ベートーヴェンは早くから豊かな楽才を示し、特にクラヴィコードの演奏に秀でていました。
12才の少年ベートーヴェンは師のネーフェ(Christian Gottlob Neefe 1748ー98)の旅行中、宮廷オルガン奏者の代理を務め、すでに鍵盤奏者としてネーフェに劣らない腕を持っていました。

ネーフェはバッハが長年にわたって指導したライプツィヒの聖トーマス教会の生徒でした。
ネーフェの師としての功績は、当時ボンではあまり知られていなかった、J.S.Bach やC.P.E.Bach の厳格な様式の作品を教えたことです。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」が1801年に出版されるより前にバッハの作品を教えたことです。ベートーヴェンはバッハの作品の筆写譜を使ってピアノの指導を受けたのです。

ベートーヴェンの創作活動は、後年になるにつれてバッハの書法を積極的に取り入れていくようになりますが、その最初の基礎は少年時代にあるのです。彼の初期の作品に全調を用いた前奏曲(Op.39 1789年作曲)がありますが、この曲集はバッハの教育の成果の一つと言えるでしょう。

ボンで作曲の基礎を学んだベートーヴェンは、ウィーンに出て本格的に作曲を勉強することになります。
ベートーヴェンはウィーン到着後直ちにハイドンのもとで対位法の勉強を始めます。
ハイドンがウィーンを去った後、次の師は対位法の大家で聖シュテファン大聖堂楽長アルブレヒツベルガーです。

アルブレヒツベルガー(Johann Georg Albrechtsberger 1736ー1809)はベートヴェンに何を教えたのでしょうか。
彼は有名な「ウィーンの移調譜」の編集者です。「ウィーンの移調譜」とはバッハの「平均律クラヴィーア曲集」が出版されるより前に、筆写譜を入手したアルブレヒツベルガーが、1780年に移調して編集したものです。

「ウィーンの移調譜」の中身は「平均律クラヴィーア曲集」の第2巻の抜粋です。
すなわち、プレリュードはイ短調の1曲のみ、フーガは除外されたもの、遠隔調からよく使われる調に移調されたものが入っています。

その編集方針は、チェンバロ向きの速いテンポのフーガ(ハ長調、ヘ長調、ト長調、イ短調)を除外し、遠隔調のフーガを除外した調に移調して穴埋めをするというものです。
例えばロ長調はハ長調に、変イ長調はト長調に、変ロ短調はイ短調にという具合に半音以内の移調です。

バッハ研究所のデュルやクィーンズ大学の富田庸の指摘きするところによると、例えばロ長調はハ長調で書いてからロ長調に移調した形跡がバッハの自筆譜に見られるということです。

アルベルヒツベルガーの移調の数々は、バッハ自身の移調の形跡と全く一致するのです。

ウィーンきっての対位法の大家が、移調によって音楽が損なわれてしまうと考えたなら、移調をしなかったはずです。
バッハ自身が移調して「平均律クラヴィーア曲集」を編纂したという確信のもとに、アルベルヒツベルガーは「ウィーンの移調譜」を編集したのではないでしょうか。
ベートーヴェンもアルブレヒツベルガーの手で移調された「平均律クラヴィーア曲集」を使って対位法の指導を受けたのかもしれませんね。