バッハの平均律クラヴィーア曲集 (以下、Well Tempered Clavier の頭文字でWTCと表記) は鍵盤楽器作品における傑作中の傑作だが、これを弾く前に インヴェンション と シンフォニア をマスターしなければならないと考えている人が多いようだ。全音楽譜の巻末難易度表を見てもインヴェンション と シンフォニアの難易度は中級、WTCは上級になっており、インヴェンションとシンフォニアを終えてからWTCに進むのが常識とされている。

では、バッハを学ぶ順序としてこれが本当に正しいだろうか。

確かに声部数が2声→ 3声 → 4声 と徐々に増えて正しいように感じるだろう。インヴェンションで2声を学び、その後で3声のシンフェニアを学ぶ。その後に4声、5声をWTCで学ぶという図式である。確かに声部数が増すほど難易度も上がる。しかしWTCには4声ばかりではなく、2声もあれば3声もたくさんある。そしてWTCにはフーガ以外に比較的簡単なプレリュードがあることを忘れてはならない。

従来の常識とされている考え方はWTCのフーガを基準にしており、プレリュードは付け足しのように扱われている。WTCはプレリュードとフーガが一対になっているが、プレリュードだけでも立派な独立した楽曲であることを忘れてはならない。前奏曲という名前に惑わされてフーガの前座のように考えてはならない。

プレリュードの独立性は、教育用作品《ウィルヘルム・フリーデマン・バッハの音楽帳》にプレリュードだけが単独で編集されていることからも明らかである。従来の難易度表は、プレリュードの独立性を認めず、フーガの添え物として扱い、フーガのみで上級と判断しているようだ。もしプレリュードとフーガを独立させて考えれば、バッハの学習順序は、大幅に違ってくるだろう。

《ウィルヘルム・フリーデマン・バッハの音楽帳》はWTCの中にあるプレリュードの初期稿、インヴェンション、シンフォニア、その他から成る。
バッハは長男のフリーデマンを立派な職業音楽家に育てるために教育用作品集を作ろうと思い立ち《ウィルヘルム・フリーデマン・バッハの音楽帳》を編集した。バッハは常々小品を編集してまとめる趣味があり、この音楽帳もレッスン用に貯めておいた小品の抜粋を用いて書かれ、段階を追って作曲の原理を学ぶ指導書となっている。

《ウィルヘルム・フリーデマン・バッハの音楽帳》は最初に装飾音の表があり、最初の第1グループにWTC第1巻のプレリュード11曲が出て来る。その後で第2グループの2声インヴェンション15曲、第3グループの3声シンフォニア15曲と続くのである。
この音楽帳は、バッハが息子や弟子の教育に際して、インヴェンションよりもWTCのプレリュードを先に与えたことを明らかにしている。

第1グループに含まれるのは、WTC 第1巻の1番から12番までのうち、7番を除く11曲のプレリュードである。もっとも音楽帳はまだ初期稿の段階である。バッハは、後にこれらのプレリュードに改訂や書き足しを試みてWTC完成させたのである。第2グループと第3グループは、きわめて高度な対位法の作曲手本である。特に第3グループのシンフォニアは難しい曲も多く、WTCの3声フーガよりも難しい曲もある。
《ウィルヘルム・フリーデマン・バッハの音楽帳》 ではインベンションのことをプレアンブルム、シンフォニアのことをファンタジアと表記し、15曲の順番が相当違う。インヴェンションとシンフォニアは、ハ長調から始まって順に上がっていき、ロ短調で終る。シャープフラット4個までである。プレアンブルムとファンタジアはハ長調から始まって、変ロ長調まで上がり、その次はイ長調から順にハ短調まで下がってくる。ハ短調が2番ではなく15番である。

以上見てきたように、バッハの学習順序に従えば、真っ先に学ぶのはWTC第1巻1番のハ長調プレリュードである。美智子皇后もお弾きになったハ長調プレリュードは、実は5声部書法のポリフォニーであるが、一見単純な分散和音技法が難易度を下げている。従来の学習順序では最初に2声インヴェンション1番を与えるので、モノフォニーばかりに馴染んだ学習者にとって、2声対位法はとっつきにくい。インヴェンション1番でバッハ嫌いになる生徒も少なからずいるだろう。もしハ長調プレリュードから入ればもっと易しくポリフォニーに入っていけるのではないだろうか。

WTCのプレリュードには、2声インヴェンションよりも簡単な楽曲が多い。少なくとも《ウィルヘルム・フリーデマン・バッハの音楽帳》に入っている11曲は2声インヴェンションより前に学習すべきであろう。WTCのプレリュードを幾つか弾くことによってポリフォニーに十分慣れてから2声インヴェンションに入れば挫折する生徒も少なくなるだろう。そのためにはプレリュードとフーガを常に一対で連続演奏するものという固定観念を拭い去る必要がある。

結論として、バッハの意思を尊重する学習順序としては WTCのプレリュードの幾つか → 2声インヴェンション → 3声シンフォニア→WTCの残りの部分である。
バッハの鍵盤作品は大きく分けて2つの体系がある。一つはインヴェンション、シンフォニア、WTCのフーガ、フーガの技法へと連なる対位法ルート、もう一つは、可愛らしい舞曲に始まり、フランス組曲、イギリス組曲、パルティータへと連なる舞曲ルートである。教師は対位法ルートと舞曲ルートのバランスをとりながら、WTCの中のフーガを適宜与えていくのが良いだろう。


参考までに、WTCのCDと楽譜を紹介する。

・WTCのプレリュードだけ、フーガなしのCD
  『24 PRELUDES from WTC 』 E・ザラフィアンツ演奏
                   ALCD-7138 EVGENY ZARAFIANTS piano

・WTCをすべてハ長調とイ短調に移調、楽曲の構造が良く解る楽譜 
《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》 橋本絹代 編著