やわらかなバッハの会 The Society of Soft Bach

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所  所長  橋本絹代
Equal Method Music Institute President Kinuyo Hashimoto

調とピッチは別物

《平均律クラヴィーア曲集》 には24の調が網羅されている。その最後を飾る調はロ短調であるが、ロ短調とは何ぞや。それは「ロ」の音を主音とする、あるいは音階開始音とするところの短音階である。
短音階とは何ぞやといえば、バッハが確立した2種の音階、すなわち長音階と短音階である。長音階と短音階は半音の位置がそれぞれ違う。半音の位置がそれぞれ違うから長音階は明るく短音階は寂しい性格をもつ。2種類の音階に2種類の異なる性格が存在する。厳密に言えば、12平均律の場合において2種類の音階に2種類の異なる性格が存在する。

ところでバッハが長音階と短音階を確立するまでの音楽はどうであったか。それは教会旋法であった。教会旋法の種類は一般的に6つある。イオニア、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディア、エオリアという6つの旋法は半音の位置がそれぞれ違う。半音の位置がそれぞれ違うから6種類の音階に6種類の性格が存在することになる。
バッハがたくさんの教会旋法をエオリア旋法とイオニア旋法に集約し、長音階と短音階に確立した時から、音階の種類も性格も6種類から2種類に減少したのである。

にもかかわらずバッハの時代の長音階と短音階は2種類の性格以上のたくさんの性格を持っていた。なぜか?
バッハの時代は現在の12平均律とは違い、半音の幅が異なる不等分音律の鍵盤楽器を使っていた。半音の幅がそれぞれ異なるので、同じ短音階でもそれぞれの異なる性格が存在した、しかし現在は12平均律になってしまったので、短音階はどれも同じ性格である。つまり12平均においては長短2つの性格しかない。
ただし現在においても、不等分音律に調律した鍵盤楽器や、ヴァイオリンなど奏者が意識的に12平均律を避けて演奏できる楽器は、同じ短調でも異なる性格が存在する。それらは不等分音律を奏でることが可能であるからそれぞれの異なる性格の短調を演奏できる。
調性格を論じる時は、12平均律と不等分音律を分けて考えることが大切である。

現在世界中で使われている12平均律において、ロ短調の「ロ」とは何ぞやというと「ロ」の音つまり「シ」の高さの音が音階開始音ということである。
問題はこの「シ」の高さが歴史的に常に変動していることである。
「シ」の音の高さというのは何かというと、標準ピッチに対する高さである。
オーケストラの演奏会に行くと、いろいろな楽器の奏者がa'=440でピッチを合わせているが、この440 Hz が標準ピッチである。標準ピッチは「ラ」の音で示すので、「シ」の音はそれより1音高い。ところがこの標準ピッチが最近は445まで上げているオーケストラもあって変動している。標準ピッチが上がれば、「シ」の音も上がる。
反対にバッハの時代は標準ピッシが現在より約半音低かった。ということはバッハの「シ」の音は、現在の「♭シ」である。ピッチでもって調を決めれば、バッハのロ短調は今や変ロ短調と言わねばならない。
これは可笑しいと誰もが思う。ピッチで調を決定するのは可笑しいと思うからであろう。

ところがである。絶対音感教育は、標準音=440 における主音の高さでもって調を判断する。もしバッハの時代のピッチに準じてロ短調を演奏すれば、絶対音感保持者には変ロ短調に聞こえるらしい。楽譜を見ればロ短調なのに、耳には変ロ短調に聞こえるので気持ち悪いらしい。
これは困った問題である。





階名的センス

「ドレミ」は本来、階名であった。
『実践的音楽への平易で気楽な手引き』(トマス・モーリ 1597年)に由来するギャマット(音階図)を見ると階名の意味がよくわかる。ギャマット(音階図)には一つの音名に対して3つの階名が書いてある。例えば「C」という音名に対して「ド」「ファ」「ソ」という3つの階名が書かれている。つまり、「C」という音名はハ長調では「ド」、ト長調では「ファ」、ヘ長調では「ソ」と読むことを示している。このように調によって読み方が変わるのが階名である。
ところが、現在では音名にも「ドレミ」を使ってしまっている。階名も音名も「ドレミ」を使っている。全く意味の違うもを同じ「ドレミ」で読むという混乱が生じている。これが深刻な問題を起こす訳をこれから説明する。尚、ご承知のように階名は移動ド読み、音名は固定ド読みされる。

階名=移動ド読みの「ドレミファソラシ」はそれぞれが固有の役割を持っている。一つの家族に、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、長男、長女、次男がいるようにそれぞれの役割が違う。
反対に音名=固定ド読みは、均一の音が7つ、同じ役割の人間が一つ屋根の下にいるようなものである。

また階名は「我輩は猫である」と書くように自ずから意味のわかる表記である。
反対に音名は「ワガハイハネコデアル」というように意味不明の文字の羅列である。

例えば「高い」とネットで検索すると幾つもヒットする。どの「高い」かは前後関係があってはじめて理解できる。理解するためには「インフレで物価が高い」「高い音域」「合格の可能性が高い」などの文脈、前後関係が必要だ。階名は前後関係が分かる読み方だた、音名は単発的で前後関係無く意味もわからない読み方である。

「ドレミファソラシ」を階名=移動ド読みで歌えば、「シ」を歌うやいなや耳は次の音である「ド」への欲求を呼び起こす。階名の「シ」にはそのすぐ上にある半音を前もって感じさせる役割がある。これを導音と呼び、「シ」は自分のすぐ上にある半音を主音として通告する役割を持つ。
また「ソ」は自分の4度上にある音を主音として通告する役割をもつ。

しかし音名=固定ド読みで歌えば「シ」に固有の役割がない。「シ」の次にどこに行くのか全く不明である。「シ」が導音である可能性は極めて低い。

階名読みの「ドレミファソラシ」という階名的センスを呼び起こすためには必ずしも楽譜に頼る必要はない。階名的センスを呼び起こすには数字譜、文字譜でもいっこうにかまわない。「シード」や「ソード」の階名的センスが頭の中にあり、いつでもその音程を思い起こしてアウトプットできることが重要である。楽譜が読めることとは全く時限の違う能力である。階名的センスとは音の役割を感じる耳、それは真に音楽的な耳であり、内的聴覚の中枢をなすものである。

トニック・ソルファ法のカーウェン(John Curwen 1816〜80 )は階名のこのような性格を心に留めるのが「最も易しい方法であるばかりか最も賢明な方法である。なぜならそれは、作曲家の方法だからである」と述べている。

作曲家の方法になり得ない音名=固定ド読みは音の高さだけを識別できる能力であり、音楽的な耳とはいえない。ちょうど色の名前を教えられれば、色を識別するのは簡単だが、絵画的天才とは言えないのと同じことである。色の名前を教えるごとく、音の名前を教えるのが絶対音感教育である。絶対音感をもつことと音楽的才能とは全く別物である。
別物であるばかりか、絶対音感は、これまでるる述べたところの音名=固定ド読みであるから非音楽j的であるといわざるを得ない。
その上、厳密な絶対音感をもつと、オーケストラのピッチが違えば気持ちが悪い、CDのピッチが少し違えば気持ちが悪いといったように、不便なことも多いようである。

真の音楽

・・・・バッハのフーガを練習したことのある子供は(その際どんなに機械的に行われたにせよ)声部進行を目のあたりに学び取るのであり、この直感はもう二度と消し去られることはないであろう。そのような子供はどんな曲にも同様な音響の線による尊厳な動きを本能的に求めるようになり、その欠如を貧しさと感じるであろう・・・・

バッハの本質をこのようにズバリ言ってのけたのはシュヴァイツァーである。神学者、哲学者、医者、オルガニスト、音楽学者と実に多くの肩書きをもっている人である。彼はバッハに傾倒し、著書の『ヨハン・ゼバスィアン・バッハ』は今も多くの人に親しまれている名著だ。

シュヴァイツァーはバッハのフーガが子供に深い感化を与えると言っているのであるが、大人から見るとバッハのフーガほど難しいものはないと思われかもしれない。
しかし、ベートーヴェンの自由と平等の思想、あるいはシューマンのクララへの熱情といったものは、大人の感情であって子供には理解できないし、感化されることもないだろう。バッハのフーガは神の音楽である。人間の音楽ではないのである。バッハのフーガは宇宙普遍の大生命の響きだから幼子のように神を無心に呼び求めるがよい。無心にバッハを弾くがよい。バッハのフーガは理解を超越してもっと深い魂のレベルで二度と消し去ることのできない刻印を押すのである。

バッハに回帰しよう。バッハの平均律クラヴィーア曲集に回帰しよう。
少しでもピアノを習ったことのある人は皆、平均律クラヴィーア曲集を弾くべきである。演奏が困難であるという理由だけで平均律クラヴィーア曲集を知らないまま天国に行くのは余りにもったいない。
ハ長調とイ短調に移調した《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》なら譜読みが簡単。
声部を分けてアンサンブルで演奏すれば誰でもすぐ弾ける。

クロル校訂版も移調あり

最初に小林義武氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
『バッハ復活』 『バッハ 伝承の謎を追う』『バッハとの対話 バッハ研究の最前線 』などのご著書から多くを学ばせていただきましたことに深甚なる感謝の意を申し上げます。

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旧バッハ全集の中で《平均律クラヴィーア曲集》の校訂を担当しているのは、クロル(Franz Kroll 1820〜77)である。 旧バッハ全集とは1850年から50年の歳月を費やして出版されたもので、新バッハ全集より100年ほど古い。新バッハ全集の方は小林義武氏など世界の著名なバッハ研究者たちによって、2007年に最終巻が刊行されたばかりである。
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クロル版は新バッハ全集に先立つこと100年も前に出版されたので、まだ多くの資料を利用できず、コピイスト(筆写者)を誤認するなどのミスを犯しているものの、それでも当時のバッハ研究の集大成として未だに参考になる校訂版である。それはクロル版をもとにしてブゾーニ、トーヴィなどが、それぞれ価値の高い校訂版を出版していることからも分かる。
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クロル版には注目すべき移調がプレリュードで2曲、フーガで3曲存在する。
上の楽譜はクロルが移調した第1巻8番のフーガである。
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上の楽譜は同フーガのバッハ原典版で嬰ニ短調である。
この天蓋のような美しいフーガをクロルは変ホ短調に移調した。嬰ニと変ホは異名同音とはいえ楽譜の印象は著しく異なる。バッハは♯6コ、クロルは♭6コの調である。バッハは♯系の最も高い調、クロルは♭系の最も沈んだ調である。
この二つの調が全く同じ鍵盤を弾くことになるということ自体が、シャープ系やフラット系という調性格を土台から覆すものであるが、それはさておき、今ここでは変ホ短調への移調の根拠について述べることにしよう。

クロル以外の多くの校訂者たちも変ホ短調に移調している。その根拠は何か?
なぜバッハの自筆清書譜と異なる調を選んでいるのか?
これについて、パウル=バドゥール=スコダは次のように述べている。
「トーヴィ、ケラー、ミュラー、パルマーといった研究者たちの見解は示唆に富んでいます。それはフーガは当初ニ短調で作曲されたが、後に嬰二短調に移調されたというのですが、確かに二短調を変ホ短調に移調するより嬰二短調にしたほうが記譜はずっと簡単です。プレリュードとフーガ双方を変ホ短調で印刷しているエディションも散見されますが、演奏者の立場からもまったく問題ない編集だといえるでしょう」

つまりスコダはバッハが最初は二短調で作曲し、それを嬰二短調に移調したのは、嬰二短調の方が移調し易いからだというのです。もしバッハが二短調から変ホ短調に移調していれば、プレリュードとの調の統一がとれたのに、変ホ短調への移調が困難であるが故に、バッハは嬰二短調で記譜したに過ぎないというわけです。
バッハの手抜き移調を補うがごときクロルの変ホ短調への移調を支持する校訂者は多く、現在も多くの版で踏襲されている。すなわち、ブゾーニ版、バルトーク版、カゼッラ版、園田高弘版などがクロル版と同じ変ホ短調で記譜している。

このフーガ一つとっても《平均律クラヴィーア曲集》は単に24の調を網羅する目的で編集されたことが明らかである。バッハは24の調や24の調性格を確立する意図はなかったと思われる。
だから原典版にある調にこだわり過ぎず、もっと自由に《平均律クラヴィーア曲集》に親しむことの方がよほど大切である。

ウィーンの名教師も《平均律クラヴィーア曲集》を移調

《平均律クラヴィーア曲集》はバッハ自身が移調を試みて編集したと指摘する節が最近みられる。これはバッハが移調しながら清書したと考えられる自筆譜の修正痕を根拠としている。しかし修正痕を検証するまでもなく、バッハの時代がミーントーンだったことを考えれば移調の可能性は容易に理解できる。ミーントーンでは使える調が限られており、当時は限られた調でしか作曲しなかった。バッハの作品も限られた調がほとんどである。
ただ一つ《平均律クラヴィーア曲集》だけが24の調に挑戦する例外的な企てである。従って、バッハは遠隔調の曲を作る時は、限られた調で作曲した後に移調を試みて編集したと考えるのが自然であろう。
バッハも移調したが、バッハに続く音楽家達も《平均律クラヴィーア曲集》をさらに移調ようとした。

後世の移調の試みの一つに《ウィーンの移調譜》がある。
これは《平均律クラヴィーア曲集》の抜粋であり、アルブレヒツベルガー(Johann Georg Albrechtsberger 1736~1809)が作成した。
アルブレヒツベルガーはベートーヴェン、フンメル、モシェレスなどを育てたウィーンきっての名教師で、対位法の大家である。彼は没するまで聖シュテファン大聖堂の楽長の地位に留まり、音楽界に大きな影響力を持っていた。

彼が《ウィーンの移調譜》を作成したのは1780年、《平均律クラヴィーア曲集》が印刷出版譜として世に出るのは21年後の1801年である。彼が亡くなったのは1809年であるから、彼は生涯のほとんどを手書きの《平均律クラヴィーア曲集》とともに過ごしたといって差し支えないだろう。したがって彼は弟子たちに教授するにも、手書きの《平均律クラヴィーア曲集》、つまり自ら編集した《ウィーンの移調譜》を使ったと考えられる。

《ウィーンの移調譜》 は《平均律クラヴィーア曲集 第2巻》の抜粋である。
除外されたのはイ短調を除くすべてのプレリュードと幾つかのフーガである。
つまり、イ短調のプレリュードと、フーガのほとんどが入っている。

このフーガのうち4つは移調されている。
すなわち嬰へ長調が→へ長調に、変イ長調が→ト長調に、変ロ短調が→イ短調に、ロ長調が→ハ長調に移調された。
皮肉にも嬰へ長調は、もともとバッハがへ長調で作曲した後に、半音上げて嬰ヘ長調に移調したものである。
結局、アルブレヒツベルガーがバッハの最初の調に戻したことになる。
アルブレヒツベルガーの生きた時代は、まだバッハの自筆譜の修正痕の研究は進んでなかったが、彼はヘ長調から移調して編集されていることを直感的に悟ったのではなかろうか。
同様に移調された4曲のうち3つまでが、アルベルヒツベルガーによって、バッハの最初の調に戻されたことになる。

アルブレヒツベルガーの時代はまだ、《平均律クラヴィーア曲集》を書き写して学んでいた。写譜しながら主として作曲法を学んだのである。写譜の際に移調も頻繁に試みられた。
しかし現代の演奏家たちは綺麗に印刷された《平均律クラヴィーア曲集》を買い求めて、ただ弾くだけである。作曲法に主眼を置いて弾く人は少なく、作曲と演奏は完全に分業化している。

出版譜の出現によって《平均律クラヴィーア曲集》の各調を固定的なものとして捉える風潮が進んだ。出版譜がない時代は、移調も含む写譜によって伝承され、調に対する自由も大きかった。
現代の人たちが、《平均律クラヴィーア曲集》の調を固定的に捉えるのは印刷出版譜のせいだと今述べたばかりだが、むしろそれよりも大きな原因は12等分平均律とその落とし子である絶対音感崇拝のせいでもある。

絶対音感を持っている人は、《平均律クラヴィーア曲集》を違う調で聴くと気持ち悪く感じ、固有の調にこだわる。
彼らは「調が違う」から気持ち悪いのだと誤解しているが、正しくは「ピッチが違」うから気持ち悪いのである。
なぜなら、12等分平均律において、調はすべて均一であり「調が違う」ということは有り得ないからである。
調はどれでも同じことだがピッチが違うのである。
12等分平均律における調は記譜上だけの問題であり、実音においてはどの調も同じ音階構造である。
それなのに気持ち悪いと感じるのは、実音の「ピッチが違う」からに他ならない。
決して「調が違う」からではない。

例えばカラオケでキー(調)を変えても気持ち悪いという人はないだろう。
では何故、《平均律クラヴィーア曲集》のキー(調)を変えると気持ち悪いのだろうか。
矛盾しているではないか。
このように絶対音感的な音楽の捉え方は矛盾が多いのである。
音楽は相対音感であることを今一度確認したい。







絶対音感 無効論

絶対音感とは聞こえた音の絶対的な高さを楽器等の助けを借りずに識別する能力である。ピアノはもとより、三味線、、鳥の声、サイレン、飛行機の爆音、グラスが割れる音など、ありとあらゆる音の絶対的な高さを識別する人間音叉のような人を絶対音感保持者という。

絶対音感イコール音楽的才能と信じる人は未だに結構多い。これは特に日本人に多く見られる特徴で、日本には絶対音感教育という特殊なレッスンもある。
外国にはこういう特殊な教育法はない。なぜなら彼らにとっては教育の必要性が感じられないからである。外国では絶対音感は知らないうちにに生じてくるものと考えている。

絶対音感教育の創始者は園田清秀(1903〜35)、ピアニスト園田高弘の父である。
清秀の理論と実験は笈田光吉、山田耕作、斉藤秀雄らの協力を得てついに『絶対音 早教育』として世に出ることになり、「音楽教育の革命、天才児大量生産」と音楽界にセンセーションを巻き起こした。これは1935年、終戦の10年前であった。このとき「絶対音感」とは言わず「絶対音」と言っていることは非常に重要である。

清秀が32才の若さで亡くなると、『絶対音 早教育』は郷里の大分県で引き継がれる。
一方、東京では笈田光吉が「絶対音」を勝手に「絶対音感」と改め、『絶対音感 及 和音感教育法』を体系化する。笈田の「絶対音感」教育は学校現場の教師たちから「楽しんで学習できない。神経衰弱になる」との猛反発をくらったが、軍部はこれを採用し、小学校で強制的にやらせた。軍部の「絶対音感」教育の目的はB29の機種や高度を判別させるためのものであって音楽教育ではなかった。このために絶対音感教育には戦争のイメージがつきまとうことになり、終戦後は一端否定された。

このまま永久に止めておけばよかったものを、終戦後間もなく絶対音感の平和利用が始まる。かつての「天才児大量生産」の夢よ再びというわけで今度は斉藤秀雄、吉田秀和、柴田南雄らが桐朋学園子供のための音楽教室を開設し、絶対音感教育を復活する。
この教室で使用する『子供のためのハーモニー聴音ー音感訓練の本』はロングイセラーとなる。内容は1番「ツェー、エー、ゲー」の和音から、416番「♯デー、♯エー、♯♯ゲー、♯ハー」の和音の羅列である。進んだ?教育ママたちは、わが子が何番まで和音を覚えたかを競い合い、「絶対音感」教育は過熱していく。

同書の前書きには 「a' 音を440Hzとし、正しく調律されたピアノで実施せよ」と書かれている。これは標準音を440Hzにせよ、12等分平均律に正しく調律せよという意味である。しかし世の中の音楽がすべて440Hzだろうか。442Hzのオーケストラもあれば、445Hzもある。古楽の演奏では415Hzである。現状を無視して440Hz に限定して教育してしまうと、精密な絶対音感保持者ほどオーケストラの音が狂って聞こえてしまう。絶対音感を持ったが故の悲劇が起こる。いったい何をもって「絶対」というのか甚だ疑問である。

更に大きな問題は12等分平均律でもって教育することである。
例えば「ド」の音から「ミ」の音を作るとき、音楽家は正しい長3度を心のうちに聴かねばならない。弦や管の奏者は心のうちに聴いた長3度を奏でる。ところが12等分平律のピアノは正しい長3度よりも大幅に広い音程である。心のうちに聴く純正の長3度とはかけ離れており全くハモらない3度である。ゾルゲ(1703〜78)は「あまりに耳障りである。これは杓子定規の音律に由来する」と評した。この極端な長3度を刷り込むのが「絶対音感」教育であるから恐ろしいことである。12等分平均律のピアノはすべての音程を等しく狂わせる調律なので、オクターヴ以外はすべて狂っている。これでは自然の耳が破壊されて当然だ。絶対音感教育とは自然の美しい音程を心のうちに持った人間を、杓子定規で濁った音程に改悪することに他ならない。

戦後の日本は西欧に追いつけ追い越せの時代である。和音名をドイツ語で言う教育法は、西洋音楽を知らない人達には高尚で芸術的に思えたのかもしれない。しかしそれは軍部が行った絶対音感教育で使われた「ハ、ホ、ト」をドイツ音名に変えただけの中身は変わらないものである。一方はB29、他方はピアノ楽曲とその使用目的は違えど、とちらも音の高さのみを識別する人間音叉教育に他ならないということを見抜くべきである。戦後の日本は外国のように家庭の中に音楽がある家などほとんど無かった。ピアノの音が家の中にあることに憧れを抱いた。高価なピアノも割賦販売開始とともに憧れであったものが庶民の手にも届くようになる。そして全国津々浦々、ピアノ教室ができ、我も我もと絶対音感教育に狂奔する。

音の高さをピアノの鍵盤に例えてレッテル貼りをするのが絶対音感教育であるが、「ド」の鍵盤と「♯ド」の鍵盤との間には無数の音があることを忘れている。「ド」は 264Hz、「♯ド」は 275 Hz である。その間にある無数の音を無視し、1オクターブを12鍵盤でもってレッテルを貼るのが絶対音感教育である。音の高さは鍵盤楽器のように階段的に上下するのではなく、ヴァイオリンのようにスロープ的に上下する。絶対音感教育は絶対「鍵感」教育に他ならない。

最後に絶対音感教育の最大の罪は「音感」という言葉を使ったことである。B29の音を識別できることを音楽的才能と考える人はいない。音の感覚だから「音感」という程度のことである。ところがこれと全く同じ識別能力に過ぎないものが、ドイツ語や桐朋というブランド力によって音楽的才能であると勘違いしてしまった。
ピアノの鍵盤名を当てることは音楽的な意味の「音感」ではない。一つの音が過去とも未来とも断絶して、個々の音の高さのみを識別することは音楽と全く無縁である。色彩を見て赤や白というレッテルを貼ることができても、それが天才的な画家ではないのと同じである
真の「音感」とは「ド」の音に対して「ミ」の音を正しく心のうちに聴く能力である。つまり相対的な音程が「音感」であり、音の絶対的な高さは問題ではない。絶対的な音の高さと音楽の内容が無関係であるからこそ、シューベルトの「冬の旅」は高声用、中声用などいろいろな音の高さで歌われる、いろいろな調の楽譜が出版されている。「冬の度」をどの高さで歌っても「冬の旅」に変わりはない。絶対音感保持者のように鍵盤名で「冬の度」を歌うのではなく、階名で歌えば高声用の楽譜も中声用の楽譜も同じシラブルになる。

「桐朋学園子どものための音楽教室」の室長の別宮貞雄は「我々は皆、絶対音感を持っていなかったので、それがすばらしいと思ってしまったんだね」と後に述べているように、当時の日本は音楽的に非常に貧しかった。それが60年も続き、今もって絶対音感を妄信する風潮がある。絶対音感教育は真の「音感」を破壊するものである。真の「音感」とは、ハモる音程と階名(移動ド)である。絶対音感教育はハモらない音程で音名(固定ド)だから音楽的とはいえない。



原典版は原典に非ず

《平均律クラヴィーア曲集》は、バッハの死後50年を経て1800年にようやく出版されました。
フォルケル、シュヴァンツ、ネーゲルらによるものが最初期の校訂版です。続いて後世の研究者や演奏家がさまざまな校訂版を出版してきました。
それらは独自の解釈版もあれば、バッハの原典に戻ろうとする資料批判版までその内容は実に多種多様です。
また、いわゆる原典版と言われるものであっても、校訂した人それぞれの視点が反映されるので全く同一というわけではありません。つまり原典といえども一つではないということです。

従って《平均律クラヴィーア曲集》には非常に多くの版が存在していますが、ここに一つのユニークな版があります。
それは Bruno 校訂の 《バッハ:平均律クラヴィーア曲集1  自筆譜に基づくオリジナル音部記号版》です。

Bach,J.S. Das Wohltemperirte Clavier 1:
Urtext Edition in original Clefs from the autograph Manuscript
edited by David Aijon Bruno
UT ORPHEUS EDIZIONI

Bruno版は単にオリジナル音部記号を採用しただけではなく、声部や連桁などもバッハの自筆譜に忠実です。
そのBruno 校訂の自筆譜に基づくオリジナル音部記号版と、Dull 校訂のベーレンライター原典版 を比較すると実に多くの相違点があります。ということはつまり、ベーレンライター原典版はバッハの自筆譜に忠実ではないということです。

一例として《平均律クラヴィーア曲集第1巻24番ロ短調フーガ》の 64〜69小節 を比較してみましょう。
参考までに晴れやかなカーブのバッハ自筆譜も最後に掲載しておきます。

《Dull 校訂のベーレンライター版》
バスの8分音符がすべて4連桁であることに注意
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《自筆譜に基づくオリジナル音部記号版》
バスの8分音符がすべて2連桁で、それが和音の交代を示す。
(注:上段のハ音記号は、ト音記号の「ミ」に当たるところを「ド」と読みます)
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《バッハの自筆譜》
同じくバスの8分音符がすべて2連桁で、それが和音の交代を示す。
赤線はバッハの特徴的な連桁
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このように印刷されて見やすくなった自筆譜を見ると、原典版が決してバッハの自筆譜に忠実ではないことがよくわかります。
上段のハ音記号や紙を節約するために小節が2段にまたがっていることまで自筆譜と全く同じように反映すべきとは思いません。しかし、連桁など下手に変えない方が良い場合もあります。
現代記譜法に翻訳した原典版が正しいか間違っているかをここで議論することが主旨ではありません
ここでは楽譜にこだわる姿勢そのものを批判することが主旨であります。

《平均律クラヴィーア曲集》が出版される以前は弟子達の手書き楽譜が唯一の伝承手段でした。手書きにはいろいろな不備があったでしょうが、真の音楽家たちはちゃんと《平均律クラヴィーア曲集》の真髄を知り得たのです。
なぜなら《平均律クラヴィーア曲集》は楽譜にこだわらず、無心に弾けばおのずと真髄が会得できるからです。

例えばショパンはショパンの演奏作法にのっとって弾く事と、必ずピアノで弾くことが絶対条件となります。これを外すとショパンではなくなるし、全くつまらない音楽になってしまいます。
ところがバッハはどうでしょうか。バッハはどのような演奏作法で弾いても、どのような楽器で演奏しても、バッハはビクともしません。
演奏作法を示唆する楽譜も自筆譜であろうが、原典版であろうが、解釈版であろうが、バッハの真髄は壊れようがないのです。

1800年に最初の出版譜が出現し、それから今日まで約200年の間に、様々な校訂版が出版されてきたわけですが、バッハの真髄は楽譜如何によって変化するようなものではありません。楽譜如何によってバッハの受容態度が変化するだけです。したがって重箱の隅を突付く様な楽譜比較は全く意味のないことです。

旧バッハ全集の時代にはクロル校訂版が主流でした。
しかし、新バッハ全集の刊行が進むにつれて、デーンハルト校訂のウィーン原典版、次にデュル校訂のベーレンライター原典版へと変わってきています。
わが国においては一昔前まで井口基成校訂版が主流でしたが、今では影をひそめ、音大ではヘンレ版が人気です。
まるで時代の流行のごとき原典版、あるいは有名音楽家の解釈版に振舞わされるバッハではありません。
バッハの音楽は楽譜を超越し、演奏作法を超越し、楽器を超越し、時間空間を超越し、ただ自己の内なる声にのみ依存するのです。
自己の内なる声とは昔から色々な言葉で表現されているもので、それは宇宙の法則、つまり神と言われるものです。
バッハの音楽は目に見えない実在である神を、音の波動で表しています。
バッハの音楽は楽譜という目に見える物質ではないのです。
ですからどうでもよい楽譜に捉われて、バッハの音楽の真髄を見失わないようにしたいものです。

世界でただ一つ
『イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集』
全曲をハ長調とイ短調に移調することによって、音楽の構造が分りやすくなりました。

世界でただ一つ、平均律クラヴィーア曲集の移調

バッハの《平均律クラヴィーア曲集》は、最初から24の調でもって作曲され、順番通り一気に書き上げられた作品ではありません。
バッハはまず中全音律で美しく響く調から先に作曲しました。
それから中全音律で極端な響きになる遠隔調(調号が非常に多い調)は後で作曲しました。

しかも遠隔調は、まず調号の少ない調で作曲して、それを移調するという方法をバッハは試みたようです。
普通に考えても作曲家は嬰ハ長調や嬰へ長調の曲を作るのに、まずハ長調やヘ長調で作曲するのが自然ではないでしょうか。
バッハもそのようにしたと思われます。
その際、日頃ほとんど使わない遠隔調への移調にはバッハといえども少々手こずったようです。
移調譜を清書する時にシャープの付け方を間違えるなどして、それを修正した痕跡がバッハの自筆譜にちゃんと残っているのです。

このようにバッハが曲を清書中に同時に移調を試みたと考えられる根拠が修正箇所に残るものは、結構多くの調種に及びます。
すなわち第1巻では変ホ短調、嬰ニ短調、嬰ト短調、ロ短調、
第2巻では嬰ハ長調、変ホ長調、嬰ニ短調、嬰へ長調、変イ長調、変ロ短調、ロ長調です。

(『バッハ全集12 チェンバロ曲2』  礒山雅 他 著    小学館 P.77 より
平均律クラヴィーア曲集第1巻 成立過程と改訂の歴史  富田庸 鈴木雅明CDライナーノート より) 


例えば《平均律クラヴィーア曲集》第2巻22番の変ロ短調プレリュードは、最初、イ短調で作曲されてから変ロ短調に移調されたと考えられるわけですが、もしこれをイ短調で弾くと何か不都合があるでしょうか?
何が何でも移調後の変ロ短調で弾かねばならない理由があるでしょうか?
元のイ短調の方が断然譜読みが楽ではないでしょうか?

第2巻22番の変ロ短調プレリュードを、あえてイ短調で弾く方が理にかなう16の理由を次に述べます。

1、ピッチ
バッハの時代のピッチは今日より約半音低かったので、今日のピッチのピアノで弾くイ短調は、当時の変ロ短調に匹敵する。

2、12等分平均律
我々のピアノは12等分平均律なので、変ロ短調もイ短調も全く同じ音階構造であり、どの調も同じである。

3、不等分音律
もし仮に、不等分音律のピアノで演奏するにしても、バッハは《平均律クラヴィーア曲集》において調ごとに一つの気分を確立することはが目的ではなかった。詳しくは『やわらかなバッハ』P.57

4、聴覚
絶対音感のない人は楽譜を見るまで何調かわからない。絶対音感のない人にとっての調とは楽譜上の問題でしかない。

5、歌唱
シューベルトの歌曲は高声用、中声用などいろいろな調で出版されている。我々は普段歌を歌う時、何調かということよりは声の高さを問題にする。歌い易い高さの調(キー)で歌うだけである。

6、演奏上の制約
例えばトランペットやヴァイオリンは楽器の特性として、よく響く調とそうでない調がある。しかし《平均律クラヴィーア曲集》を鍵盤楽器で弾く場合は、よく響く調と響かない調の区別はない

7、合奏
教会カンタータを合奏する場合、管や弦とのピッチを合わせるためにオルガンパートの方を移調した。オルガンは移調楽器であった。

8、音域
歌手の場合、移調すると声が出ないなどの問題が起こってくる。しかし、鍵盤楽器においてはどの調に移調しても音域の問題は起こらない。

9、バッハの音律
バッハは24の調がすべて演奏可能な音律を前提としたので、美しい調と美しくない調があっては困る。従ってどの調も同じ程度の美しさの響きになるように調律したはずである。ということは、どの調も似たりよったりの調律にならざるを得ない。だから調ごとの性格はほとんど同じになる。

10、440Hz 調
絶対音感を持つ人にとって、イ短調の主音は 440Hz の a の音である。しかし標準ピッチは変動している。例えばバッハの時代のイ短調の主音は 415Hz だった。ピッチでもって調を決定するのは愚かなことである。

11、倍音列
音楽は自然界の倍音列から出来ている。従って1オクターヴを頭ごなしに12等分する平均律を基準とする絶対音感教育は音楽と無縁である。移調を嫌悪する傾向は絶対音感教育の弊害である。

12、階名
当たり前過ぎる話だが音楽理論は階名である。にもかかわらず音名がピアノ教育界を席巻している。音名は固定ド読みで簡単だからという理由だけで階名が疎かにされている。しかしイ短調は、固定ド読みしてもそのまま階名になるので誠に都合が良い。

13、絶対音感
イ短調はシラブルとピッチが一致するので、絶対音感を持っていても抵抗なく階名読みができる調である。シラブルとピッチの一致を考えると、絶対音感を持っている人はハ長調とイ短調の曲が好ましい。

14、曲の性格
ある曲が明るく祝祭的なのは、曲そのものが明るく祝祭的なのである。ニ長調が明るく祝祭的という刷り込みに惑わされてはならない。曲の性格は曲そのものにあり、決して調如何にあるのではない。調性格はもともと恣意的なものである。ましてやどの調も同じ12等分平均律において調性格を云々するのは大嘘つきと言わざるを得ない。

15、移調
音律の如何にかかわらず《平均律クラヴィーア曲集》においてバッハ自身が移調しながら清書したことは事実である。だからいわゆる自筆譜の調に捉われてはならない。一番弾きやすい調で弾くべきである。難しい調を見て《平均律クラヴィーア曲集》は難しいものと敬遠するのは本末転倒である。

16、自由
音楽よ、もっと自由に、もっと自分の内なる声に従って間違った常識は棄てよう


世界でただ一つ
『イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集』
全曲をハ長調とイ短調に移調しました。

あるピアノ少女の話

ある少女は幼い時からピアノのレッスンを続けています。
今週はモーッアルトのピアノソナタ K 332 ヘ長調が宿題です。この曲はもう3週目です。

少女は遅刻をしたので、先生はピアノを弾いて待っていました。
少女はしばらくその演奏に耳を傾けてから先生に尋ねました。
「今、先生がお弾きになっていた曲は何ですか?」
先生は驚いて答えました。
「これは今日あなたがレッスンに持ってくる曲ではありませんか」

なぜ少女は3週間も練習してきた曲が分らなかったのでしょうか?
これは現在のピアノ教育の盲点なのです。非常に重要な問題点です。
つまり少女は相対音感の持ち主だったのです。相対音感の少女に対して、固定ド読みでピアノを教える現在の教育に大きな問題があるのです。

少女はヘ長調のソナタのメロディーを 「ファーラ ドーラ シ♭ーソ ファミミ」 と固定ド読みで練習してきました。
ところが少女は相対音感なので、先生の演奏が 「ドーミ ソーミ ファーレ ドシシ」と移動ドでしか聴こえないのです。

つまり少女は楽譜を見れば 「ファーラ ドーラ〜」と読めるのですが、楽譜なしで耳だけで聴くと「ドーミ ソーミ〜」となるのです。だから先生の弾く曲が何の曲か分らなかったのです。
このような読譜に関するねじれ現象は相対音感の少女にとって誠に深刻な問題です。

反対に絶対音感の少女なら問題がないかというと、これもまた問題なのです。
絶対音感の少女には先生の弾く曲が「「ファーラ ドーラ〜」と聴こえますから、少なくとも先生に何の曲かと尋ねる必要はありません。

しかしこの曲のメロディーを 「ドーミ ソーミ〜」というように主和音の上にたつ分散形として読むとき、この曲のもつ愛らしさと優雅な幸福感が真の意味を伴って理解されるのです。
「ファーラ ドーラ〜」と読んだのでは主和音ではなく下属和音になってしまい、メロディーの意味が理解されません。
さらにやっかいなことに、絶対音感を持っていると、音楽を音の高さのみで判別するので、 音の高さが違う「ドーミ ソーミ〜」は歌えないから問題があるのです。
音楽の内容を考えると 「ドーミ ソーミ〜」 であるべきものが、絶対音感を持っているとその音の高さでしか歌えないので「ファーラ ドーラ〜」の高さのものを「ドーミ ソーミ〜」と歌うと気持ちが悪い、或いは歌うことが不可能となるのです。これもまた深刻な問題です

現在のピアノ教育では、固定ド読みと移動ド読みの両方にドレミというシラブルを使います。
これはドレミの本来の機能である、移動ドとしての存在価値を骨抜きにするものです。
ドレミは移動ド読みだけに使用可能であることを断固として主張しなくてはなりません。

このようなねじれピアノ教育は例えてみれば、日本人の少女が、アラビアで話すようなものです。アラビア語の意味もわからずにただカタカナ書きしたアラビア語を一生懸命練習しているようなものです。
正しいピアノ教育とは、日本語で意味を理解してきちんと話す方法を教えることです。

イコール式の教育法はこのようなねじれピアノ教育の弊害を軽減することができます。
『イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集』は全曲をハ長調とイ短調に移調しました。ハ長調とイ短調だけが相対音感にも絶対音感にも適応できる調です。この調で全曲を練習することによって真の読譜力を伸ばすことができます。
音楽の意味を理解できるのは相対音感、つまり移動ドです。絶対音感は音の高さを理解するだけで、音楽の意味は理解できません。これがわかるとイコール式で学ぶことによって真の音楽力がつくことも理解できるのです。

専門家も知らない《平均律クラヴィーア曲集》の話

今回は一応音楽専門家と言われる人のブログから《平均律クラヴィーア曲集》に関する記述をご紹介し、それに対する私の意見を書いていきます。
*印は私の意見です。

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<1> J.S.バッハ作曲の平均律クラヴィーア曲集は1巻と2巻があり、それぞれ24曲、音楽の基本である24調の調性から作られています。
音楽にはハ長調やト短調など、様々な調性があり、それぞれ色彩や性格があります。

*この専門家の言うことが本当なのかという問題を考えるには、まず12等分平均律で弾く場合と非平均律で弾く場合とに分けて考えねばなりません。私達が日頃弾いているピアノは12等分平均律です。12等分平均律で弾く場合は、ただ高さのみによって識別される12の調性はすべて同一の音程で構成されます。つまりどの調も音程構成は同じになります。主音のピッチの違いによって調性の違いだと勘違いしているに過ぎません。
このことは《平均律クラヴィーア曲集》を例に考えると一層はっきりします。《平均律クラヴィーア曲集》はイオニア旋法(ド旋法=ハ長調)と、エオリア旋法(ラ旋法=イ短調)というの2つの旋法を近代長短調に完成させたものです。二つの旋法の12の異なる音階開始音を網羅しているので、12×2=24の調が存在するかのように誤解され易いのです。《平均律クラヴィーア曲集》における24の調とは、異なる音階開始音をもつ2つの調を便宜的に調性と呼んでいるに過ぎません。いくら12の音階開始音をそれぞれ異なる調性であるかのごとく呼んでみたところで、12等分平均律においてはどの調も同じ音階構造ですから、結局、長調と短調という2つの調性しか存在しないのです。12等分平均律における調性の正体とはただ音階開始音の高さの違いを示すだけです。調による色彩や性格の違いは音高に起因するものではなく、調ごとに異なる音階構造の相違に起因するものです。したがって《平均律クラヴィーア曲集》には長調と短調の二種の音階構造が存在し、二つの色彩と性格が存在します。ある専門家が言うように「様々な調性があり、それぞれ色彩や性格があります」というようなことは12等分平均律においてはあり得ない話です。《平均律クラヴィーア曲集》に24種の調があるからといって、決してそこに24種もの色彩と性格があると考えてはならないのです。

次に非平均律で弾く場合を考えます。非平均律には無数の調律法が存在し得ます。調ごとの違いが大きな調律法も、非常に小さい調律法も無数にあります。バッハは《平均律クラヴィーア曲集》において24すべての調が演奏可能になる調律法を独自に考案しました。バッハの作品のほとんどが♯♭3個以下で作られていますので、これらの作品は中全音律でも演奏可能でした。現代のピアノでは演奏不可能な調があるということは考えられませんが、バッハの時代は遠隔調の演奏は不可能で、作曲もされませんでした。ところがバッハは《平均律クラヴィーア曲集》において24すべての調を網羅するという野望を抱きました。一気に♯♭が6〜7個の調まで増えましたので中全音律ではとうてい演奏不可能です。そこでバッハは24すべての調が演奏できる調律法を考え出さねばなりませんでした。バッハ独自の調律法については様々な議論があり、ここでは詳しく述べることはできませんが、いずれも断定することはできません。ただ確実に言えることは、24すべての調の使用に堪え得る調律法は、概ね調ごとの違いが非常に少ないか、或いはほとんど無いものに限られてくるということです。調ごとの違いが大きい調律法では、必ず使えない調ができてしまうからです。従って非平均律で弾く場合も調ごとの色彩や性格の違いは極小であると言えます。
結局、非平均律で弾く場合も、12等分平均律で弾く場合も大差無いということになります。

ここで再度<1>の文章を読んでみると不適切な表現に気付くことになります。
<1> J.S.バッハ作曲の平均律クラヴィーア曲集は1巻と2巻があり、それぞれ24曲、音楽の基本である24調の調性から作られています。
音楽にはハ長調やト短調など、様々な調性があり、それぞれ色彩や性格があります。

<1>の文章をより適切に私流に表現すれば、「J.S.バッハ作曲の平均律クラヴィーア曲集は1巻と2巻があり、それぞれ24曲、音楽の基本である長調と短調から作られています。音階開始音ごとにハ長調やト短調など、様々な調性がありますが、12等分平均律で弾く場合、色彩や性格は2種類しかありません」となります。

 


<2>例えば、変ホ長調は壮大で朗々とした響きがして英雄的な性格があります。ベートーヴェンの「英雄」交響曲やピアノ協奏曲「皇帝」、ホルストの『惑星』より「木星」などは変ホ長調ですね。

*調性各論の代表者マッテゾン(Mattheson 1681〜1764)による『各調の性質とアフェクト表現上の作用について』の中から「変ホ長調」を調べると、「非常に悲愴、それ自体非常に悲愴であり、深刻以外の何ものでもない・・・・・」と述べており、英雄的ではありません。

シューバルト(Schubart 1739〜91)は『音楽美学の理念』において「変ホ長調は愛、敬虔、神とのくつろいだ対話。3つのフラットをもって三位一体を表す」と述べました。

変ホ長調の性格についての論評は、ハイニヒェン(Heinichen 1683〜1729)に言わせると「美しい調性」であり、
クラーマー(Cramer 1752〜1807)にとっては「どこか描写し難い優しさ」であり、
シリング(Shiling 1805〜80)にとっては「荘重で、真剣」であり、
シュテファニー(Stephani 1877〜1960)にとっては「高潔、変ロ長調を一層英雄的に高めた調」であり、
ミース(Mies 1880〜1976)にとっては「非常に悲愴的」であり、
ベック(Beckh 1929〜80)にとっては「強い調性、闘う英雄の調性」とさまざまな性格が述べられています。
各論者の意見がまちまちでかなり恣意的と言わざるを得ません。
上記の調性格論者の中で変ホ長調が「英雄的」であると述べたのはシュテファニーとベックの2人だけです。しかしこの2人はいずれもベートーヴェンの没後ずっと後に生まれた論者ですから、ベートーヴェン自身は「変ホ長調が英雄的」だという調性格話を全く聞かなかったはずです。ベートーヴェンの変ホ長調のすべてではなく、いくつかの作品がたまたま英雄的だったので後の調性格論者がそのように思い込んだのでしょう。ホルストについても同様のことが言えます。ベートーヴェン以外の作曲家において、変ホ長調が英雄的だという話はほとんどありません。またベートーヴェン作品ですら、ピアノソナタop.81a「告別」などは全く「英雄的」ではありません。

 ではここで本論であるバッハの《平均律クラヴィーア曲集》における変ホ長調が「英雄的」であるかどうか検証してみましょう?
《平均律クラヴィーア曲集》 第1巻の変ホ長調プレリュードは流れるような美しいパッセージのあと厳格な2重フーガが続く大規模な曲です。フーガは愛らしく軽い曲想です。どうみても英雄的な要素は見当たりません。
《平均律クラヴィーア曲集》 第2巻の変ホ長調プレリュードはやわらかく流れるような曲想で無邪気さと可憐さを伴うクラヴィーア曲です。フーガは静観的なコラールフーガです。これも全く「英雄的」ではありません。

しかも2巻の方のフーガは全く異なる調性の「ニ長調」で書かれた早期バージョンが存在します。(ベーレンライター版《平均律クラヴィーア曲集》 P.354 参照)。24の調性を網羅するという目的で移調を試みて編集作業を行ったバッハにとっては、このフーガが変ホ長調でもニ長調でもかまわなかったのでしょう。

ついでにバッハとベートーヴェンの間に位置するモーツァルトの変ホ長調はどうでしょうか。
モーツァルトの作品分析で有名なリューティ(Luthy)はモーツァルトの「変ホ長調」について次のように述べました。
「深い情感をもつ調性。深い愛情ばかりでなく、悩みをもたらす愛の苦悩をも表現し、木陰の場面、墓の場面などでも現れる」
やはりモーツァルトの「変ホ長調」も全く「英雄的」ではありません。
結論として、ベートーヴェンやホルストのごく一部の作品において、たまたま変ホ長調が「英雄的」であることをもって、変ホ長調の音楽がすべて「英雄的」であるかのような言い方は問題があります。

 


<3>バッハには「インベンション」という子供向けの平均律クラヴーィーア曲集のような作品集があります。これを子供の頃に、いろいろな調性に移調して弾くトレーニングを行いました。例えば、ハ長調の曲を、その場でト長調で弾いたり、ヘ長調で弾いたりするわけです。
そのとき感じたのは、同じハ長調の曲でも、ホ長調で弾くと、響きも性格も違って聴こえるということです。
トレーニングの一環で行ったことだったのですが、やはり、バッハがもともと書いてあった調性が一番しっくりくるということがよく分かりました。

*ここで最初に確認しておきたいことは、子供のころに弾いたピアノは12等分平均律であったということです。12等分平均律においてハ長調の曲をト長調やヘ長調に移調して弾いて、「響きも性格も違って聴こえる」というのは根拠がありません。ハ長調もト長調もヘ長調も和音はすべて同じ音程構成ですから響きも性格もすべて同じです。単に音高の違いがあるのみです。音高の違いをもって「響きも性格も違って聞こえる」と思い込んでいるだけです。もしシューベルトの歌曲を「高声用」の楽譜から「中声用」の楽譜に変えて演奏したら、響きも性格の違って聞こえますか?音高が違うだけで、シューベルトの歌曲の響きも性格も変わらないでしょう。この音楽専門家においては根拠の無い思い込みが重なった結果、「やはり、バッハがもともと書いてあった調性が一番しっくりくる」という思い込みが形成されたのでしょう。

 




<4>面倒くさがりやの私は子供の頃、「なんでこんなに♯や♭がいっぱいついてて、楽譜が読みにくいな。ぜんぶハ長調かイ短調にしてくれればいいのに」と思っていたのですが、ちゃんと#や♭がついている意味があったのです。
 *もし「♯や♭がいっぱいついていることに意味があった」と言うならば、自分のピアノを不等分音律に調律変えしてから言うべきでしょう。12等分音律のピアノで弾いていながら、このように言うのはいかに音を聞いていないかの証拠であります。もし、中全音律のピアノで弾けば♯や♭がいっぱいついた調とそうでない調との響きや性格の違いがよくわかります。しかし12等分平均律のピアノでは、♯や♭がいっぱいついても、つかなくても同じです。
12等分平均律では、♯や♭がいっぱいついた調とそうでない調との「響きや性格」の違いはありません。
結論として「なんでこんなに♯や♭がいっぱいついてて、楽譜が読みにくいな。ぜんぶハ長調かイ短調にしてくれればいいのに」と思った子供の頃の素直な直感を持ち続けるべきでした。大人になって旧態依然とした音楽教育を受けたために、子供の時の素直な気持ちを否定してしまったのですがイコール式音楽教育は
これを否定しません。イコール式音楽研究所はバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を全曲ハ長調とイ短調に移調して出版しました。『イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集』は世界で初めての試みです。

やわらかなバッハの会
〒753-0072 山口県山口市大手町
3−6 大手町ビル4F
毎週土曜日 輪奏会17:00 PM
第2金曜日 輪読会10:00 AM
毎月1回   対話集会17:00 PM
都合により日時を変更する場合もありますので初めての方は事前にご連絡ください

5周年記念バッハ礼讃音楽祭
2018.7.29(日)14:00

お問い合わせはこちら

<プロフィール>
やわらかなバッハの会 
代表 橋本絹代
新しい鍵盤楽器記譜法「イコール式」の創始者

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取り
バッハのとりこになった。
これまで約400人のピアノレッスンを通じて、バッハのフーガを弾くことの重要性を認識し、初級者でもバッハ演奏を楽む方法を提案。

2007年 世界で初めての楽譜《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》カワイ出版 

2009年 音楽書『やわらかなバッハ』春秋社

2013年「やわらかなバッハの会」設立

2014年 バッハ礼讃音楽会 (於 旧県会議事堂) 毎年開催

2016年 バッハ・イン・ザ・サブウェイズ (於 新山口駅南北自由通路 )毎年開催

2017年 Bach Network UK 対話会議研究発表 (於 ケンブリッジ大学)

Prof.Yo Yomita (富田庸) 講演会「バッハを嗜む」主催 (於 山口大学)

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも調性格の恣意性を指摘しています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の中の難しい調を簡単な調に移調してまず親しむことが大切です。初級者は更にそれをアンサンブルで楽しむことが大切です。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。


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音楽の構造が良く解る










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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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