旧ソ連の作曲家シュニトケ(1934〜98)は「あまねく世界に神は存在し、あまねく音楽にバッハは存在する」という言葉を残した。これは数ある賞賛の言葉の中でも最大級ではないだろうか。
他にもバッハ賞賛の言葉として「五番目の福音史家」と言うのもある。福音史家とは聖書の福音書を書いたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人のことである。彼らに次ぐ5番目の福音史家がバッハというわけだ。
同様に「神様はバッハにかなりの借りがある」とも言われてきた。

古今東西あらゆる作曲家がバッハを神のごとく崇めている事実、これはバッハ一人だけに許される例外的な賞賛であり、他の作曲家ではダメなのである。音楽をよく知る者には何故バッハなのか自明のことである。しかし一般の人たちにはあまり理解されてないようだ。

世間一般ではクラシック作曲家といえばバッハよりベートーヴェンの方が有名だろう。。5線ノートの表紙にはベートーヴェンの顔が描かれ、クラシックといえば「運命」、年末には第九の「歓喜の歌」が街中にあふれ、1万人もの人が大合唱する。ベートーヴェンはまさにクラシック音楽の象徴的存在となった感がある。

最近話題になった佐村河内守も「現代のベートーヴェン」という誠に厚かましいコピーを実に巧みに使って成功した。耳が聞こえないベートーヴェンという偉人伝が衆知されているからこそ、耳の聞こえない佐村河内守が作曲したということで世に受け入れられたのである。世間というものは音楽そのものの価値より、逸話や伝記の方が大切らしい。というより逸話やストーリーしか理解できないから音楽には無頓着と言った方が正確かもしれない。

くだんの交響曲第1番も「現代のベートヴェン、佐村河内守」の作品だと宣伝したから世に出たのである。決して音楽そのものの価値によるのではない。ゴーストライターの「新垣隆」の名前で出したのでは誰も見向きもしないだろう。新垣隆はおろか、団伊玖磨、芥川也寸志、諸井三郎、松村貞三などの多少は名の知れた作曲家の交響曲1番でさえ、誰も見向きはしない。現況では、いくら名門音大を卒業しても自作曲をオーケストラで演奏してもらえるうチャンスはほとんど無い。その意味では新垣隆はある種の満足を得ていたと思う。自分の名前は世に出なくとも、自作曲が多くの人の耳に届き、賞賛されたのだから。しかしその賞賛の大部分は音楽ではなく、耳が聞こえない作曲家が作ったという逸話やストーリーに反応したに過ぎない。しかもその作曲家がマスコミによって作られた偽者であったことを冷静に判断すべきだろう。世間は音楽ではなく、逸話やストーリー、果てはブランドによって判断するという事実、マスコニによって洗脳される大衆の迷妄を見せつけられた事件と言わざるを得ない。

もしバッハに面白い逸話でもあったならば大衆にもっと受け入れられていたかもしれないが、バッハの音楽はそのような低級なものを必要としない。音楽の価値だけで君臨している。
古今の作曲家の中でバッハほど人生の経過と作品の成立が無関係な芸術家はいたためしがない。
またバッハほどその生涯について知られている情報が少なく興味を呼ばない芸術家もないのである。
しかし音楽芸術の本源は神への賛美である。音の波動である。作曲家の逸話やストーリーは邪魔にこそなれ全く不要のものである。

バッハの作曲活動はもっぱら神への賛美のためだけに行われた。だから彼の音楽芸術は世間とも世間における成功不成功ともなんら関係がなかったのである。音のない精霊の音なのだ。
バッハは内面的には世間と縁を切っていたので、彼の全思索は驚くべき晴れやかな死への憧れによって浄化されている。自我を放棄し、自我を超えたとき、あたかも飛行機が雲の上に出ると常住の青空の輝きが見えるように音楽が輝き始める。迷いの雲を突き抜けた光明世界がバッハの音楽である。光明世界の音楽は鳴り響く宇宙の法則、それは神の波動である。

反対に神から離れて自我に固執する音楽は無明である。宇宙の法則を書かないで、自分の考えたことや自分の勝手な夢を書く。無明を美だと思い違いして自分のノイローゼを売ろうとする。そういった音楽はいくら平和を唱えても平和になりようがない。せいぜい革命思想になるだけだ。

バッハの実生活は子供たちと家庭がすべてだった。20人もの子供を作り、安定した生活、幸福で多忙な毎日だった。そして何より平凡な日々だった。勤勉に働く日常生活の中でバッハは常に死を憧憬し、死こそ生活の真の完成であると確信していた。バッハは自我の死こそ永遠の命だという悟りにも似た精神をもって超越的視点で世の中を見ていた。
だからこそバッハの音楽は超越的で永遠である。バッハは永遠にその価値を失わないと同時に、何時の時代にあっても常に「新しい音楽」としてわれわれの前に変幻自在の姿で顕れてくる。

シューバルト(1739〜91)は
「人間がいつの日かバッハの精神に到達するまでには幾世紀かを要するだろう」と述べた。

ドビュッシー(1862〜1918)は
「好意にあふれた神バッハの業績に私たちが目を向けるなら、つい昨日書かれたように思われる箇所をいたるところに見出せるーー中略ーー今日なお凌駕するもののないその作品に、趣味のひとつのあやまりも探すだけ無駄であろう」と述べた。

ブゾーニ(1866〜1924)は「バッハの作品は幾世紀にも先んじ、時代を超える巨大な姿を呈している。ハイドンとモーツァルトのピアノ曲は実を言うとバッハ以上にわれわれから遠く離れて位置し、彼らの時代の枠に完全に適合している」と述べた。