バッハの没後、彼の音楽は時代から取り残され埋もれてしまった。しかしバッハの音楽の真価を世に先んじて示した人がいた。フォルケル(Johann Nikolaus Forkel 1749〜1818)という音楽学者、ゲッティンゲン大学の音楽監督を務め、ドイツ音楽史の最も重要な存在の一人である。彼は1802年に『バッハの生涯 芸術および作品について』を書き、バッハの真価を世に問うた。メンデルスゾーンのバッハ蘇演よりも27年も前に書いたのである。

フォルケルは言う。
「音楽家が偉大なものを求めずして小なるものや目先の快楽を求めるのは、ギリシャやローマの古典を知らないことに等しい」と。
また「バッハの作品を研究した者には、つまらない音楽と本当の音楽との区別が明らかになる」とも述べた。

フォルケルがこのように述べた1802年とはどのような時代であったか、「つまらない音楽」とは何を指すのか。
1802年といえば、バッハはとうの昔に亡く、バッハの息子たちも全員亡くなり、バッハの孫のエルンストが43歳である。

バッハが生きた時代はオペラが流行の先端を行く花形となってきたときである。そこでは独唱者と簡単な伴奏、つまりメロディーと3和音による和声音楽が主流となる。これが楽器の世界においても主流となり、軽快でわかりやすく耳に快い和声音楽にすべての音楽家が魂を売ってしまう。彼らはこれを「新しい音楽」と呼んでわれもわれもと夢中になっていく。
しかしバッハ一人だけは流行の和声的な「新しい音楽」に満足できなかった。バッハが晩年に作曲した《フーガの技法》や《音楽の捧げ物》などは対位法芸術の金字塔である。時代を超越し世俗と隔絶した究極の対位法芸術である。バッハは人生の終わり近くに断固として対位法音楽を書くが、これは時代の潮流である「新しい音楽」に警告を発する遺言である。当時の作曲家の誰一人としてバッハの遺言に耳をかたむける者はいなかったが。

バッハの没後50年あまり経った時、ようやくバッハの真価を認める人たちが出てきた。フォルケルが崇高な芸術を世の忘却から救うべく、人々にバッハへの注意を喚起せしめた功績はきわめて大きい。フォルケルこそがバッハ復興の原動力である。フォルケルの功績がなければメンデスルゾーンの《マタイ受難曲》の復活上演もなかっただろう。復活上演の大成功によってバッハ100年忌にはバッハ協会が設立される。
バッハ協会は50年という長期計画でバッハの全作品の出版を計画し、『旧バッハ全集』が完成する。
『旧バッハ全集』を基にバッハの音楽を演奏によって一般社会に広めようと毎年「バッハ祭」が開催される。
『「バッハ年鑑』も刊行され、バッハの音楽の普及と研究がいよいよ盛んになる。
バッハ200年忌には全作品の厳密な資料批判に基づく『新バッハ全集』の刊行プロジェクトが始まる。ドイツは国家的大事業としてこれに取組み、50年以上の歳月をかけて2007年にようやく最終巻が刊行される。こうしてバッハの芸術は学問的にも充実する。古楽の発達によって演奏実践においても大きな収穫を得ることになる。

我々は今バッハの真価を知っている。バッハが否定した和声音楽の崩壊を既に見た。新しい音楽の終着駅は音楽の終焉だった。音楽は宇宙を貫く生命、宇宙を貫く法則であった。
「それ見たことか」というバッハの声が聞こえる。今こそバッハに帰ろう、父の家に帰ろう。バッハはきっと放蕩息子を暖かく迎えてくれるだろう。