていくつかのフーガを書いたり、《平均律クラヴィーア曲集》のいくつかを弦楽四重奏に編曲したりした。
モーツァルトが夭折しなければマタイ受難曲の蘇演を聴くこともできたであろう。

モーツァルトより先に生まれ、モーツァルトより後に亡くなったハイドン(1732-1809)は、バッハが亡くなったとき18歳だったことになる。ハイドンもスヴィーテン男爵のサロンでバッハとヘンデルの作品を知ったのである。ハイドンはモーツァルトよりいっそう深く男爵のサロンに入りこんでいた。代表作の《天地創造》と《四季》の台本をドイツ語に訳したのは男爵である。ハイドンは《平均律クラヴィーア曲集》の1801年の初版本を所有しており、当時としては珍しかった《ミサ曲ロ短調》も持っていた。ハイドンはバッハの息子エマーヌエルから教えを受け、父ゼバスティアン・バッハの精神上の弟子となったのである。対位法についての。

ベートーヴェン(1770-1827)はバッハ没後20年目に生まれた。彼は師のネーフェを通じて《平均律クラヴィーア曲集》を知った。それを早くも13歳で「すでにきわめて完璧に」弾いたという。ベートーヴェンもスヴィーテン男爵のサロンに出入りし、皆の前でバッハのフーガの演奏を引き受けていた。ベートーヴェンは《平均律クラヴィーア曲集》から生涯離れることはなかった。バッハの作品を印刷するようにブライトコップフ社に繰り返し手紙を出したり、出版予定のすべての作品を前もって予約したり、ホフマイスター社から予告されたクラヴィーアとオルガンのための作品全集に熱烈な賛辞を送ったりした。1800年にロホリッツがバッハの娘の生活を支えるための募金を呼びかけたとき、まっさきに寄付金を送った一人でもあった。さらに、彼のスケッチ帳にはBACHによる序曲の計画が書き込まれておりバッハへの崇拝の念は相当深かった。バッハのことを「ハーモニーの生みの親」と称賛したベートーヴェンの思いは、同時代の心ある作曲家と共にマタイ受難曲の蘇演となって結実するが、それをベートーヴェンは見るこを得ず亡くなった。
ウィーン古典派の血液となって体のすみずみまで浸透したバッハの音楽は、続くロマン派の作曲家にも深い影響を与えた。