いわゆるクラシックと呼ばれる音楽はキリスト教音楽を起源とする西洋音楽であるが、日本はこれを2度輸入した。

1度目の輸入は1549年のキリスト教伝来である。宣教師ザビエルの一行が日本で初めてミサを捧げ、鹿児島、大分、山口など各地で西洋音楽を響かせた。1582年には天正少年使節の一行が船でヨーロッパを目指した。少年たちは既に宣教師からラテン語と西洋音楽を学んでいた上に、ヨーロッパに向かう船中も学習を怠らなかった。ポルトガルに着くと、少年たちは大聖堂のミサに参加した。伊藤マンショと千々石ミゲルは、そこで初めて3段式の鍵盤を持つオルガンを目にしたが、かれらは多くの人の前で臆することなくオルガンを見事に演奏し大司教も人々も満足した。

単純に年代から考えて、マショー、デュファイ、ジョスカン・デプレ、カベソン、アルカーデルト、バード、ラッソ、パレストリーナ、スウェーリンク、ダウランド、モンテヴェルディ、プレトーリウス、フレスコバルディ、ギボンズ、シュッツ、シャイトなどの宗教音楽を日本人が知り得たと思われる。1591年には豊臣秀吉の前でジョスカン・デ・プレの曲が演奏されたという記録もある。器用な日本人が一生懸命に西洋音楽をマスターしようとしていた矢先、江戸幕府は1639年に鎖国してしまう。鎖国しただけではなく、禁教令によって西洋音楽を演奏することは許されなくなる。西洋音楽が日本から消えてしまった。

バッハは1685年生まれ、鎖国から46年後にドイツに生まれた作曲家である。バッハの没後、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、などが活躍している時、日本は鎖国をしていた。

2度目の輸入は明治時代である。
1度目に輸入した西洋音楽は禁教令以降、,隠れキリシタンが密かにオラショを歌っていたものの、いわゆる西洋音楽は壊滅状態だった。日本では能や歌舞伎が全盛期を迎えていた。そこへいきなり開国と共にクラシックが入ってきたのであるから、右も左も分からない状態でやみくもに受容せざるを得なかった。

明治も中頃になって、伊藤博文はアジアで始めての憲法をドイツに学ぶべく視察に出かけた。そこで晩年のリストのピアノ演奏を生で聴いた。伊藤は感激してリストを日本に招こうとしたが実現しなかったと言う。ちなみに伊藤は1841年生まれでドヴォルジャークと丁度同い年であり、勿論リストより若い。

鎖国している間に、西洋で活躍した音楽家、すなわち ヴィヴァルディー、テーレマン、ラモー、バッハ、ヘンデル、スカルラッティ、グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、ロッシーニ、シューベルト、ベルリオーズ、ショパン、シューマンなどは、伊藤博文が渡欧したときには既にこの世になかった。
晩年のリスト、ヴェルディ、フランク、ヴァーグナー、ブラームスなどがまだ生きていたが、時代はもう新しい音楽に移行しつつあるときに、伊藤博文は渡欧したのである。

明治政府は信濃国の下級武士の子である、伊沢修二を音楽取調掛(のちの東京芸大)に任命した。1879年のことである。井澤はアメリカ合衆国マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学び、ルーサー・メーソンから音楽教育を学んだ。またハーバード大学で理化学を学び、地質研究などを行い。聾唖教育も研究した。。
伊沢は大学南校(のちの東大)に学んだ秀才であったが、邦楽の素養すらなく、音楽を取り調べるという取り組み方だった。伊沢は、メーソンを日本に招き、「小学校唱歌」の編纂をした。

その時メーソンは小学校の教師養成のためのピアノ入門書をもってきた。有名なバイエルである。日本人はバイエルを世界的なピアノ入門書と信じて受容したが、本場ヨーロッパではマイナーだった。メーソンはヨーロッパの伝統的な音楽家ではなく、アメリカの、しかも初等音楽の教育者であるから芸術家ではなかった。日本における2度目の西洋音楽の輸入が、メーソンでなく、リストであったら、日本の音楽事情は多少変わっていたかもしれないと思う。

バッハの《平均律クラヴィーア曲集》という題名も明治期の西洋音楽受容の混乱がもたらした産物である。これは明らかな誤訳である。バッハはこの曲集の題名としてドイツ語で「Das Wohltemperierte clavier」と書いた。直訳すると「上手く調律されたクラヴィーア曲集」となるはずだ。clavier(クラヴィーア)とは鍵盤楽器全般を意味する言葉である。重要なのは「Wohletemperierte」という語である。これはWohle と temperierte の合成語で、temperierte は調律、音律という意味である。 Wohle をどう訳すかが問題である。ドイツ語で Wohleは「良い、上手い」といった意味になる。決して「平均律」ではない。

バッハはヴェルクマイスター(Andreas Werckmeister 1645〜 1706) が書いた Wohle temperiert stimmen (適度に調整して調律する) という表現にならって Wohle temperierte と書いたのだろう。
もしバッハが「平均律」を意味し、それを明記したかったら 「greich schuweven (等しく唸る)」としたはずだ。

《平均律クラヴィーア曲集》は鍵盤作品の金字塔であり、世界中で出版されている。英語では Wohle を well (良い)、仏語では bien(良い)と翻訳されている。
日本語だけが Wohle  勝手に「平均律」と誤訳した。それには鎖国の影響もあった。世界が「平均律」になってから西洋音楽を受容したという事情があった。バッハの時代やそれ以前も以後も、ヨーロッパではミーントーンやキルンベルガー音律の鍵盤楽器が主流であったことを知らなかったのではないか。またそういった音律に関する複雑な問題も知らなかったのではないか。明治になって日本に鍵盤楽器が入ってきたとき、世界の鍵盤楽器は既に平均律に移行していた。だから短絡的に「平均律」だと思い込んだのかもしれない。この思い込みが現在も尾を引いており、今でも《平均律クラヴィーア曲集》と呼んでいる。今ではこれが誤訳であることを知る人も多くなってきたが、慣れ親しんだ誤訳を他の言葉に置き換えることに強い抵抗があるようである。