クロル版とはバッハの《平均律クラヴィーア曲集》をクロル (Franz Kroll 1820〜77)が編集・校訂したものです。1866年に「旧バッハ全集」第14巻としてブライトコップ社より出版されました。「新バッハ全集」が刊行されるまでの間、クロル版が最も権威ある《平均律クラヴィーア曲集》と認められていましたので、ブゾーニ、ビショフ、トーヴィなどの著名な校訂者たちは、皆クロル版をもとにして校訂しています。

クロル版の《平均律クラヴィーア曲集》の中には、クロルが異名同音の移調を試みた楽章がいくつかあります。それらは、第1巻8番のフーガ、第2巻3番のプレリュードとフーガ、第2巻8番のプレリュードとフーガです。これらの楽章は、クロルによって移調されたために、バッハの自筆譜と違う調になっています。なぜ移調したのでしょうか?
今回は《平均律クラヴィーア曲集》 第1巻8番のフーガを取り上げます。

バッハの自筆譜では、このフーガは嬰ニ短調ですが、クロル版では変ホ短調に移調されています。
バッハの嬰ニ短調はシャープ系、クロルの変ホ短調はフラット系です。
異名同音とはいえ、シャープが鋭く上昇する、フラットが穏やかに下降するというイメージで捉えると、バッハとクロルの譜面づらは相当イメージが異なってきます。
もし、クロルが本来嬰ニ短調で書かれたフーガを変ホ短調に移調することによって、音楽に重大な問題が起こると考えたら校訂者として移調を試みることはなかったはずです。
クロルは嬰ニ短調と変ホ短調は同じと考えたから移調したのです。

実はこの二つの調が同じと考えたのは、クロルよりバッハの方が先なのです。
なぜなら、第1巻8番のプレリュードとフーガのセットは全48曲中の例外で、プレリュードとフーガが同じ調ではないからです。バッハはプレリュードが変ホ短調なのに、フーガを嬰ニ短調で編集しています。
プレリュードとフーガを同一の調でワンセットにする編集方針でやってきたバッハが、この1曲のみ、例外的に異なる調をワンセットにしたのは何故でしょうか。
それはバッハ自身が、異名同音の関係にある変ホ短調と嬰ニ短調が同じ調だと考えたからでしょう。

更に面白いことに、この嬰ニ短調フーガはバッハが最初、ニ短調で作曲し、その後、嬰ニ短調に移調したということが、自筆譜の修正箇所から推測できます。確かに、ニ短調で作曲したなら、嬰ニ短調に移調する方が、変ホ短調に移調するより楽ですね。
そうなると、バッハは嬰ニ短調とニ短調も同じと考えたことになります。
同様にプレリュードに関しても、元はホ短調で書かれていたという形跡が残っています。これも、ホ短調で作曲したならば変ホ短調に移調する方が簡単にできますね。

つまりバッハはホ短調でプレリュードを、ニ短調でフーガを作曲し、それをそれぞれ半音上げ下げして移調し、難しい調にはめ込み、理論上考えられる24の調を網羅したのです。

このように、移調の過程を知ると、バッハの自筆譜の調にこだわり過ぎる必要がないことがわかりますね。ここでは詳しく論じませんが、アルブレヒツベルガーなど後世の校訂者による移調の試みが多々存在することから 《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》も移調を試みました。