《平均律クラヴィーア曲集》 には24の調が網羅されている。その最後を飾る調はロ短調であるが、ロ短調とは何ぞや。それは「ロ」の音を主音とする、あるいは音階開始音とするところの短音階である。
短音階とは何ぞやといえば、バッハが確立した2種の音階、すなわち長音階と短音階である。長音階と短音階は半音の位置がそれぞれ違う。半音の位置がそれぞれ違うから長音階は明るく短音階は寂しい性格をもつ。2種類の音階に2種類の異なる性格が存在する。厳密に言えば、12平均律の場合において2種類の音階に2種類の異なる性格が存在する。

ところでバッハが長音階と短音階を確立するまでの音楽はどうであったか。それは教会旋法であった。教会旋法の種類は一般的に6つある。イオニア、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディア、エオリアという6つの旋法は半音の位置がそれぞれ違う。半音の位置がそれぞれ違うから6種類の音階に6種類の性格が存在することになる。
バッハがたくさんの教会旋法をエオリア旋法とイオニア旋法に集約し、長音階と短音階に確立した時から、音階の種類も性格も6種類から2種類に減少したのである。

にもかかわらずバッハの時代の長音階と短音階は2種類の性格以上のたくさんの性格を持っていた。なぜか?
バッハの時代は現在の12平均律とは違い、半音の幅が異なる不等分音律の鍵盤楽器を使っていた。半音の幅がそれぞれ異なるので、同じ短音階でもそれぞれの異なる性格が存在した、しかし現在は12平均律になってしまったので、短音階はどれも同じ性格である。つまり12平均においては長短2つの性格しかない。
ただし現在においても、不等分音律に調律した鍵盤楽器や、ヴァイオリンなど奏者が意識的に12平均律を避けて演奏できる楽器は、同じ短調でも異なる性格が存在する。それらは不等分音律を奏でることが可能であるからそれぞれの異なる性格の短調を演奏できる。
調性格を論じる時は、12平均律と不等分音律を分けて考えることが大切である。

現在世界中で使われている12平均律において、ロ短調の「ロ」とは何ぞやというと「ロ」の音つまり「シ」の高さの音が音階開始音ということである。
問題はこの「シ」の高さが歴史的に常に変動していることである。
「シ」の音の高さというのは何かというと、標準ピッチに対する高さである。
オーケストラの演奏会に行くと、いろいろな楽器の奏者がa'=440でピッチを合わせているが、この440 Hz が標準ピッチである。標準ピッチは「ラ」の音で示すので、「シ」の音はそれより1音高い。ところがこの標準ピッチが最近は445まで上げているオーケストラもあって変動している。標準ピッチが上がれば、「シ」の音も上がる。
反対にバッハの時代は標準ピッシが現在より約半音低かった。ということはバッハの「シ」の音は、現在の「♭シ」である。ピッチでもって調を決めれば、バッハのロ短調は今や変ロ短調と言わねばならない。
これは可笑しいと誰もが思う。ピッチで調を決定するのは可笑しいと思うからであろう。

ところがである。絶対音感教育は、標準音=440 における主音の高さでもって調を判断する。もしバッハの時代のピッチに準じてロ短調を演奏すれば、絶対音感保持者には変ロ短調に聞こえるらしい。楽譜を見ればロ短調なのに、耳には変ロ短調に聞こえるので気持ち悪いらしい。
これは困った問題である。