バッハのWTC(平均律クラヴィーア曲集)は理論上考えられる24すべての調を網羅しているが、音楽の実相においては24ではない。

ピアノの1オクターブ内には白鍵と黒鍵を合わせて12の鍵盤がある。
一つの鍵盤を開始音とする音階に長調と短調があるので理論上12×2=24の調が存在するかのように錯覚しているだけである。

ここで言う音楽の実相とは、音階構造のことである。
音階構造とは音階を作る7つの音のどこに半音があるかということである。

例えばハ長調とハ短調の音階構造は違う。一方は長調、もう一方は短調だからである。
しかしハ長調とニ長調の音階構造は両方とも長調だから同じである。

WTCは ハ長調 → ハ短調 → 嬰ハ長調 → 嬰ハ短調 → ニ長調 → 二短調・・・・・ロ長調、ロ短調の順に24の調が並んでいる。
だが、音楽の実相としては長調と短調の2種類が交互に繰り返し並んでいるに過ぎない。

ところが教会旋法は全く音階構造が違う。
イオニア、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディア、エオリアはそれぞれ半音の位置が違う。

イオニアと現在の長調は音階構造が同じである。
イオニアの場合、音階開始音が変わっても旋法が変わったとは思わない。
それなのに、ハ長調の場合は音階開始音が変わると調が変わると誤解している人が多い。

つまりハ長調、嬰ハ長調、ニ長調・・・・すべての長調はハ長調と同じ音階構造なのに、違う調だと思い込んでいる。

再度言う。
WTCの音階構造は長調と短調の2種類だけである。
バッハは教会旋法を近代長短調に集大成した偉大な作曲家である。バッハは長短2種類の調でWTCを作曲したのである。

バッハはドリアでも作曲したのではないかという声が聞こえてきそうだが、ドリアと短調は違うことが、東川清一先生の論文「そのd mollもやはりニ短調?」(Jounal of the Musicological of Lapan 1999 )に書かれている。同論文にはWTCが開始音の異なる12の長調と短調から成ることも説明されている。

当然のことであるが、調に固有の性格があるとする調性格論についても、WTCには本来2種類の調性格しか存在しない。
バッハが24の調性格を確立する目的をもってWTCを編纂したのではないことは明白である。なぜならバッハが自ら移調を試みて編纂したからである。もし調性格が存在するなら、バッハが移調するはずはない。

バッハの移調の痕跡については、富田庸先生の論文「ロンドン自筆譜と平均律クラヴィーア曲集」(Bach's Well-Tempered Clavier A Source Study, Chapter1 1996, Chapter2 1997)に詳しい。