やわらかなバッハの会 The Society of Soft Bach

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所  所長  橋本絹代
Equal Method Music Institute President Kinuyo Hashimoto

ト長調のメヌエットはバッハの作品に非ず

《ト長調のメヌエット》はピアノを習えば必ず一度は弾く親しみやすい小品である。「メヌエット」といえばバッハのト長調のあの有名なメロディーがまず思いうかぶ。

しかしこのメヌエットについては、バッハの真作ではなく、ペッツォルトの作品だということが判明した。
だが未だにバッハの作品としている出版譜が多い。また、ピアノの発表会等や you tube の演奏動画においても「バッハのメヌエット」となっていることが多く、バッハの作品のように誤解されたままだ。

Wikipediaで「メヌエット」を検索すると、その中に問題のメヌエットに言及しているところがある。次のように書かれている。
「バッハのメヌエットとして有名な曲だが、近年、ペツォールトによる作品と判明した」と。

真の作曲者であるペッツォルト(Petzold Christian 1677〜1733)はドイツの作曲家、オルガニストで、ドレスデンの聖ゾフィー教会に務めていた。バッハはペッツォルトが務める教会で1725年に演奏を行っている。
このドレスデン旅行から問題のメヌエットを持ち帰った可能性がたかい。

この研究は近年、シュルツェ(Schulze Hansjoachim 1934〜)によってもたらされた。シュルツェは『バッハ年鑑』や 『バッハ便覧』の編集者であり、バッハ研究の中心的存在である。シュルツェが問題のメヌエットの真の作曲者を特定した。

ではなぜ今日までバッハの作品であると誤解されてきたのか。
それを解くには《ト長調のメヌエット》が入っている《アンナ・マグダレーナの音楽帳》を調べねばならない。

バッハは再婚婚後間もなく、愛する妻、アンナ・マグダレーナに1冊の音楽帳をプレゼントする。
当時はまだ楽譜の印刷が一般的ではなかったので、バッハの手書きの音楽帳である。
音楽帳の表紙は草色の羊皮紙で覆われ、金文字で妻の頭文字が入っている。帯紐の断片から赤いリボンで結わえられていたようである。現在はベルリンの国立図書館が蔵している。

バッハは育ち盛りの子供たちを養育し、家事全般を受け持ち、その上に写譜の仕事まで手伝ってくれる新妻へ感謝のしるしに音楽帳を捧げたのである。
音楽帳といえば、他には、バッハが長男ウィルヘルム・フリーデマンに与えた音楽帳や、モーッアルトの父レオポルト・モーッアルトが子供たちに与えた音楽帳もある。

アンナマグダレーナは音楽帳を宝物のように大切にしながら、だんだんと自分自身の記入で満たしていった。
夫が妻に、また子供たちが母に音楽の贈り物を書き込み、贈られたアンナ・マグダレーナが自分の大好きな曲をそれに書き加えた。いわば音楽詩文集として愛蔵した、記念帳であり、日記帳であった。
彼女の楽譜集の生成過程は15年以上の期間にわたると推測される。

《アンナ・マグダレーナの音楽帳》は1722年と1725年の2冊存在する。
1722年版はおもににフランス組曲の初期稿とコラール編曲などである。バッハは妻にプレゼントした時点以降も書き込みを続けた、ついには彼の音楽帳のようになってしまった。それで2冊目の音楽帳をプレゼントせざるを得なくなったようである。

2冊目は1725年の音楽帳である。これにはまず最初にバッハ自身の手で《パルティータ》が書かれている。それ以降の部分はほとんどアンナ・マグダレーナや息子たちが写譜したものである。
複数の有名なメヌエットや教育用の作品は1725年版に含まれているが、実際にはほとんどのメヌエットやその他の小品がバッハの作品ではない。

ベーレンライター原典版では、バッハの真作はBMW で表し、それ以外はBWV anh という表示になっている。
BWVはバッハ作品目録、anhは付録、補遺の意。問題の《ト長調のメヌエット》はBWV anh 114 である。つまりバッハの真作とは言えない付録補遺である。

よく出回っている実用版の《アンナ・マグダレーナの音楽帳》には BWV anh 番号の付いてないものが多い。
実用版において、作曲者がはっきりしているものは J.S.バッハを始め、C.P.E.バッハ、クープラン、ベームなどと明記されているが、何も書かれてない曲も多数ある。
何も書かれてないということは、BWV anh である。
しかしz実用版の楽譜の表紙にはBWV anh 番号はんく、表紙には「バッハ」と大書されており、J.Sバッハの曲だと誤解される。

また中には紛らわしい前書きもある。例えば「これらほとんどの曲は彼自身の作品であるが、1725年のものには彼自身の作品のほかに、息子のC.P.E.バッハや、フランスの作曲家クープランの作品、それにオルガニストであったベームの作品なども加えられている」といったものである。これでは上記の3人以外は、すべてバッハの真作だと言っているようなものである。実際にはほとんどの小品がバッハの真作だという証拠がないのだ。

このような実用版の楽譜の普及によって、いつのまにかバッハ作曲の《ト長調のメヌエット》と誤解されるに至ったようである。

G線上のアリア

バッハといえば 《G線上のアリア》が有名である。しかしバッハ自身がこの題名をつけたわけではない。
また単独の小曲でもない。管弦楽組曲第3番 BWV 1068 の中の1曲である。序曲、エア(エール)、ガヴォット、ブーレー、ジーグの5曲から成る管弦楽組曲の第2曲目のエア(エール)だけを取り出して《G線上のアリア》として親しまれている。

 《G線上のアリア》はドイツの名ヴァイオリニスト、ヴィルヘルミ(August Emil Wilhelmi 1845~1908) が、エア(エール)をヴァイオリンとピアノ伴奏用に編曲したことて有名になった。1871年版の編曲の通称が《G線上のアリア》である。ヴァイオリンのG線だけで弾けるということから《G線上のアリア》という名前がついた。

この編曲で最も注目すべき点は、ハ長調に移調されていることである。バッハはこの曲をシャープ2個のニ長調で書いた。ニ長調というと元気なイメージを抱くかもしれないが、2曲目のエア(エール)はしっとりとした静かな曲想である。元気な二長調と真反対の性格とさえ言える。

ちなみに調性格論者が述べるニ長調の性格を上げると次のようなものがある。
シューバルトは勝利の喜び、ハレルヤ、戦勝の雄叫び、
マッテゾンは幾分鋭く頑固、騒動、陽気、好戦的、元気を鼓舞するようなもの、
シリングは魔法のように美しく魅力的な交響曲とマーチに似合う、
ユンカーは快活で最高に興奮した調整、
ヴォーグラーは派手な騒ぎ、騒音、戦闘の響き、
ミースは輝き、華麗なスウィング、
リューティーは祝典的壮麗さ、軍隊の果敢さ

いずれも《G線上のアリア》の静けさとは余りにかけ離れていないだろうか?
バッハの手にかかれば二長調でも、これほど静かな曲が作れるという証拠ともいえる。
同時にバッハが調に関係なく静かなエア(エール)=G線上のアリアを作曲し得ると考えた証拠である。

有名な調性格論者のマッテゾンは「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならどんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりする事はできないからである」と述べたが、バッハも同じように考えたのだろう。

ヴィルヘルミの編曲以来、この曲がハ長調で演奏され続け、愛され続けているという事実が雄弁に語っているもの、それは音楽の性格を決定づけるものは調ではないということである。原調の二長調で演奏しなければいけないと思うのは根拠のない思い込みである。何調で演奏しようと、バッハの原曲の曲想は壊れない、壊すことは不可能である。
なぜなら、曲想は調に支配されず、曲自体に支配されるからである。
調に対する無意味な潜入観念を棄てるのがイコール式であるが、《G線上のアリア》は見事なイコール式である。

日本は西洋音楽を2度輸入した

いわゆるクラシックと呼ばれる音楽はキリスト教音楽を起源とする西洋音楽であるが、日本はこれを2度輸入した。

1度目の輸入は1549年のキリスト教伝来である。宣教師ザビエルの一行が日本で初めてミサを捧げ、鹿児島、大分、山口など各地で西洋音楽を響かせた。1582年には天正少年使節の一行が船でヨーロッパを目指した。少年たちは既に宣教師からラテン語と西洋音楽を学んでいた上に、ヨーロッパに向かう船中も学習を怠らなかった。ポルトガルに着くと、少年たちは大聖堂のミサに参加した。伊藤マンショと千々石ミゲルは、そこで初めて3段式の鍵盤を持つオルガンを目にしたが、かれらは多くの人の前で臆することなくオルガンを見事に演奏し大司教も人々も満足した。

単純に年代から考えて、マショー、デュファイ、ジョスカン・デプレ、カベソン、アルカーデルト、バード、ラッソ、パレストリーナ、スウェーリンク、ダウランド、モンテヴェルディ、プレトーリウス、フレスコバルディ、ギボンズ、シュッツ、シャイトなどの宗教音楽を日本人が知り得たと思われる。1591年には豊臣秀吉の前でジョスカン・デ・プレの曲が演奏されたという記録もある。器用な日本人が一生懸命に西洋音楽をマスターしようとしていた矢先、江戸幕府は1639年に鎖国してしまう。鎖国しただけではなく、禁教令によって西洋音楽を演奏することは許されなくなる。西洋音楽が日本から消えてしまった。

バッハは1685年生まれ、鎖国から46年後にドイツに生まれた作曲家である。バッハの没後、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、などが活躍している時、日本は鎖国をしていた。

2度目の輸入は明治時代である。
1度目に輸入した西洋音楽は禁教令以降、,隠れキリシタンが密かにオラショを歌っていたものの、いわゆる西洋音楽は壊滅状態だった。日本では能や歌舞伎が全盛期を迎えていた。そこへいきなり開国と共にクラシックが入ってきたのであるから、右も左も分からない状態でやみくもに受容せざるを得なかった。

明治も中頃になって、伊藤博文はアジアで始めての憲法をドイツに学ぶべく視察に出かけた。そこで晩年のリストのピアノ演奏を生で聴いた。伊藤は感激してリストを日本に招こうとしたが実現しなかったと言う。ちなみに伊藤は1841年生まれでドヴォルジャークと丁度同い年であり、勿論リストより若い。

鎖国している間に、西洋で活躍した音楽家、すなわち ヴィヴァルディー、テーレマン、ラモー、バッハ、ヘンデル、スカルラッティ、グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、ロッシーニ、シューベルト、ベルリオーズ、ショパン、シューマンなどは、伊藤博文が渡欧したときには既にこの世になかった。
晩年のリスト、ヴェルディ、フランク、ヴァーグナー、ブラームスなどがまだ生きていたが、時代はもう新しい音楽に移行しつつあるときに、伊藤博文は渡欧したのである。

明治政府は信濃国の下級武士の子である、伊沢修二を音楽取調掛(のちの東京芸大)に任命した。1879年のことである。井澤はアメリカ合衆国マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学び、ルーサー・メーソンから音楽教育を学んだ。またハーバード大学で理化学を学び、地質研究などを行い。聾唖教育も研究した。。
伊沢は大学南校(のちの東大)に学んだ秀才であったが、邦楽の素養すらなく、音楽を取り調べるという取り組み方だった。伊沢は、メーソンを日本に招き、「小学校唱歌」の編纂をした。

その時メーソンは小学校の教師養成のためのピアノ入門書をもってきた。有名なバイエルである。日本人はバイエルを世界的なピアノ入門書と信じて受容したが、本場ヨーロッパではマイナーだった。メーソンはヨーロッパの伝統的な音楽家ではなく、アメリカの、しかも初等音楽の教育者であるから芸術家ではなかった。日本における2度目の西洋音楽の輸入が、メーソンでなく、リストであったら、日本の音楽事情は多少変わっていたかもしれないと思う。

バッハの《平均律クラヴィーア曲集》という題名も明治期の西洋音楽受容の混乱がもたらした産物である。これは明らかな誤訳である。バッハはこの曲集の題名としてドイツ語で「Das Wohltemperierte clavier」と書いた。直訳すると「上手く調律されたクラヴィーア曲集」となるはずだ。clavier(クラヴィーア)とは鍵盤楽器全般を意味する言葉である。重要なのは「Wohletemperierte」という語である。これはWohle と temperierte の合成語で、temperierte は調律、音律という意味である。 Wohle をどう訳すかが問題である。ドイツ語で Wohleは「良い、上手い」といった意味になる。決して「平均律」ではない。

バッハはヴェルクマイスター(Andreas Werckmeister 1645〜 1706) が書いた Wohle temperiert stimmen (適度に調整して調律する) という表現にならって Wohle temperierte と書いたのだろう。
もしバッハが「平均律」を意味し、それを明記したかったら 「greich schuweven (等しく唸る)」としたはずだ。

《平均律クラヴィーア曲集》は鍵盤作品の金字塔であり、世界中で出版されている。英語では Wohle を well (良い)、仏語では bien(良い)と翻訳されている。
日本語だけが Wohle  勝手に「平均律」と誤訳した。それには鎖国の影響もあった。世界が「平均律」になってから西洋音楽を受容したという事情があった。バッハの時代やそれ以前も以後も、ヨーロッパではミーントーンやキルンベルガー音律の鍵盤楽器が主流であったことを知らなかったのではないか。またそういった音律に関する複雑な問題も知らなかったのではないか。明治になって日本に鍵盤楽器が入ってきたとき、世界の鍵盤楽器は既に平均律に移行していた。だから短絡的に「平均律」だと思い込んだのかもしれない。この思い込みが現在も尾を引いており、今でも《平均律クラヴィーア曲集》と呼んでいる。今ではこれが誤訳であることを知る人も多くなってきたが、慣れ親しんだ誤訳を他の言葉に置き換えることに強い抵抗があるようである。

移調と移高

カラオケなどで歌い易い高さに音を変える場合、「キーを上げる」、あるいは「キーを下げる」という。
キーを上げ下げしても音楽そのものに変化は起こらない。音の高さが変わるだけである。単なる音の移高である。
しかし、この音の移高が一旦、楽譜にとして書かれると、調号に変化が起こり、移調と呼ばれる。
単なる移高なのに、譜面がガラリと変わってしまうことで、元の調の趣きがガラリと変わったかのように思う。新たな調号に新たな趣きが生まれたかのような誤解を生じる。
その結果、移調すると異なる性格になると主張する人もいるほどだ。

再度確認しておきたいが、12平均律においては、移調による性格の変化は無い。12平均律は半音の幅がすべて等しいので、どの調も同じである。勿論、調性格の違いなどは存在しない。
不等分音律の場合は調ごとに多少の響きの違いがあるが、普遍的な調性格など存在しない。なぜなら、不等分音律の種類は無数にあるので、ある調性格が、どの音律に基づいているのか判然としないからである。ましてやある調の調性格というのは調性格論者によってさまざまである。ある調について真反対の調性格を述べる調性格論者も多々いるのである。」

調性格論者として最も有名なマッテゾンは次のように結論している。「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならどんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりする事はできないからである」
この言葉はマッテゾン自身が述べた調性格を、自分で否定しているにも等しいではないか。

現在の私達が、調性格を感じ、それを普遍のものと信じるのは、長年の思い込みから生じているわけだが、その原因は教会旋法の認識不足からも起こり易い。
教会旋法も近代長短j調も、任意の音から音階を始めることができる。たとえばドリア旋法はどの音を終止音にするかによって譜面の調号が違う。しかしこれをドリア旋法の移調とは言わない。高さを変えるのだから文字通理り、ドリア旋法の移高と言う。

音楽の性格が変わるのは移高によってではない。移旋によって性格が変化するのである。移旋とは旋法が変わることである。旋法が変われば音階構造が変わる。音階構造が変われば性格が変わる。例えば、ドリア旋法をフリギア旋法に移旋すれば音階構造が変わり、音楽の性格が変わる。ただし、音階開始音には影響されない。ドリア旋法の壮重な性格は、フリギアの悲しい性格に変わるのである。

参考までにブットシュテットによる教会旋法の性格づけを以下に記載する。
          イオニア旋法・・・・・・活発、陽気、楽しげ
          ドリア旋法・・・・・・活発、喜ばしい、そして壮重
          フリギア旋法・・・・全く悲しい、愛らしく快適
          リディア旋法・・・・・威嚇的
          ミクソリディア旋法・・まじめ
          エオリア旋法・・・・・・快適、愛らしい
          

教会旋法の中のイオニア旋法は長調と同じであり、その性格は活発、陽気、楽しげとなっている。一方、短調はエオリア旋法と同じであり、その性格は快適、愛らしいとなる。
このように長調も短調も旋法の一つであるから、長調を短調に移旋すれば音階構造が変わる。音階構造が変われば性格が変わる。ただし音階開始音には影響されrない。音階構造が変われば長調の明るい性格は短調の淋しい性格に変わる。音階開始音によって性格が変わるのではないということは、ハ長調やニ長調といった音階開始音の変化には影響を受けないということである。長調を短調に移旋しない限り性格は不変である。移高あるいは別の言い方で移調だけでは音楽の性格は変わらない。あくまで移旋によって音楽の性格が変わるのである。

現在、よく話題になる調性格は、長調の中にも短調の中にも、それぞれ12の調性格があると言わんばかりであるが、これらの調性格は恣意的であると同時に、おとぎ話と言わざるを得ないのである。
バッハが《平均律クラヴィーア曲集》において、難しい調をハ長調などの簡単な調から移調して曲集の中に組み込んだことを考えれば、なおさら調性格の確立は困難と言わざるを得ない。


      

調とピッチは別物

《平均律クラヴィーア曲集》 には24の調が網羅されている。その最後を飾る調はロ短調であるが、ロ短調とは何ぞや。それは「ロ」の音を主音とする、あるいは音階開始音とするところの短音階である。
短音階とは何ぞやといえば、バッハが確立した2種の音階、すなわち長音階と短音階である。長音階と短音階は半音の位置がそれぞれ違う。半音の位置がそれぞれ違うから長音階は明るく短音階は寂しい性格をもつ。2種類の音階に2種類の異なる性格が存在する。厳密に言えば、12平均律の場合において2種類の音階に2種類の異なる性格が存在する。

ところでバッハが長音階と短音階を確立するまでの音楽はどうであったか。それは教会旋法であった。教会旋法の種類は一般的に6つある。イオニア、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディア、エオリアという6つの旋法は半音の位置がそれぞれ違う。半音の位置がそれぞれ違うから6種類の音階に6種類の性格が存在することになる。
バッハがたくさんの教会旋法をエオリア旋法とイオニア旋法に集約し、長音階と短音階に確立した時から、音階の種類も性格も6種類から2種類に減少したのである。

にもかかわらずバッハの時代の長音階と短音階は2種類の性格以上のたくさんの性格を持っていた。なぜか?
バッハの時代は現在の12平均律とは違い、半音の幅が異なる不等分音律の鍵盤楽器を使っていた。半音の幅がそれぞれ異なるので、同じ短音階でもそれぞれの異なる性格が存在した、しかし現在は12平均律になってしまったので、短音階はどれも同じ性格である。つまり12平均においては長短2つの性格しかない。
ただし現在においても、不等分音律に調律した鍵盤楽器や、ヴァイオリンなど奏者が意識的に12平均律を避けて演奏できる楽器は、同じ短調でも異なる性格が存在する。それらは不等分音律を奏でることが可能であるからそれぞれの異なる性格の短調を演奏できる。
調性格を論じる時は、12平均律と不等分音律を分けて考えることが大切である。

現在世界中で使われている12平均律において、ロ短調の「ロ」とは何ぞやというと「ロ」の音つまり「シ」の高さの音が音階開始音ということである。
問題はこの「シ」の高さが歴史的に常に変動していることである。
「シ」の音の高さというのは何かというと、標準ピッチに対する高さである。
オーケストラの演奏会に行くと、いろいろな楽器の奏者がa'=440でピッチを合わせているが、この440 Hz が標準ピッチである。標準ピッチは「ラ」の音で示すので、「シ」の音はそれより1音高い。ところがこの標準ピッチが最近は445まで上げているオーケストラもあって変動している。標準ピッチが上がれば、「シ」の音も上がる。
反対にバッハの時代は標準ピッシが現在より約半音低かった。ということはバッハの「シ」の音は、現在の「♭シ」である。ピッチでもって調を決めれば、バッハのロ短調は今や変ロ短調と言わねばならない。
これは可笑しいと誰もが思う。ピッチで調を決定するのは可笑しいと思うからであろう。

ところがである。絶対音感教育は、標準音=440 における主音の高さでもって調を判断する。もしバッハの時代のピッチに準じてロ短調を演奏すれば、絶対音感保持者には変ロ短調に聞こえるらしい。楽譜を見ればロ短調なのに、耳には変ロ短調に聞こえるので気持ち悪いらしい。
これは困った問題である。





階名的センス

「ドレミ」は本来、階名であった。
『実践的音楽への平易で気楽な手引き』(トマス・モーリ 1597年)に由来するギャマット(音階図)を見ると階名の意味がよくわかる。ギャマット(音階図)には一つの音名に対して3つの階名が書いてある。例えば「C」という音名に対して「ド」「ファ」「ソ」という3つの階名が書かれている。つまり、「C」という音名はハ長調では「ド」、ト長調では「ファ」、ヘ長調では「ソ」と読むことを示している。このように調によって読み方が変わるのが階名である。
ところが、現在では音名にも「ドレミ」を使ってしまっている。階名も音名も「ドレミ」を使っている。全く意味の違うもを同じ「ドレミ」で読むという混乱が生じている。これが深刻な問題を起こす訳をこれから説明する。尚、ご承知のように階名は移動ド読み、音名は固定ド読みされる。

階名=移動ド読みの「ドレミファソラシ」はそれぞれが固有の役割を持っている。一つの家族に、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、長男、長女、次男がいるようにそれぞれの役割が違う。
反対に音名=固定ド読みは、均一の音が7つ、同じ役割の人間が一つ屋根の下にいるようなものである。

また階名は「我輩は猫である」と書くように自ずから意味のわかる表記である。
反対に音名は「ワガハイハネコデアル」というように意味不明の文字の羅列である。

例えば「高い」とネットで検索すると幾つもヒットする。どの「高い」かは前後関係があってはじめて理解できる。理解するためには「インフレで物価が高い」「高い音域」「合格の可能性が高い」などの文脈、前後関係が必要だ。階名は前後関係が分かる読み方だた、音名は単発的で前後関係無く意味もわからない読み方である。

「ドレミファソラシ」を階名=移動ド読みで歌えば、「シ」を歌うやいなや耳は次の音である「ド」への欲求を呼び起こす。階名の「シ」にはそのすぐ上にある半音を前もって感じさせる役割がある。これを導音と呼び、「シ」は自分のすぐ上にある半音を主音として通告する役割を持つ。
また「ソ」は自分の4度上にある音を主音として通告する役割をもつ。

しかし音名=固定ド読みで歌えば「シ」に固有の役割がない。「シ」の次にどこに行くのか全く不明である。「シ」が導音である可能性は極めて低い。

階名読みの「ドレミファソラシ」という階名的センスを呼び起こすためには必ずしも楽譜に頼る必要はない。階名的センスを呼び起こすには数字譜、文字譜でもいっこうにかまわない。「シード」や「ソード」の階名的センスが頭の中にあり、いつでもその音程を思い起こしてアウトプットできることが重要である。楽譜が読めることとは全く時限の違う能力である。階名的センスとは音の役割を感じる耳、それは真に音楽的な耳であり、内的聴覚の中枢をなすものである。

トニック・ソルファ法のカーウェン(John Curwen 1816〜80 )は階名のこのような性格を心に留めるのが「最も易しい方法であるばかりか最も賢明な方法である。なぜならそれは、作曲家の方法だからである」と述べている。

作曲家の方法になり得ない音名=固定ド読みは音の高さだけを識別できる能力であり、音楽的な耳とはいえない。ちょうど色の名前を教えられれば、色を識別するのは簡単だが、絵画的天才とは言えないのと同じことである。色の名前を教えるごとく、音の名前を教えるのが絶対音感教育である。絶対音感をもつことと音楽的才能とは全く別物である。
別物であるばかりか、絶対音感は、これまでるる述べたところの音名=固定ド読みであるから非音楽j的であるといわざるを得ない。
その上、厳密な絶対音感をもつと、オーケストラのピッチが違えば気持ちが悪い、CDのピッチが少し違えば気持ちが悪いといったように、不便なことも多いようである。

真の音楽

・・・・バッハのフーガを練習したことのある子供は(その際どんなに機械的に行われたにせよ)声部進行を目のあたりに学び取るのであり、この直感はもう二度と消し去られることはないであろう。そのような子供はどんな曲にも同様な音響の線による尊厳な動きを本能的に求めるようになり、その欠如を貧しさと感じるであろう・・・・

バッハの本質をこのようにズバリ言ってのけたのはシュヴァイツァーである。神学者、哲学者、医者、オルガニスト、音楽学者と実に多くの肩書きをもっている人である。彼はバッハに傾倒し、著書の『ヨハン・ゼバスィアン・バッハ』は今も多くの人に親しまれている名著だ。

シュヴァイツァーはバッハのフーガが子供に深い感化を与えると言っているのであるが、大人から見るとバッハのフーガほど難しいものはないと思われかもしれない。
しかし、ベートーヴェンの自由と平等の思想、あるいはシューマンのクララへの熱情といったものは、大人の感情であって子供には理解できないし、感化されることもないだろう。バッハのフーガは神の音楽である。人間の音楽ではないのである。バッハのフーガは宇宙普遍の大生命の響きだから幼子のように神を無心に呼び求めるがよい。無心にバッハを弾くがよい。バッハのフーガは理解を超越してもっと深い魂のレベルで二度と消し去ることのできない刻印を押すのである。

バッハに回帰しよう。バッハの平均律クラヴィーア曲集に回帰しよう。
少しでもピアノを習ったことのある人は皆、平均律クラヴィーア曲集を弾くべきである。演奏が困難であるという理由だけで平均律クラヴィーア曲集を知らないまま天国に行くのは余りにもったいない。
ハ長調とイ短調に移調した《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》なら譜読みが簡単。
声部を分けてアンサンブルで演奏すれば誰でもすぐ弾ける。

クロル校訂版も移調あり

最初に小林義武氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
『バッハ復活』 『バッハ 伝承の謎を追う』『バッハとの対話 バッハ研究の最前線 』などのご著書から多くを学ばせていただきましたことに深甚なる感謝の意を申し上げます。

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旧バッハ全集の中で《平均律クラヴィーア曲集》の校訂を担当しているのは、クロル(Franz Kroll 1820〜77)である。 旧バッハ全集とは1850年から50年の歳月を費やして出版されたもので、新バッハ全集より100年ほど古い。新バッハ全集の方は小林義武氏など世界の著名なバッハ研究者たちによって、2007年に最終巻が刊行されたばかりである。
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クロル版は新バッハ全集に先立つこと100年も前に出版されたので、まだ多くの資料を利用できず、コピイスト(筆写者)を誤認するなどのミスを犯しているものの、それでも当時のバッハ研究の集大成として未だに参考になる校訂版である。それはクロル版をもとにしてブゾーニ、トーヴィなどが、それぞれ価値の高い校訂版を出版していることからも分かる。
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クロル版には注目すべき移調がプレリュードで2曲、フーガで3曲存在する。
上の楽譜はクロルが移調した第1巻8番のフーガである。
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上の楽譜は同フーガのバッハ原典版で嬰ニ短調である。
この天蓋のような美しいフーガをクロルは変ホ短調に移調した。嬰ニと変ホは異名同音とはいえ楽譜の印象は著しく異なる。バッハは♯6コ、クロルは♭6コの調である。バッハは♯系の最も高い調、クロルは♭系の最も沈んだ調である。
この二つの調が全く同じ鍵盤を弾くことになるということ自体が、シャープ系やフラット系という調性格を土台から覆すものであるが、それはさておき、今ここでは変ホ短調への移調の根拠について述べることにしよう。

クロル以外の多くの校訂者たちも変ホ短調に移調している。その根拠は何か?
なぜバッハの自筆清書譜と異なる調を選んでいるのか?
これについて、パウル=バドゥール=スコダは次のように述べている。
「トーヴィ、ケラー、ミュラー、パルマーといった研究者たちの見解は示唆に富んでいます。それはフーガは当初ニ短調で作曲されたが、後に嬰二短調に移調されたというのですが、確かに二短調を変ホ短調に移調するより嬰二短調にしたほうが記譜はずっと簡単です。プレリュードとフーガ双方を変ホ短調で印刷しているエディションも散見されますが、演奏者の立場からもまったく問題ない編集だといえるでしょう」

つまりスコダはバッハが最初は二短調で作曲し、それを嬰二短調に移調したのは、嬰二短調の方が移調し易いからだというのです。もしバッハが二短調から変ホ短調に移調していれば、プレリュードとの調の統一がとれたのに、変ホ短調への移調が困難であるが故に、バッハは嬰二短調で記譜したに過ぎないというわけです。
バッハの手抜き移調を補うがごときクロルの変ホ短調への移調を支持する校訂者は多く、現在も多くの版で踏襲されている。すなわち、ブゾーニ版、バルトーク版、カゼッラ版、園田高弘版などがクロル版と同じ変ホ短調で記譜している。

このフーガ一つとっても《平均律クラヴィーア曲集》は単に24の調を網羅する目的で編集されたことが明らかである。バッハは24の調や24の調性格を確立する意図はなかったと思われる。
だから原典版にある調にこだわり過ぎず、もっと自由に《平均律クラヴィーア曲集》に親しむことの方がよほど大切である。

ウィーンの名教師も《平均律クラヴィーア曲集》を移調

《平均律クラヴィーア曲集》はバッハ自身が移調を試みて編集したと指摘する節が最近みられる。これはバッハが移調しながら清書したと考えられる自筆譜の修正痕を根拠としている。しかし修正痕を検証するまでもなく、バッハの時代がミーントーンだったことを考えれば移調の可能性は容易に理解できる。ミーントーンでは使える調が限られており、当時は限られた調でしか作曲しなかった。バッハの作品も限られた調がほとんどである。
ただ一つ《平均律クラヴィーア曲集》だけが24の調に挑戦する例外的な企てである。従って、バッハは遠隔調の曲を作る時は、限られた調で作曲した後に移調を試みて編集したと考えるのが自然であろう。
バッハも移調したが、バッハに続く音楽家達も《平均律クラヴィーア曲集》をさらに移調ようとした。

後世の移調の試みの一つに《ウィーンの移調譜》がある。
これは《平均律クラヴィーア曲集》の抜粋であり、アルブレヒツベルガー(Johann Georg Albrechtsberger 1736~1809)が作成した。
アルブレヒツベルガーはベートーヴェン、フンメル、モシェレスなどを育てたウィーンきっての名教師で、対位法の大家である。彼は没するまで聖シュテファン大聖堂の楽長の地位に留まり、音楽界に大きな影響力を持っていた。

彼が《ウィーンの移調譜》を作成したのは1780年、《平均律クラヴィーア曲集》が印刷出版譜として世に出るのは21年後の1801年である。彼が亡くなったのは1809年であるから、彼は生涯のほとんどを手書きの《平均律クラヴィーア曲集》とともに過ごしたといって差し支えないだろう。したがって彼は弟子たちに教授するにも、手書きの《平均律クラヴィーア曲集》、つまり自ら編集した《ウィーンの移調譜》を使ったと考えられる。

《ウィーンの移調譜》 は《平均律クラヴィーア曲集 第2巻》の抜粋である。
除外されたのはイ短調を除くすべてのプレリュードと幾つかのフーガである。
つまり、イ短調のプレリュードと、フーガのほとんどが入っている。

このフーガのうち4つは移調されている。
すなわち嬰へ長調が→へ長調に、変イ長調が→ト長調に、変ロ短調が→イ短調に、ロ長調が→ハ長調に移調された。
皮肉にも嬰へ長調は、もともとバッハがへ長調で作曲した後に、半音上げて嬰ヘ長調に移調したものである。
結局、アルブレヒツベルガーがバッハの最初の調に戻したことになる。
アルブレヒツベルガーの生きた時代は、まだバッハの自筆譜の修正痕の研究は進んでなかったが、彼はヘ長調から移調して編集されていることを直感的に悟ったのではなかろうか。
同様に移調された4曲のうち3つまでが、アルベルヒツベルガーによって、バッハの最初の調に戻されたことになる。

アルブレヒツベルガーの時代はまだ、《平均律クラヴィーア曲集》を書き写して学んでいた。写譜しながら主として作曲法を学んだのである。写譜の際に移調も頻繁に試みられた。
しかし現代の演奏家たちは綺麗に印刷された《平均律クラヴィーア曲集》を買い求めて、ただ弾くだけである。作曲法に主眼を置いて弾く人は少なく、作曲と演奏は完全に分業化している。

出版譜の出現によって《平均律クラヴィーア曲集》の各調を固定的なものとして捉える風潮が進んだ。出版譜がない時代は、移調も含む写譜によって伝承され、調に対する自由も大きかった。
現代の人たちが、《平均律クラヴィーア曲集》の調を固定的に捉えるのは印刷出版譜のせいだと今述べたばかりだが、むしろそれよりも大きな原因は12等分平均律とその落とし子である絶対音感崇拝のせいでもある。

絶対音感を持っている人は、《平均律クラヴィーア曲集》を違う調で聴くと気持ち悪く感じ、固有の調にこだわる。
彼らは「調が違う」から気持ち悪いのだと誤解しているが、正しくは「ピッチが違」うから気持ち悪いのである。
なぜなら、12等分平均律において、調はすべて均一であり「調が違う」ということは有り得ないからである。
調はどれでも同じことだがピッチが違うのである。
12等分平均律における調は記譜上だけの問題であり、実音においてはどの調も同じ音階構造である。
それなのに気持ち悪いと感じるのは、実音の「ピッチが違う」からに他ならない。
決して「調が違う」からではない。

例えばカラオケでキー(調)を変えても気持ち悪いという人はないだろう。
では何故、《平均律クラヴィーア曲集》のキー(調)を変えると気持ち悪いのだろうか。
矛盾しているではないか。
このように絶対音感的な音楽の捉え方は矛盾が多いのである。
音楽は相対音感であることを今一度確認したい。







絶対音感 無効論

絶対音感とは聞こえた音の絶対的な高さを楽器等の助けを借りずに識別する能力である。ピアノはもとより、三味線、、鳥の声、サイレン、飛行機の爆音、グラスが割れる音など、ありとあらゆる音の絶対的な高さを識別する人間音叉のような人を絶対音感保持者という。

絶対音感イコール音楽的才能と信じる人は未だに結構多い。これは特に日本人に多く見られる特徴で、日本には絶対音感教育という特殊なレッスンもある。
外国にはこういう特殊な教育法はない。なぜなら彼らにとっては教育の必要性が感じられないからである。外国では絶対音感は知らないうちにに生じてくるものと考えている。

絶対音感教育の創始者は園田清秀(1903〜35)、ピアニスト園田高弘の父である。
清秀の理論と実験は笈田光吉、山田耕作、斉藤秀雄らの協力を得てついに『絶対音 早教育』として世に出ることになり、「音楽教育の革命、天才児大量生産」と音楽界にセンセーションを巻き起こした。これは1935年、終戦の10年前であった。このとき「絶対音感」とは言わず「絶対音」と言っていることは非常に重要である。

清秀が32才の若さで亡くなると、『絶対音 早教育』は郷里の大分県で引き継がれる。
一方、東京では笈田光吉が「絶対音」を勝手に「絶対音感」と改め、『絶対音感 及 和音感教育法』を体系化する。笈田の「絶対音感」教育は学校現場の教師たちから「楽しんで学習できない。神経衰弱になる」との猛反発をくらったが、軍部はこれを採用し、小学校で強制的にやらせた。軍部の「絶対音感」教育の目的はB29の機種や高度を判別させるためのものであって音楽教育ではなかった。このために絶対音感教育には戦争のイメージがつきまとうことになり、終戦後は一端否定された。

このまま永久に止めておけばよかったものを、終戦後間もなく絶対音感の平和利用が始まる。かつての「天才児大量生産」の夢よ再びというわけで今度は斉藤秀雄、吉田秀和、柴田南雄らが桐朋学園子供のための音楽教室を開設し、絶対音感教育を復活する。
この教室で使用する『子供のためのハーモニー聴音ー音感訓練の本』はロングイセラーとなる。内容は1番「ツェー、エー、ゲー」の和音から、416番「♯デー、♯エー、♯♯ゲー、♯ハー」の和音の羅列である。進んだ?教育ママたちは、わが子が何番まで和音を覚えたかを競い合い、「絶対音感」教育は過熱していく。

同書の前書きには 「a' 音を440Hzとし、正しく調律されたピアノで実施せよ」と書かれている。これは標準音を440Hzにせよ、12等分平均律に正しく調律せよという意味である。しかし世の中の音楽がすべて440Hzだろうか。442Hzのオーケストラもあれば、445Hzもある。古楽の演奏では415Hzである。現状を無視して440Hz に限定して教育してしまうと、精密な絶対音感保持者ほどオーケストラの音が狂って聞こえてしまう。絶対音感を持ったが故の悲劇が起こる。いったい何をもって「絶対」というのか甚だ疑問である。

更に大きな問題は12等分平均律でもって教育することである。
例えば「ド」の音から「ミ」の音を作るとき、音楽家は正しい長3度を心のうちに聴かねばならない。弦や管の奏者は心のうちに聴いた長3度を奏でる。ところが12等分平律のピアノは正しい長3度よりも大幅に広い音程である。心のうちに聴く純正の長3度とはかけ離れており全くハモらない3度である。ゾルゲ(1703〜78)は「あまりに耳障りである。これは杓子定規の音律に由来する」と評した。この極端な長3度を刷り込むのが「絶対音感」教育であるから恐ろしいことである。12等分平均律のピアノはすべての音程を等しく狂わせる調律なので、オクターヴ以外はすべて狂っている。これでは自然の耳が破壊されて当然だ。絶対音感教育とは自然の美しい音程を心のうちに持った人間を、杓子定規で濁った音程に改悪することに他ならない。

戦後の日本は西欧に追いつけ追い越せの時代である。和音名をドイツ語で言う教育法は、西洋音楽を知らない人達には高尚で芸術的に思えたのかもしれない。しかしそれは軍部が行った絶対音感教育で使われた「ハ、ホ、ト」をドイツ音名に変えただけの中身は変わらないものである。一方はB29、他方はピアノ楽曲とその使用目的は違えど、とちらも音の高さのみを識別する人間音叉教育に他ならないということを見抜くべきである。戦後の日本は外国のように家庭の中に音楽がある家などほとんど無かった。ピアノの音が家の中にあることに憧れを抱いた。高価なピアノも割賦販売開始とともに憧れであったものが庶民の手にも届くようになる。そして全国津々浦々、ピアノ教室ができ、我も我もと絶対音感教育に狂奔する。

音の高さをピアノの鍵盤に例えてレッテル貼りをするのが絶対音感教育であるが、「ド」の鍵盤と「♯ド」の鍵盤との間には無数の音があることを忘れている。「ド」は 264Hz、「♯ド」は 275 Hz である。その間にある無数の音を無視し、1オクターブを12鍵盤でもってレッテルを貼るのが絶対音感教育である。音の高さは鍵盤楽器のように階段的に上下するのではなく、ヴァイオリンのようにスロープ的に上下する。絶対音感教育は絶対「鍵感」教育に他ならない。

最後に絶対音感教育の最大の罪は「音感」という言葉を使ったことである。B29の音を識別できることを音楽的才能と考える人はいない。音の感覚だから「音感」という程度のことである。ところがこれと全く同じ識別能力に過ぎないものが、ドイツ語や桐朋というブランド力によって音楽的才能であると勘違いしてしまった。
ピアノの鍵盤名を当てることは音楽的な意味の「音感」ではない。一つの音が過去とも未来とも断絶して、個々の音の高さのみを識別することは音楽と全く無縁である。色彩を見て赤や白というレッテルを貼ることができても、それが天才的な画家ではないのと同じである
真の「音感」とは「ド」の音に対して「ミ」の音を正しく心のうちに聴く能力である。つまり相対的な音程が「音感」であり、音の絶対的な高さは問題ではない。絶対的な音の高さと音楽の内容が無関係であるからこそ、シューベルトの「冬の旅」は高声用、中声用などいろいろな音の高さで歌われる、いろいろな調の楽譜が出版されている。「冬の度」をどの高さで歌っても「冬の旅」に変わりはない。絶対音感保持者のように鍵盤名で「冬の度」を歌うのではなく、階名で歌えば高声用の楽譜も中声用の楽譜も同じシラブルになる。

「桐朋学園子どものための音楽教室」の室長の別宮貞雄は「我々は皆、絶対音感を持っていなかったので、それがすばらしいと思ってしまったんだね」と後に述べているように、当時の日本は音楽的に非常に貧しかった。それが60年も続き、今もって絶対音感を妄信する風潮がある。絶対音感教育は真の「音感」を破壊するものである。真の「音感」とは、ハモる音程と階名(移動ド)である。絶対音感教育はハモらない音程で音名(固定ド)だから音楽的とはいえない。



やわらかなバッハの会
〒753-0072 山口県山口市大手町
3−6 大手町ビル4F
毎週土曜日 輪奏会18:00 PM
第2金曜日 輪読会10:00 AM
毎月1回   対話集会18:00 PM
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場所:新山口駅

バッハ・イン・ザ・サブウェイズ
2019年3月21日
場所:新山口駅

<プロフィール>
やわらかなバッハの会 
会長 橋本絹代
新しい鍵盤楽器記譜法「イコール式」の創始者

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取り
バッハのとりこになった。
ピアノレッスンを通じて初級者でもバッハのフーガを楽む方法を提案している。

2007年 世界で初めての楽譜《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》カワイ出版 

2009年 音楽書『やわらかなバッハ』春秋社

2013年「やわらかなバッハの会」設立

2014年 バッハ礼讃音楽会 (於 旧県会議事堂) 毎年開催

2016年 バッハ・イン・ザ・サブウェイズ (於 新山口駅南北自由通路 )毎年開催

2017年 Bach Network UK 対話会議研究発表 (於 ケンブリッジ大学)

Prof.Yo Yomita (富田庸) 講演会「バッハを嗜む」主催 (於 山口大学)

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも「どんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりすることはできない」と述べています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の中の難しい調を簡単な調に移調してまず親しむことが大切です。初級者は更にそれをアンサンブルで楽しむことが大切です。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。


世界唯一! 平均律クラヴィーア曲集の移調
音楽の構造が良く解る










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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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