ラビ・マーヴィン・トケイヤー(1936〜)はユダヤ人にしてユダヤ教団の教師である。彼の著書 『日本には教育がない』によると、日本では受験と教育が同義語になっているという。

日本には教育という一つの言葉しかないが、自分たちには2つの言葉があるという。すなわち learn と Studyである。小学生にあっては Learn、中学生以上は Study するという。2つの言葉はともに勉強するという意味を持ちながら、Learn は 受け身になって「習う、教わる」、一方 Study は生徒が主体性を持って自ら積極的に学ぶことだと。日本では小学生から大学生まで Learn して Study がない。

音楽教育についても全く同様のことが言える
日本では小学生から大学生まで Learn して Study がない。

小中高の音楽の授業、各種ピアノ教室の音大受験教育、音楽専門学校、音楽大学など、どこでも受け身で、「習う、教わる」だけである。
主体的にStudy しないから、先生の言うことを鵜呑みにするだけである。取りあえず回答だけを覚える。表面的なテクニックの上達だけに走る。実は教師自身も気づかぬまま、間違ったことを生徒に教えている場合もあるというのに。

教師の言うことを間違っているかどうか考えるのは、Learn だけの生徒には無理である。
先生の言うことを主体性をもって本気で Study するという姿勢がないから、何でも疑わずに鵜呑みにしてしまう。

歴史上最初のバッハ評伝を書いたフォルケル(1749〜1818)は辛辣に言う。
「偉大な音楽作品の真の享受をいっそう普及させるためには、よりすぐれた教師が何よりも必要である。すぐれた教師のいないことこそ、音楽におけるあらゆる災いの源泉である。未熟で不勉強な教師が体面を保とうとすれば、すぐれた芸術作品を生徒たちの前でけなさざるを得ない。さもないと、それらの作品を聴かせてほしいと、生徒たちから求められる恐れがあるからだ。こうして生徒は愚にもつかぬへぼピアノ教師に時間と労力と金を浪費せざるを得ず、おそらく5,6年たっても、本当の音楽教養という点で、最初にくらべて少しの進歩も見られないことになろう」

フォルケルはバッハの音楽を最初に発掘した人である。バッハの死後、世間から忘れ去られた大作曲家の存在を世に知らしめた人である。
彼はバッハを教えるピアノ教師こそ優れた教師と考えた。バッハを教えるピアノ教師の不在が音楽におけるあらゆる災いの源泉であると言うのだ。
バッハを教えようとしないへぼ教師につくと、時間と労力と金を浪費するだけというのである。

しかし今日、ピアノ教師たちの多くは、バッハは難しいから教えられないと言う。
難しければ、簡単にして教えようと努力して欲しい。
例えば移調したり、アンサンブルで1パートだけ弾かせたりすれば、初心者でもバッハを弾くことができる。
どのような形であれ、バッハの音楽に触れさせることが先決である。

宗教家、オルガニスト、医師のシュヴァイツァー(1875〜1965)は言う。
「バッハのフーガを練習したことのある子供は(その際どんなに機械的に行われたにせよ)声部進行を目のあたりに学び取るのであり、この直感はもう二度と消し去られることはないであろう。そのような子供はどんな曲にも同様な音響の線による尊厳な動きを本能的に求めるようになり、その欠如を貧しさと感ずるであろう」と


バッハの音楽を信ずる者は限りなき命を得て永遠に輝かん。
バッハは創り主の言葉なり、バッハの音楽はバッハの思想の言うところに非ず、
神バッハと共にありて、バッハもまた自らの音楽の内に神の声を聞くなり
バッハはラッパなり、
汝らバッハが示すところの神を崇めよ
バッハを崇めよと言うには非ず
バッハはただ天の使いなり