《平均律クラヴィーア曲集》は、バッハの死後50年を経て1800年にようやく出版されました。
フォルケル、シュヴァンツ、ネーゲルらによるものが最初期の校訂版です。続いて後世の研究者や演奏家がさまざまな校訂版を出版してきました。
それらは独自の解釈版もあれば、バッハの原典に戻ろうとする資料批判版までその内容は実に多種多様です。
また、いわゆる原典版と言われるものであっても、校訂した人それぞれの視点が反映されるので全く同一というわけではありません。つまり原典といえども一つではないということです。

従って《平均律クラヴィーア曲集》には非常に多くの版が存在していますが、ここに一つのユニークな版があります。
それは Bruno 校訂の 《バッハ:平均律クラヴィーア曲集1  自筆譜に基づくオリジナル音部記号版》です。

Bach,J.S. Das Wohltemperirte Clavier 1:
Urtext Edition in original Clefs from the autograph Manuscript
edited by David Aijon Bruno
UT ORPHEUS EDIZIONI

Bruno版は単にオリジナル音部記号を採用しただけではなく、声部や連桁などもバッハの自筆譜に忠実です。
そのBruno 校訂の自筆譜に基づくオリジナル音部記号版と、Dull 校訂のベーレンライター原典版 を比較すると実に多くの相違点があります。ということはつまり、ベーレンライター原典版はバッハの自筆譜に忠実ではないということです。

一例として《平均律クラヴィーア曲集第1巻24番ロ短調フーガ》の 64〜69小節 を比較してみましょう。
参考までに晴れやかなカーブのバッハ自筆譜も最後に掲載しておきます。

《Dull 校訂のベーレンライター版》
バスの8分音符がすべて4連桁であることに注意
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《自筆譜に基づくオリジナル音部記号版》
バスの8分音符がすべて2連桁で、それが和音の交代を示す。
(注:上段のハ音記号は、ト音記号の「ミ」に当たるところを「ド」と読みます)
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《バッハの自筆譜》
同じくバスの8分音符がすべて2連桁で、それが和音の交代を示す。
赤線はバッハの特徴的な連桁
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このように印刷されて見やすくなった自筆譜を見ると、原典版が決してバッハの自筆譜に忠実ではないことがよくわかります。
上段のハ音記号や紙を節約するために小節が2段にまたがっていることまで自筆譜と全く同じように反映すべきとは思いません。しかし、連桁など下手に変えない方が良い場合もあります。
現代記譜法に翻訳した原典版が正しいか間違っているかをここで議論することが主旨ではありません
ここでは楽譜にこだわる姿勢そのものを批判することが主旨であります。

《平均律クラヴィーア曲集》が出版される以前は弟子達の手書き楽譜が唯一の伝承手段でした。手書きにはいろいろな不備があったでしょうが、真の音楽家たちはちゃんと《平均律クラヴィーア曲集》の真髄を知り得たのです。
なぜなら《平均律クラヴィーア曲集》は楽譜にこだわらず、無心に弾けばおのずと真髄が会得できるからです。

例えばショパンはショパンの演奏作法にのっとって弾く事と、必ずピアノで弾くことが絶対条件となります。これを外すとショパンではなくなるし、全くつまらない音楽になってしまいます。
ところがバッハはどうでしょうか。バッハはどのような演奏作法で弾いても、どのような楽器で演奏しても、バッハはビクともしません。
演奏作法を示唆する楽譜も自筆譜であろうが、原典版であろうが、解釈版であろうが、バッハの真髄は壊れようがないのです。

1800年に最初の出版譜が出現し、それから今日まで約200年の間に、様々な校訂版が出版されてきたわけですが、バッハの真髄は楽譜如何によって変化するようなものではありません。楽譜如何によってバッハの受容態度が変化するだけです。したがって重箱の隅を突付く様な楽譜比較は全く意味のないことです。

旧バッハ全集の時代にはクロル校訂版が主流でした。
しかし、新バッハ全集の刊行が進むにつれて、デーンハルト校訂のウィーン原典版、次にデュル校訂のベーレンライター原典版へと変わってきています。
わが国においては一昔前まで井口基成校訂版が主流でしたが、今では影をひそめ、音大ではヘンレ版が人気です。
まるで時代の流行のごとき原典版、あるいは有名音楽家の解釈版に振舞わされるバッハではありません。
バッハの音楽は楽譜を超越し、演奏作法を超越し、楽器を超越し、時間空間を超越し、ただ自己の内なる声にのみ依存するのです。
自己の内なる声とは昔から色々な言葉で表現されているもので、それは宇宙の法則、つまり神と言われるものです。
バッハの音楽は目に見えない実在である神を、音の波動で表しています。
バッハの音楽は楽譜という目に見える物質ではないのです。
ですからどうでもよい楽譜に捉われて、バッハの音楽の真髄を見失わないようにしたいものです。

世界でただ一つ
『イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集』
全曲をハ長調とイ短調に移調することによって、音楽の構造が分りやすくなりました。