《マタイ受難曲 BWV 244》 といえば、これはバッハの作品である。バッハの「作品」という表現はわれわれにとって自明のことである。しかしバッハ自身にとって「作品」という概念はどうであったかを考えてみたい。

BWV はバッハの作品番号を示すもので、 Bach(バッハ) Werk(作品) Verzeichnis(目録) の略である。これはバッハ没後200年ほど経って、フランクフルト大学図書館に勤務するシュミーダー(1901~1990)がバッハの全作品をジャンル別に整理したものである。だからシュミーダー番号とも言われている。この目録が国際的標準になり今日に至っている。というわけで、バッハは BWV に全く関与せずである。われわれは後世の「作品」観をバッハに当てはめているにすぎない。

われわれの概念からすれば、「作品」とは作者が自分の名前を永遠に刻むべく自ら制作するものである。独創的なもの、出来上がったもの、他者が勝手に手を加えることのできないものを誰々の「作品」という。しかし、礒山雅氏によると、バッハの手紙や序文、推薦状などに Werk (作品)という言葉は無く、バッハの文章の中で頻繁にあらわれるのは、Arbeit(仕事、作業、研究)だという。したがってバッハの手紙や序文は「この作品をお収めください」ではなく「この仕事をお収めください」という言い方をしていることになるという。バッハにとっての音楽は完成された「作品」ではなく、作業を意味する。それは現在進行形の「音楽」への意識である。「〇〇という作品を書いた作曲家」という発想はバッハにはないのである。バッハは常に現在進行形の音楽実践能力を示し続けることが重要だと考えていたのである。


音楽を「作品」ではなく、現在進行形の作業と考えるバッハにとって、作曲と演奏は不可分である。当時の楽曲は永久保存的なものではなく、1回限りの機会のために作られることが多かった。即興演奏も言うまでもなく1回限りのものである。たとえ楽譜に書かれた曲でも演奏の度に姿を変えた。
バッハはフリードリッヒ大王に招かれ、王が提示したテーマで見事な即興演奏を披露した。そしてライプチッヒに戻ったバッハは、王のテーマによる、3声と6声のリチェルカーレ、トリオソナタ、さまざまなカノンの楽譜を王に捧げた。これが《音楽の捧げもの BWV 1079》であるが、王の前で演奏したものと、楽譜に書いたものは、当然異なっていただろう。

われわれは《平均律クラヴィーア曲集》 と言うが、これもバッハは 《Das Wohltemperierte Clavier》 としか書いてない。《巧みに調律されたクラヴィーア》 という意味が書かれてあるのみで、「曲集」に当たる言葉は無い。われわれは後世の「作品」観をバッハに持ち込み、《平均律クラヴィーア曲集》も既に完成した作品として過去を向いた捉え方をしているようである。バッハにとっては、上手く調律されたクラヴィーアを使用する作業というほどの意味だった。 《平均律クラヴィーア曲集》は バッハが演奏する度に、生徒にレッスンする度に改訂の手が加えられ、姿を変え続けた。それでよいとバッハは考えていた。

バッハの教育用クラーヴィーア曲はすべて歌うような奏法の習得に加えて、作曲に関する充分な基礎感覚を養うことが求めらている。演奏と作曲は一体のものであり、演奏を学ぶことは作曲を学ぶことだった。
当時の作曲作業は定旋律の新たな発見や結合であると理解されていた。バッハにおいても当然のことながら音楽とは機会の度に生み出される新たな結合であり、ひとたび出来上がれば、再び新たな結合に委ねられるものである。
カンタータなども演奏の機会ごとにその条件に対応するように作り変えられることが多かった。例えば結婚式のカンタータ 《満ち足れるプライセの都よ BWV 216 》 の第3曲は 《われはおのがうちに満ち足れり BWV 204》 からの転用である。同じく第7曲は《破れ、砕け、壊て BWV 205》 からの転用である。

礒山氏によると バッハは Werk(作品)という言葉を使わなったということである。この言葉がバッハに関して初めて現われるのは、バッハの没後まもなくである。息子のC.P.E.バッハが 父の大作《フーガの技法》 を出版する際に Werk((作品) という言葉を使って、《フーガの技法》 の販売広告を出したのが最初である。
またバッハの最晩年における《ミサ曲ロ短調》は演奏の機会が存在しない状況下であるにもかかわらず、死後に残すことを意識して完成させたと思われる。この発想はWerk(作品)という言葉こそ使わなかったが、近代的な意味での「作品」という観念がバッハの意識の中に芽生えていたとみることもできるだろう。