クロル校訂の「平均律クラヴィーア曲集」は異名同音移調をしています。この移調は、実際の音響としては変化がないものです。「平均律クラヴィーア曲集」の中にはバッハ自ら移調して編集したものが幾つかありますが、それらは異名同音移調ではなく、へ長調を嬰へ長調に移調して編纂するといった形です。ところが、旧バッハ全集の校訂者クロルは以下の異名同音移調をしています。

第1巻8番フーガ        嬰ニ短調を変ホ短調に
第2巻3番プレリュードとフーガ 嬰ハ長調を変ニ長調
第2巻8番プレリュードとフーガ 嬰ニ短調を変ホ短調に

クロル版は19世紀の知識の集大成として未だ注目に値するものですが、クロル式移調の一部が後世に引き継がれ、第1巻8番、嬰ニ短調フーガを変ホ短調に移調してプレリュードとの統一を図った版は、ブゾーニ、バルトーク、カゼッラ、園田高弘版などに見られます。第1巻8番以外の異名同音的移調は、近年ではあまり見られなくなったようです。

クロル校訂の「平均律クラヴィーア曲集」は旧バッハ全集第14巻として1866年にブライトコップフ社より出版されました。批判的原点版に先立つこと100年以上前に出版されたために、ロンドン自筆譜などの重要な資料を知らないで行われたものの、19世紀の学問の非常に大きな業績でした。トーヴィー、ビショフ、ブゾーニなど、その後のほとんどの校訂譜はクロルの校訂譜をもとにしているほどです。

第2巻8番、嬰ハ長調を変ニ長調に移調した楽譜をあまり見かけなくなったせいかもしれませんが、シャープ系の嬰ハ長調は「明るく高い調」であり、フラット系の変ニ長調は「沈んだ低い調」であるから、移調すると情緒が全く変わってしまうと考える人が多いのです。

等分平均律のピアノは何度も言いますが、どの調であっても明るかったり暗かったりすることはありません。どの調も皆同じ明度です。等分平均律のピアノを弾きながら嬰ハ長調は明るく、変ニ長調は暗いと考える人は、実際の音を聴いていないと言わなければならないでしょう。

他方、古楽の習慣から言えば、バロック・ピッチは現代より約半音低かったので、嬰ハ長調の楽章は今日のピッチで言うとハ長調のピッチになります。つまり実音記譜すると嬰ハ長調はハ長調で書くことになります。嬰ハ長調の楽章を、変ニ長調やハ長調で記譜することが、間違っているとは言えないのです。

また、「平均律クラヴィーア曲集」第2巻の成立過程を調べると、嬰ハ長調の楽章はハ長調で作曲した後、移調して編集されたことがわかります。ハ長調で書かれた楽譜はバッハの弟子アグリーコラの手写本にあり、これは全音から出版されているベーレンライター原典版 P.352 で確認することができます。さらにもっと初期のバージョンは同書 P.358 に掲載されています。

しかし、ピアニストやピアノ科教授にとって信じきっていたことを捨てなければならないのは難しいことでしょう