本稿は《平均律クラヴィーア曲集》第1巻No.4 嬰ハ短調フーガの第1主題に出てくる減4度音程についての考察です。

このフーガはバッハの古典的対位法の技巧が見事に織り込まれた堂々たる5声フーガです。レーガーが「史上最も困難なクラヴィーア曲」と言ったほど充実した傑作です。

その第1主題はゆっくりと重々しく・・・嬰ハー嬰ローホー嬰ニー嬰ハ・・・・と奏されます。 

この音型は倒れた十字架の形をしており、辛うじて起き上がっては重荷に耐え切れず再び崩れ倒れていくようなテーマです。十字架を背負って苦しみあえぎながら起き上がるとこを「嬰ローホ」の減4度音程で表現しているとも言われます。

楽譜づらを見るといかにも「嬰ローホ」の減4度が苦しいあえぎを感じさせますね。
が、目を転じて鍵盤を観ると、弾いているのは白鍵の「ハーホ」であり、ハ長調の明るい長3度を感じませんか。

実際に耳に届く音程は減4度で書いても長3度で書いても、全く同じ鍵盤、全く同じ音程です。
弦や管は奏者の微調整によって、減4度と長3度を区別することが可能ですが、如何せん12の鍵盤しか持たない鍵盤楽器には不可能な話です。このジレンマを解消すべく、「嬰ハ」の鍵盤が3つもあるような純正調オルガンが作られましたが、演奏の困難さから実用にはいたりませんでした。
12の鍵盤しかもたないピアノに座って、いかに名ピアニストが苦悩の表情をして搾り出すように「嬰ローホ」を弾いても、彼が念じた減4度はハ長調の長3度に変わりないのです。

あなたのピアノはこのように減4度も長3度も弾分けられない不自由な楽器です。
しかもあなたのピアノは恐らく昔の不等分音律ではなく12等分平均律でしょう。
12等分平均律は「嬰ローホ」と「ハーホ」が同じであるばかりでなく、半音上げて「嬰ハーヘ」も「ニー嬰へ」もどこをとってもすべて同じ音程です。
従ってフーガにある減4度を、どこで弾いても同じですね。つまり、何調で弾いても同じですね。
ただピッチが変化するのみです。ピッチにこだわるのは絶対音感の弊害に過ぎないことは『やわらかなバッハ』に詳しく述べさせていただきました。
結論として、《平均律クラヴィーア曲集》をオリジナルの難しい調で弾く必要などどこにもありません。
全48曲をハ長調とイ短調の基本になる調で示した《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》をご活用ください。

{補足}

鍵盤楽器における「嬰ロ−ホ」=「ハーホ」の音程を主な音律別に示すと

ミーントーン、キルンベルガー機Α386セント(純正長3度)
ヴェルクマイスター記供ΑΑ390セント
キルンベルガー供ΑΑ392セント
ピュタゴラス・・・408セント

倒れた十字架の主題をバッハが弾いた時、どの音律の減4度を使ったのか興味の尽きない問題です。
今日の12等分平均律ではなかったというのが通説ではありますが。