釈迦とイエスとバッハの共通点、それは何だろうか。

釈迦の説教は、初期仏教の経典である阿含経で知ることができる。これは弟子たちが、釈迦の入滅後にまとめたものである。
教えの本質とは常に、五感を超えた霊性であり、目には見えない。だから教えを文字で書こうとすると、筆者の個性が出る。その上、時代性や地域性や政治などによって、幾多の変遷を経た経典として現在存在することになる。仏教は中国を経由して日本に入り、最澄、空海など文字で書き表してくれた。それらの経典のお蔭で、私たちは釈迦の教えに触れることができるのである。仏教の開祖であるはずの釈迦本人が経典を書かなかったにもかかわらずである。

イエスも同様である。キリスト教の開祖であるはずのイエスが何一つ聖典を書かなかったにもかかわらず、新約聖書を書いた使徒たちと翻訳者のお陰で、私たちはイエスの教えに触れることができる。教えの本質は目に見えない霊性である。霊性は文章の行間にあるとも言えるが、文章がなければ行間もない。だから使徒たちや、後世の宗教家がイエスの教えを書き表してくれたことに感謝したい。

ではバッハはどうだろうか。本人が文字で書いた理論書があるだろうか。念のために言うと楽譜は目で読むが、頭の中では音楽が鳴っている。楽譜を見ても頭の中で音楽が鳴らない人はピアノなどの補助的手段を使って楽譜に書かれた音楽を鳴らすのである。目で見た文字を通して頭の中で何らかの意味を理解する書物と、楽譜は根本的に異なる。

バッハ(Bach 1685〜1750)は昇天するまでの27年間、聖トーマス教会のカントルにして音楽監督の地位にあった。その聖トーマス教会のバッハの前任者はクーナウ(Kuhnau 1660〜1722)である。彼はバッハと同じ職務にありながら、作曲のかたわら音楽書や文学書を数多く執筆した。中には風刺小説の『音楽のいかさま師』というのもある。

前任者クーナウはバッハの父親の世代にあたるが、バッハと同世代の作曲家の著作を眺めてみよう。
非常に多いので一人一作の紹介にとどめる。

マッテゾン(Mattheson 1681〜1764)『完全なる楽長』
ヴァルター(Walther 1684〜1748)『音楽辞典』
ラモー(Rameau 1683〜1764)『自然原理に還元された和声論』
タルティーニ(Tartini 1692〜1770)『全音階的和声の諸原理』
クヴァンツ(Quantz 1697〜1773)『フルート奏法』
マルティーニ(Martini 1706〜84)『対位法実践の模範例または基礎知識』

次はバッハの息子と同世代の作曲家である

ミツラー(Mizler 1711〜78)『新音楽文庫』
ルソー(Rousseau 1712〜78)『音楽辞典』『社会契約論』
C.P.E.バッハ(バッハの息子 Bach 1714〜88)『クラヴィーア奏法試論』
マールプルク(Marpurg 1718〜95)『フーガ論』
キルンベルガー(kirnberger1721〜83)『純正作曲の技法』

かくのごとく作曲家たちは我も我もと音符ならぬ健筆をふるった時代であった。
しかしバッハ著作の作曲法も音楽論も1冊として見つけられない。
なぜバッハは書物を書かなかったのだろうか。

バッハは釈迦やイエスが教えを書かなかったように、霊性というものを不立文字と考えたのではないか。バッハは文字ではなく音の響きで霊性を伝えようとしたのではないか。釈迦が「身口意の三行」をもって、イエスが「心と口と行いと生きざま」をもって霊性に仕えたごとく、バッハは「宇宙の調和の響き」でもって霊性に仕えた。

霊性に仕えたという意味において、釈迦もイエスもバッハも同等の聖人と称して差し支えないだろう。
バッハが教会音楽の大家であることからバッハをば「5番目の福音史家」というふうによく賞賛される。
しかし、バッハはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの次にくる5番目の福音史家などではない。その程度の賞賛に甘んじてならない。
逆にバッハの福音史家こそ、数え切れないほどいるのだ。
誤解がないように再度確認すると、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとバッハの比較ではなく、釈迦、イエスとバッハの比較である。

以下に、角倉一朗・渡辺健 『バッハ頌歌』よりバッハの福音史家たちをほんの一部紹介しよう。

・アグリーコラ(Agricola 1720〜74)・・・ギリシャにはただ一人のホメーロスしかなく、ローマにはただ一人のヴェルギリウスしかなかったごとく、ドイツもまたただ一人のバッハをもったにとどまるかのようである。今日にいたるまで、作曲の技においても、オルガンやチェンバロの演奏においても、彼に比肩しうるものはヨーロッパ広しといえども一人としてなく、将来もまた、なんぴとも彼を凌駕し得ないであろう。かの名高いマルティーニ神父の和声、マルチェッロの巧妙さと創意、ジェミニアーニの歌唱的な旋律と様式、はたまたアレッサンドロの手腕、たとえそれらを一つに合わせても、このバッハ一人には遠くおよばないのである

・ベートーヴェン(Beethoven 1770〜1827)・・・音の組み合わせと和声とのあの無限の、汲み尽くしがたい豊かさのゆえに、彼は小川(バッハ)でなくして、大海(メーア)と称すべきだ

・シューマン(Schumann 1810〜56)・・・すぐれた大家、とりわけヨーハン・ゼバスティアン・バッハのフーガを熱心に弾くこと。「平均律クラヴィーア曲集を日々の糧としてほしい。そうすればきっと有意の音楽家になれる

・ニーチェ(Nietzsche 1844〜1900)・・・今週、神のようなバッハの「マタイ受難曲」を3度、そのたびに、同じような計り知れぬ驚嘆の念を持って聴きました。キリスト教をすっかり忘れ去った者が、ここではほんとうに福音を聴く思いがするのです。これは禁欲を思いおこさせることなしに意思を否定する音楽です

・レーガー(Reger 1873〜1916)・・・・・・ ゼバスティアン・バッハは私にとってあらゆる音楽のアルファでありオメガであります。真の進歩はすべて彼に宿り、彼を土台としているのです!ゼバスティアン・バッハが現代にとって何を意味するか、いや何を意味すべきかというのですか?「誤解されたヴァグナー」病に犯されたすべての作曲家と音楽家にとってだけでなく、あらゆる種類の脊髄炎にかかったすべての現代人にとっても、彼はまさに有効で無限の治療薬に他なりません

・シュヴァイツァー(Schweitzer 1875〜1965)・・・「平均律クラヴィーア曲集」は楽しみをあたえるのではなく、宗教的な感化を与える。喜び、悲しみ、泣き、嘆き、笑いーすべてが聴くものに向かって響き寄せてくる。しかしその際にわれわれは、このような感情を表現する音によって、不安の世界から平安の世界へと導き入れられ、あたかも山間の湖畔で底知れない深さをたたえた静かな水面に山や森や雲の映る姿を眺めるときのようにして、現実を見るのである

・ヒンデミット(Hindemith 1895〜1963)・・・存在しうるのはただ1種類の音楽、つまりバッハの音楽的エートスから、彼が残した高価な遺産から見て正しい音楽のみであります

・シュニトケ(Schnittke 1934〜98)・・・・あまねく世界に神は存在し、あまねく音楽にバッハは存在する


最初の問い「釈迦、イエス、バッハ」の共通点は文字を残さなかった聖人ということである。