クラムマー=ビューロー 60練習曲とは、チェルニー40番を終わったあとに使用するピアノ練習曲です。
この題名は、クラムマーが作曲した練習曲をビューローが編集したことに由来します。
クラムマー(1771〜1858)はドイツのピアニストで《84の練習曲 Op.50》を作曲しましたが、この中から60曲を選んで編集し、校訂の筆を加えたのがビューロー(1830〜94)というわけです。あの有名な言葉「バッハの平均律クラヴィーア曲集は旧訳聖書」を残したのはビューローです。彼はドイツの指揮者、ピアノ奏者、教育者、著述家として活躍しました。またリストの娘コジマと結婚したことでもよく知られています。

ビューローはこの練習曲を編集する際に、第7番の練習曲をニ長調から変ニ長調に移調しました。
彼は注意書きにこのように書きました。
「この曲は、原本ではニ長調なのであるが、編者の教授上の経験から考えると、原調では比較的効果がなく、変ニ長調に移調した方が有効であることを確信する。原調においては、手の小さい人の運指によどみないレガートを求めることは、冒頭2小節についても無理なのである」と。
(クラムマー=ビューロー 60練習曲、全音出版社、P. 19)

この注意書きを読む限り、ビューローは調性というものを単なる運指上の問題としか考えてなかったようですね。
もし、調の性格を言うならば、もとの調はニ長調で、移調後は変ニ長調ということで、シャープ系からフラット系への大胆な移調と言えます。

シャープ系のニ長調についてマッテゾンは「陽気で好戦的なもの、元気を鼓舞する〜」、シューバルトは「勝利、祝祭歌、天に向かって歓喜の声を上げる〜」、シリングは「力強いマーチ」、ミースは「輝き、フォーグラーは「派手な騒ぎ」・・・・etc. と述べています。

フラット系の変ニ長調についてマッテゾンは「嬰ヘ長調と同様に嬰ハ長調(変ニ長調)もその効果がまだあまり知られていない」、シューバルトは「やぶにらみのような調性、ゆがんだ幸福〜」、リューティーは「暗く、世間から離れた〜」、シュテファニーは「非人間的で超俗的で、気高い」・・・etc. と述べています。

大まかに言うとシャープ系は上昇気分、シャープ系は下降気分と言えるでしょう。
ビューローは変ニ長調に移調したのですが、異名同音調の嬰ハ長調でも鍵盤楽器においてはどちらも同じ鍵盤で弾くことになり、運指は変わりません。
バッハは《平均律クラヴィーア曲集》に変ニ長調を書かず、自筆譜はすべて嬰ハ長調で書きました。
リーマンはバッハの《平均律クラヴィーア曲集》の分析において「暑い盛夏の気分、この稲妻、瞬き、輝きは嬰ハ長調の精神から創出されたものである」と述べています。
変ニ長調と嬰ハ長調では同じ鍵盤を弾くにもかかわらず随分と異なる調性格を述べていますね。
調性格とは主として不等分音律において論じられるものですが、論者によって随分と異なる性格を述べていますから恣意的なものと云わざるを得ません。ましてや今日私たちが演奏する等分平均律においては何をか云わんやです。話が脱線してしまいました。

本論に戻って、ビューローは運指を変える目的で、ニ長調から変ニ長調に移調しました。なぜ異名同音調の嬰ハ長調にしなかったのでしょうか。嬰ハ長調でも運指の目的は達成できたはずです。
もしビューローが調の性格を多少でも認めていたならば、変ニ長調より嬰ハ長調(鍵盤上では同じ)に移調したはずです。まるで真逆のようなフラット系の変ニ長調への移調など到底考えられなかったはずです。
彼は調性を運指の問題としか考えておらず、嬰ハ長調はシャープが7つもつくから煩わしいと単純に避けたのではないでしょうか。

私たちは音楽を聴いて楽しむ時、「調は何か」などと考えません。
好きな歌を歌う時も、「元のキー(調)は何か」などとは考えません。
グレゴリオ聖歌がそうであったように、自分にとって歌い易い音域で歌おうとします。
音程を微調整できない鍵盤楽器を弾くときも、もとの調は何かなどと考える必要はないのです。
ビューローの言うように、調は単に運指上の問題でしかないのです。

したがってバッハの《平均律クラヴィーア曲集》も鍵盤楽器で演奏するからには、自分に合った調で弾けばよいのです。現代の私たち弾く鍵盤楽器は普通は平均律ですから調による性格の違いは皆無です。
移調によって変わるものは運指とピッチと楽譜づらの3つですが、これらはすべて音楽の本質とはかかわりのなりものばかりです。
ここでは詳しく述べませんが、《平均律クラヴィーア曲集》の成立過程をよく知ると、移調の源流はバッハにあるとすら言えるぐらいです。
(『やわらかなバッハ』 橋本絹代 著、 春秋社  参照)

ケンプやタチアナ・ニコラーエワといった超一流のピアニストは《平均律クラヴィーア曲集》を全曲、全調で弾く練習をしたそうです。
ハノンを全調で練習した人は多いでしょうが、平均律クラヴィーア曲集の中の何曲かだけでも、全調で練習したという人は少ないでしょう。
何ともレベルの高すぎる話ですが、せめて私たちは、《平均律クラヴィーア曲集》を基本調(ハ長調とイ短調)とオリジナルの調ぐらいではで弾けるようになりたいものですね。基本調で練習すれば、音楽の構造がすっきりと見えてきます。

平均律クラヴィーア曲集を全曲ハ長調とイ短調に移調した《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》でまずお弾きください。この曲集はデュル校訂のベーレンライター原典版をもとに移調したものです。
今の所、誤植は発見しておりません。
《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》を全曲お弾きになった富田庸氏からもご指摘はございませんでした。