長調の音階とは半音の位置が第3音−第4音間、第7音ー第8音間にあるということです。長調ならば何長調でもすべて半音の位置は同じで音階構造は変わりません。
これに反して旋法は音階ににおける半音の位置がそれぞれ異なり、音階構造が違います。
音階構造が違えば性格が変わり、音階構造が同じならば性格も同じです。
これは至極当たり前のことですが、どの長調も同じ音階構造なのに、何調かによって性格がそれぞれ異なると思い込んでいる人が少なくないのです。

旋法とは近代長短調が確立する前の音階で教会旋法といわれるものです。教会旋法と言えばパレストリーナ(Palestrina 1525〜94)が有名ですが、その旋法は6種類あります。
6つの旋法は音階構造がそれぞれ違う(半音の位置がそれぞれ違う)ので、音階固有の性格が在ります。
イオニア旋法は半音の位置が第3音−第4音間、第7音ー第8音間にあるので長音階と同じです。
またエオリア旋法は半音の位置が第2音ー第3音間、第5音ー第6音間にあるので短調自然音階と同じです。
残り4つの旋法は長調、短調とは異なる独特の音階です。
6つの旋法の性格は以下の通りです。

イオニア旋法(長音階)・・・・・・・・・・・陽気で活発
ドリア旋法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・温和 敬虔
フリギア旋法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・常に悲しい
リディア旋法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・過酷 不親切
ミクソリディア旋法・・・・・・・・・・・・・・・陽気 いくらか穏健
エオリア旋法(自然的短音階)・・・・・穏健 優しい いくらか悲しい

以上 プリンツ(Wolfgang Caspar Printz 1641〜1717) 『やわらかなバッハ』 P.40 より

パレストリーナから時代が下がってバッハの時代になると、リディア旋法とミクソリディア旋法がイオニア旋法に集約されて今日の長調になりました。またドリア旋法とフリギア旋法がエオリア旋法に集約されて今日の短調になりました。
この時点で、長調はイオニア旋法の「陽気で明るい」性格を、短調はエオリア旋法の「いくらか悲しい」性格をもつことになったのです。

近代長短調では旋法の数がイオニアとエオリアの2つだけに減少することになります。減少を補うかのように、理論上考えられる12の音階開始音が12の調として考えられるようになりました。イオニアとエオリアで12×2=24の調が在るかのように見えますが、あくまで旋法は2つであり、調の性格は2種類しか存在しないのです。24の調にそれぞれ異なる性格が在ると思い込んでいる人は後述する根拠なき調性格論に惑わされているのです。
もし6つの旋法にそれぞれ12の音階開始音が在るとすれば 12×6=72種類の調が存在することになりますが、誰も72の調性格などを論じません。旋法の性格は6種類しかないと理解する人も、イオニア旋法(長調)になると12種類の性格が在るように錯覚してしまうのです。

バッハは《平均律クラヴィーア曲集》において理論上考えられる24の調を確立しました。決して24の調性格を確立したのではありません。ここのところは誤解されがちで非常に重要です。
《平均律クラヴィーア曲集》に12の長調と12の短調を網羅したということは「陽気で活発」な長調が12個、「いくらか悲しい」短調が12個あるという単純な事実に過ぎないのです。

なぜならバッハ自身が、難しい調は簡単な調で作曲し、それを移調することによって《平均律クラヴィーア曲集》に24すべての調を網羅したからです。(詳しくは 富田庸「ロンドン自筆譜」と《平均律クラヴィーア曲集》、『やわらかなバッハ』P.76参照)
バッハ自身による移調の事実は、等分平均律に近い音律は、どの調もほとんど差が無いとバッハが考えていた証拠ではないでしょうか。

異なる24の調性格が在るとする論理は不等分音律に根拠を置くわけですが、その調の性格を論ずる際にどの音律に基ずくかということが明記されていません。
ある一つの調の性格を論ずる時、それがミーントーンか、キルンベルガーか、はたまたキルンベルガーの気兇靴ということが不明なのです。これでは音律が変わればまた違う調性格を述べるのかどうか不明です。

また調性格を主張する論者たちは、同じ調に対して、相反する調性格を述べることも珍しくありません。例えばイ長調についてマッテゾンは「攻撃的、悲痛」と述べ、シューバルトは「純情な愛の告白、自己への満足」と両者かけ離れた性格を述べています。(詳しくは『やわらかなバッハ』P.52 参照)
これでは調性格が恣意的な思い込みであると言わざるを得ないでしょう。

バッハが《平均律クラヴィーア曲集》で24の調を網羅した時、当時の主流だったミーントーン音律に比べて、使用できる調の数が急増したことになりますが、それに従って音楽の性格も急増したとはいえないでしょう。
24すべての調が使用できる音律ということになると等分平均律に近づかざるを得ないのであって、等分平均律に近づけば近づくほど、調による差はゼロに近づくのです。
ましてや世界中のピアノが等分平均律で調律されている今日においては、調ごとの固有の性格など在り得ないのです。空理空論、全くの妄想に過ぎないのです。
ここで誤解の無いように説明しておきますと、空理空論とは等分平均律の鍵盤楽器の場合について述べているのでありまして、音程の微調整が可能な弦楽器などについてはこの範疇ではありません。

よく知られているように、標準ピッチが変動し続けており、バッハ時代と今日では約半音のズレがあります。
例えばバッハの時代にハ長調だった曲は、今日嬰ハ長調に聴こえるのではないでしょうか。
もし音階構造が同じでも音階開始音のピッチの違いによって異なる調性格が存在すると主張するならば、この場合、ハ長調と嬰ハ長調に異なる調性格が在ることになり自己矛盾です。

結論として、旋法にそれぞれ異なる性格が在るという事実と、同一旋法における音階開始音の違いを表す調を混同しないことが最重要です。同一旋法に異なる性格は存在しないのです。
旋法の性格は在るのです。しかし調の性格は無いのです。無いものは無いのです。

宇宙の法則である《平均律クラヴィーア曲集》は調性格などという曖昧なものを超越した永遠に鳴り響く波動です。何調で弾いても、宇宙の法則、その生命は生きているのです。「平均律」という邦訳はいろいろな意味で誤解を生じる訳ですが、英語ではwell、仏語ではbien と単純に訳しています。両方とも単に「良い」という意味です。
そこで私が考えた訳は《最善律クラヴィーア曲集》、あるいは《神秘律クラヴィーア曲集》 です。いかがでしょうか。

全曲をハ長調とイ短調に移調した《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》で難易度を下げて弾けば、音楽の本質、すなわち音楽の生命が真の意味で解ってくることでしょう。
《平均律クラヴィーア曲集》 のもつ波動があなたの魂を調律し、あなたの心は常に現象を超越した平安に満たされ、自分の周りのすべての現象が整ってくることになるでしょう。