《平均律クラヴィーア曲集》はバッハ自身が移調を試みて編集したと指摘する節が最近みられる。これはバッハが移調しながら清書したと考えられる自筆譜の修正痕を根拠としている。しかし修正痕を検証するまでもなく、バッハの時代がミーントーンだったことを考えれば移調の可能性は容易に理解できる。ミーントーンでは使える調が限られており、当時は限られた調でしか作曲しなかった。バッハの作品も限られた調がほとんどである。
ただ一つ《平均律クラヴィーア曲集》だけが24の調に挑戦する例外的な企てである。従って、バッハは遠隔調の曲を作る時は、限られた調で作曲した後に移調を試みて編集したと考えるのが自然であろう。
バッハも移調したが、バッハに続く音楽家達も《平均律クラヴィーア曲集》をさらに移調ようとした。

後世の移調の試みの一つに《ウィーンの移調譜》がある。
これは《平均律クラヴィーア曲集》の抜粋であり、アルブレヒツベルガー(Johann Georg Albrechtsberger 1736~1809)が作成した。
アルブレヒツベルガーはベートーヴェン、フンメル、モシェレスなどを育てたウィーンきっての名教師で、対位法の大家である。彼は没するまで聖シュテファン大聖堂の楽長の地位に留まり、音楽界に大きな影響力を持っていた。

彼が《ウィーンの移調譜》を作成したのは1780年、《平均律クラヴィーア曲集》が印刷出版譜として世に出るのは21年後の1801年である。彼が亡くなったのは1809年であるから、彼は生涯のほとんどを手書きの《平均律クラヴィーア曲集》とともに過ごしたといって差し支えないだろう。したがって彼は弟子たちに教授するにも、手書きの《平均律クラヴィーア曲集》、つまり自ら編集した《ウィーンの移調譜》を使ったと考えられる。

《ウィーンの移調譜》 は《平均律クラヴィーア曲集 第2巻》の抜粋である。
除外されたのはイ短調を除くすべてのプレリュードと幾つかのフーガである。
つまり、イ短調のプレリュードと、フーガのほとんどが入っている。

このフーガのうち4つは移調されている。
すなわち嬰へ長調が→へ長調に、変イ長調が→ト長調に、変ロ短調が→イ短調に、ロ長調が→ハ長調に移調された。
皮肉にも嬰へ長調は、もともとバッハがへ長調で作曲した後に、半音上げて嬰ヘ長調に移調したものである。
結局、アルブレヒツベルガーがバッハの最初の調に戻したことになる。
アルブレヒツベルガーの生きた時代は、まだバッハの自筆譜の修正痕の研究は進んでなかったが、彼はヘ長調から移調して編集されていることを直感的に悟ったのではなかろうか。
同様に移調された4曲のうち3つまでが、アルベルヒツベルガーによって、バッハの最初の調に戻されたことになる。

アルブレヒツベルガーの時代はまだ、《平均律クラヴィーア曲集》を書き写して学んでいた。写譜しながら主として作曲法を学んだのである。写譜の際に移調も頻繁に試みられた。
しかし現代の演奏家たちは綺麗に印刷された《平均律クラヴィーア曲集》を買い求めて、ただ弾くだけである。作曲法に主眼を置いて弾く人は少なく、作曲と演奏は完全に分業化している。

出版譜の出現によって《平均律クラヴィーア曲集》の各調を固定的なものとして捉える風潮が進んだ。出版譜がない時代は、移調も含む写譜によって伝承され、調に対する自由も大きかった。
現代の人たちが、《平均律クラヴィーア曲集》の調を固定的に捉えるのは印刷出版譜のせいだと今述べたばかりだが、むしろそれよりも大きな原因は12等分平均律とその落とし子である絶対音感崇拝のせいでもある。

絶対音感を持っている人は、《平均律クラヴィーア曲集》を違う調で聴くと気持ち悪く感じ、固有の調にこだわる。
彼らは「調が違う」から気持ち悪いのだと誤解しているが、正しくは「ピッチが違」うから気持ち悪いのである。
なぜなら、12等分平均律において、調はすべて均一であり「調が違う」ということは有り得ないからである。
調はどれでも同じことだがピッチが違うのである。
12等分平均律における調は記譜上だけの問題であり、実音においてはどの調も同じ音階構造である。
それなのに気持ち悪いと感じるのは、実音の「ピッチが違う」からに他ならない。
決して「調が違う」からではない。

例えばカラオケでキー(調)を変えても気持ち悪いという人はないだろう。
では何故、《平均律クラヴィーア曲集》のキー(調)を変えると気持ち悪いのだろうか。
矛盾しているではないか。
このように絶対音感的な音楽の捉え方は矛盾が多いのである。
音楽は相対音感であることを今一度確認したい。