我々が音楽を奏でようとする時、声楽は勿論のこと、ヴァイオリンなども自ら音程を作って奏する。音程が悪いと音痴ということになる。音程の良し悪しは演奏の生命線である。
今、当たり前のことを述べたに過ぎないが、こと鍵盤楽器に限っては全く事情が違うのである。ピアノ奏者は自ら音程を作らない。奏者がいくら歌って弾こうとしても、鍵盤楽器の音程は一定である。予め調律師に作ってもらった音程で弾くしかない。逆に言えば、鍵盤楽器は音痴でも弾けるということである。音程の善し悪しを問うことができないからだ。猫が踏んでも一流のピアニストが弾いても、音程に関する限り全く同じだ。ピアノはタッチによって音色が変わるので、音色の変化はあるが音程の変化は無い。
ピアニストは自ら音程を作らず、人任せの音程で演奏するしかないので音程というものに無関心である。

昔は鍵盤楽器の奏者が自ら調律したものである。バッハもクラヴィコード(鍵盤楽器)をたった15分で調律したという。クラヴィコードとは鍵盤楽器の総称であり、ピアノの前身であるが、クラヴィコードを調律する調律師という職業はなかった。クラヴィーアの奏者は必ず、好むところの調律を自ら施して演奏したのである。
ヴェイオリンの調律師が存在しないように、クラヴィーアの調律師も存在しない。それは当たり前のことだった。

ではなぜ今日我々はピアノを自ら調律しないのか、調律師にやってもらわねばならないのか。なぜ自分の演奏行為が人任せの調律なのか。
クラヴィコードに比べて、ピアノは大掛かりで調律が難しいという単純に物理的な問題では片付けられない重大な問題がそこにはある。

今日のピアニストといえば演奏専門の音楽家であるが、昔の音楽家は、3つのことを1人でカバーしていた。すなわち、作曲、調律、演奏の3つを一人の人間がやっていた。
自ら曲を作り、自ら楽器を調律し、自ら演奏した。バッハの時代、これが当たり前だった。
それに引き換え、今日の音楽家は、作曲するだけ、調律するだけ、演奏するだけと分業化し、3分の1人前でしかない。

昔は作曲家と演奏家が同じだったので、必然的にその時代の現代音楽が演奏された。ところが今日ではピアニストは曲を作らないし、作曲家は現代曲を作るもほとんど演奏されない。今日のプログラムは、ほとんどがベートーヴェンやショパンといった過去の作曲家の作品である。だから今日の音楽界は、現代音楽ではなく過去の音楽界の様相を呈している。

今日のピアニストは、なぜ自作の現代曲を演奏しないのだろうか?
昔は自分で音楽を作らない奏者は酒場のヴァイオリン弾きと同等の扱いを受けた。
彼らは人が書いた曲を楽器によって音にするだけに雇われるのであり、通常身分が低かった。彼らは「楽士」と呼ばれ、音楽家とは見なされなかった。
以上の認識からすると、今日のピアニストは人が書いた曲を、ピアノによって音にするだけなので、酒場のヴァイオリン弾き、「楽士」と言わざると得ない。

今日の作曲家は、通常、ステージでは演奏できず、調律も人任せである。
今日の調律師は、通常、シテージでは演奏できず、作曲法も知らない。
今日のピアニストは、通常、作曲も、調律もできない。

昔は3つの仕事を一人の人間がやっていたものを何時から分業することになったのか。
バッハもモーツァルトも自ら作った曲を演奏した。ベートーヴェンも若い頃は自分の作品を自分で演奏した。しかし耳が聞こえなくなった頃からベートーヴェンは人前で演奏しなくなった。またシューマンも指の故障でピアノが弾けなくなり、作曲に専念することになった。弾けない作曲家に代わって、ピアノを演奏する人が必要になった。このあたりが作曲家とピアニストの分岐点ではなかろうか。

また時代を同じくして、12等分平均律というバカチョンカメラのような調律が台頭してくる。この調律はオクターヴ以外のすべての音程が狂っている。純正の響きがひとつもない。音の素材は半音しかないという世界、どの調も同じモノクロの世界になってしまった。だから作曲家は音の素材の作り方を学ぶ必要がなくなった。音の素材とは調律法に直結する問題である。如何なる素材で音階を作るかということは作曲家にとって生命線であるはずである。ところが今では、音の素材は決まり切った不精音律、オクターブを頭ごなしに12等分する機械的な音律で作曲する。あるいは、微分音やコンピューターを駆使する音楽を書くが聴衆はついていけない。もはや音楽とは見なされないものとなりつつある。
調律師も12等分平均律で調律するから誰がやっても同じような調律である。調律師の腕の見せ所は音律如何ではない。音色、音質だけである。
ピアニストもペダルを踏んで目にも止まらぬ速さでパッセージを弾いてしまえば、12等分平均律の狂った音程でもさほど気にならない。
かくして、ピアニストは純正の響きと縁を切り、12等分平均律の不純さに慣らされてしまった。

時代は19世紀前半である。市民革命によって、音楽は教会と貴族のもとから音楽ホールや劇場、ブルジョワ市民のものに移っていく時代である。演奏できなくなったベートヴェンやシューマンに代わって演奏する職業ピアニストが誕生してきた時代である。彼らは、大ホールでの大音響と、音楽的に無知な聴衆にうけるべく超絶技巧を追求していく。他人が作った音楽、例えばベートーヴェンの悲愴を、我が物顔で情緒たっぷりに演奏する。しかし、それはベートヴェンの悲愴であってピアニストの悲愴ではない。

革命後の聴衆は純粋音楽よりも文学的で分かりやすい音楽を好み、甘いロマンティックな曲、華々しいパッセージ、迫力ある演奏に熱狂するようになる。ステージで脚光を浴びるピアニストはスター扱いされる。聴衆はピアニストに恋焦がれ、ファンクラブを作る。作曲家のほとんどは草葉の陰の人である。

かくしてピアノ音楽界はネコ踏んじゃったの世界に、2度と戻れない音楽の終焉に向かっている。