やわらかなバッハの会 Soft Bach Society

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所  所長  橋本絹代
Equal Method Music Institute President Kinuyo Hashimoto

《平均律クラヴィーア曲集》の意味

《平均律クラヴィーア曲集》はバッハの代表作の一つで鍵盤作品の聖書ともいわれるが、何とも変わった表題である。
バッハはこの曲の表紙に古い独語で 「Das Wohltemperirte Clavier」と記した。これを英訳すると 「The Well-Tempered Clavier」となる。直訳すると「良い調律のクラヴィーア」 である。良い調律とは?クラヴィーアとは?
バッハはどのような意味でこれを書いたのか、そして、なぜ日本では「良い調律」ではなく「平均律」と訳されたのか? 疑問だらけである。

クラヴィーアとはラテン語のクラヴィス(鍵)から派生したもので鍵盤楽器全般を指す。従って《平均律クラヴィーア曲集》は鍵盤楽器の曲集であることがわかる。
鍵盤楽器といえば、オルガン、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノなどがある。とはいえ、《平均律クラヴィーア曲集》第1巻が成立した時点(1722年)ではクラヴィコードやフォルテピアノは楽器としてそれほど発達した段階にはなかった。
バッハは鍵盤作品を書くとき、オルガン曲を別にして楽器の名前を記すことはあまりなかった。《平均律クラヴィーア曲集》 《パルティータ》 《フランス組曲》 《イギリス組曲》 《インヴェンションとシンフォニア》 など特に楽器指定をしていない。
というわけで《平均律クラヴィーア曲集》のクラヴィーアがどの楽器を具体的に指すのかという解釈や選択は多様であり、演奏者に任されている。今日の鍵盤楽器奏者はピアノを選ぶものが最も多く、次にチェンバロである。珍しい例としてはロバート・レヴィンや野平一郎がいる。彼らは《平均律クラヴィーア曲集》を、オルガン、チェンバロ、クラヴィコードなどの楽器を使い分ける。それぞれの曲に最も相応しい楽器を選んで弾くのである。そうかと思えばルイ・ティリーのように、《平均律クラヴィーア曲集》の全曲をオルガンだけで、レジストレーションを変えることによって多彩な表現を可能にした演奏もある。

《平均律クラヴィーア曲集》 という表題の 「曲集」と言う意味は、1曲ではなく、1巻に24曲、2巻に24曲、合計48曲からならる。これらは理論上考えられるすべての調を網羅した記念碑的曲集である。なぜなら、バッハの時代は♯♭3個ぐらいの調しか使われなかったからである。

「クラヴィーア」と「曲集」の意味はこれで分かった。次は「平均律」という調律法の意味に進もう。


実は《平均律クラヴィーア曲集》というのが誤訳であるといわれるようになって久しい。つまり英訳や仏訳のように《良い調律のクラヴィーア曲集》と訳すべきで《平均律クラヴィーア曲集》と訳すのは間違っているという説である。今日、「平均律」と言えば「12等分平均律」を意味するが、バッハは「12等分平均律」を意図してなかったから《平均律クラヴィーア曲集》と訳すのは誤りだというのである。もしバッハが「12等分平均律」を意図していたならば「gleich schwebende Temperatur (同じように唸る)」 か 「zwolfstufige  Temperatur (12等分平均律) 」と書いたはずであるが、そのように書かなかったのは、「不等分音律」を意図していたからである。バッハが意図したのは「上手く調律された不等分な調律」であって決して今日にいう「平均律」ではないする説である。

以上が誤訳説の根拠とするところであるが、一概に誤訳と決めつけられるほど、事態は単純ではない。
バッハの時代は中全音律が主流であった。もしバッハが当時存在しなかった「12等分平均律」という言葉を知らなかったとしたらどうだろう。バッハは24すべての調の演奏を可能にする調律に対して単に「良い調律」と書いた可能性もあるだろう。
バッハがこの曲集において24のすべての調を演奏可能にするほどよい調律を意図したことは確かだ。
当時一般的だった中全音律では♯♭の多い調は極端な響きになってしまうので使い物にならない。だから24すべての調を演奏可能にする「良い調律」とは必然的に12等平均律に近づくことになる。厳密な12等分平均律ではないにしても、バッハは24すべての調が弾ける調律を意図したはずである。その調律に対してバッハは 「gleich schwebende Temperatur (同じように唸る)」や「zwolfstufige  Temperatur (12等分平均律)」という言葉を耳にしたことが無かった故に、表題として書けなかったかもしれぬ。
使用できる調が限られていた中全音律に対して、24すべての調が演奏可能な「一種の平均的に上手く調律された音律」という意味で「良い調律」と記した可能性もある。


当時すでに存在していたヴェルクマイスター音律は不等分音律でありながら24の調が演奏可能である。これも「一種の平均的に上手く調律された音律」という意味で「平均的調整律」という言葉が用いられていた。

つまり我々が「平均律」という言葉を使うとき、現代では「12等分平均律」の意味である。しかし24の調が演奏可能でしかも不等分な音律も存在するのである。微妙に不等分な「平均的調整律」は無数に考えられ、バッハの独自の調律も一種の「平均的調整律」である。

というわけで、「等分」にも 「不等分」にも 24の調が演奏可能な調律法は存在することがわかった。「等分」も「不等分」も24の調が演奏可能である限り、その調律法は非常に似てくるので、耳で聞いても大差はない。同じ不等分音律でも中全音律は、演奏可能な調が限られているので耳で聞いて大差がある。
24の調が演奏可能な音律と不可能な音律では大きな違いがあるのである。


《平均律クラヴィーア曲集》の表題において、バッハの意図した調律が等分か不等分かという問題については昔から議論が続いている。
バッハの死後すぐにマールプルクが、バッハの意図した調律は「等分」だと主張した。この意見がシュピッタに引き継がれ、シュヴァイツァーも「等分」を主張し、長い間、「等分」 が常識となっていた。
が、1947年にバーバーが「不等分」を主張した。バーバーの主張は、バッハは意図的に 「gleich schwebende Temperatur (同じように唸る)」 を避けて書いたのであり、バッハの調律は不等分であったというものである。以後、「不等分」説がにわかに有力になり、日本における誤訳説が少しづつ浸透していった。
ところが 1985年にラッシュの研究によって 「不等分」説が覆され、「等分」説がまた返り咲いた。
最近では1999年にシュパルシューが《平均律クラヴィーア曲集》のタイトルページ上部に書かれた螺旋渦巻き模様にバッハの調律の秘密が隠されていると言う説を唱えた。この螺旋渦巻き模様説は「不等分」であるから、またしてもひっくり返ったのである。

バッハが表題に書いた 「Wohltemperirte (良い調律)」律が 「等分」 か 「不等分」か、どちらに解釈してもよいと思うが、はっきりしていることは24すべての調が演奏可能な調律であることだ。それは必然的に「等分」か、さもなくば「等分」に非常に近い「不等分」ということになる。
どちらにしても、耳で聞いて大差はないだろう。大差のある「不等分」調律は、24のすべての調を演奏することができないからである。

ピアノレッスン

高校の音楽の授業で忘れられないことがある。普通高校の選択科目として取った音楽の授業である。
それは音楽の先生が黒板に5度圏の図を書かれた授業。

先生曰く 「 5度圏は5度づつ上がっていって12回目で元に戻る環だ。時計回りにC→G→Dと5度づつ上がっていく。5度上がる度に調号の♯が一個増える。つまりCから5度上がると、調号には♯が1個付いてG長調だ。また5度上がると♯が2個付いてとD長調だ。
今度は時計を反対回りすると5度づつ下がる。5度下がる度に調号の♭が一個増える。Cから5度下がると♭が1個のF長調だ。また5度下がると♭が2個のB長調だ。
この5度圏さえ知っていればすべてわかるんだ。凄いだろう」

短調に関する説明は無かったように記憶するが、先生はまるで5度圏を自分の大発見であるかのような口調で熱っぽく語られたのが印象的だった。しかし忘れられない音楽の授業はこの次に起こった。

5度圏の絵は時計の6時のところだけ2つの調が書いてあった。
F♯ と G♭が同じところに書いてあった。
ピアノを習っていた私は、鍵盤を思い浮かべて F♯ と G♭は同じ音だから2つ書いてあるのだと直ぐに解った。
ふむふむ、確かに調号の♯が増える度に5度上がるのだなと、今まで何となく見ていた調号にはこんな法則があったのか、便利なものだなとその時思った。長年ピアノを習っていたが、5度圏は初めて見る図だった。

しばらくして先生が一つの質問をされた。
「♯が9個ついたら理論的には何調になると思うか?」
実際には♯9個の調号など使われないが理論的には考えられるはずだ。

私は頭の中で鍵盤を思い浮かべながら考えを巡らせた。
高校生の頭で考えたことは、♯が6個でF♯長調なのだから、そこから5度上がると・・・ファソラシド・・C♯長調・・・♯7個だ。♯8個はまた5度上がるから、ドレミファソ・・・・G♯長調・・・・・と考えている最中に、 A君がサッと手を上げて 「D♯」と答えた。正解だった。

A君はピアノを習ったこともなく、楽譜も読めないはずだ。しかし現役で東大に合格した頭脳明晰な男子だった。
私はといえば物心つく頃からずっとピアノを習っていた。中学受験の時も高校受験の時も、ピアノは好きで休まなかった。
それなのにA君はたった1時間の音楽の授業で5度圏を理解し、私より先に答えを出してしまった。

一般的なピアノのレッスンでは将来の進路として音大受験を決めてから、音大受験対策の楽典のレッスンを始める。楽典のレッスンで5度圏を知ることになるが、その時私はまだ音大受験を考えてなかった。
もし楽典のレッスンを受けていたら、A君よりも先に簡単に応えられただろう。

一般的にピアノのレッスンは楽譜を鍵盤に移し替えるだけの作業が主体になりがちである。
ピアノ教師は音符を正確に読み、スピードを上げて迫力ある演奏をできるように一生懸命指導する。
5度圏などの基礎的音楽理論を知らなくても、上手に弾ける生徒は多い。
話せないのにドイツ語を話しているようなものである。
調号に♯♭がついていれば、音符に♯♭がついてなくても半音上げたり下げたりして弾くというルールだけ教えておけば事足りる。たったそれだけの知識でバッハもベートーヴェンもショパンの楽譜も取りあえずは弾ける。

ただ機械的に楽譜を鍵盤に移し替えるだけというレッスンは音大に入っても基本的には変わらない。
音楽理論や作曲よりも、上手にバリバリ弾くという技術偏重のためである。
ここでハンガリーの作曲家、民族音楽学者、教育家、言語学者、哲学者のコダーイ(Zoltan Kodaly 1882〜1967)の音楽大学に対する考察を引用したい。

「音楽アカデミーはポンポンとピアノを鳴り響かせるだけの、高貴なお嬢さんを入学させることを、目指すわけにはいきません。そんなお嬢さんたちは、以前は《乙女の祈り》を弾き、今日ならバルトークの《アレグロ・バルバロ》を弾くことでしょうが、それが音楽とは全く関係のない人達であることは、今も昔も変わりがないのです。卒業証書の名目上の価値と、実際の価値との間のギャップはますます大きくなっていきました。学校が卒業証書を出すことによって、それを受け取った人の能力を、はるかに超えた力量を証明したからです」

力量をはるかに超えた卒業証書をもらうのに、昨今は何千万円も必要である。
一般的な私立音大の場合、入学金、寄付金、設備費、学費、下宿代、生活費などの仕送りの他に入学前の入試対策として志望校の教授のレッスンも受けなければならない。有名教授の高いレッスン代、交通費、ホテル代などの出費、またそこに至るまでの10年以上の間、ピアノの月謝を払い続けねばならない。
これほどの出費で音大を卒業しても、決して元はとれない。

一方、A君は高額の所得を得ていることだろう。









絶対音感は非絶対音感

『絶対音感』 という本が出版されたのは1998年だった。当時に比べると多少、絶対音感崇拝の熱狂が静まった感があるが、それでもまだ「絶対音感はプロの必須条件」と思っている人もいるようだ。
そこで絶対音感がプロにとって必要か必要でないかを問う前に、絶対の音感というものが本当に存在するのかということを問いたい。

世の中には様々な標準ピッチが存在するから、絶対音感は非絶対音感だと言うのは簡単だ。当たり前過ぎるほどの正論だ。
しかしこれから述べようとすることは、たとえ、標準ピッチが時と場所を超えて 440Hz に固定されても、尚、非絶対だという話である。

絶対音感は12等分平均律の産物であり、この調律法ができるまでは絶対音感という言葉は存在しなかった。世界が12等分平均律に移行する1850 年〜1900年 以降にできてきた言葉である。従って絶対音感を知るには12等分平均律を知る必要がある。

それでは12等分平均律を知るための基本を簡単に説明しよう。
ドレミファソラシド ♪ は ド から シ まで7個の音があり、その次の8個目はまた ド に戻る。この1サイクルをオクターヴという。オクターヴを繰り返す度にどんどん音が高くなる。ちなみにピアノには ド が8個あり、右に行くほど高い ド になる。

男と女が一緒に歌を歌えば、大人の場合自然に、男声と女声は1オクターヴ離して歌うが、そのことをあまり気にしない。なぜなら1オクターヴ離して歌うと音が一致しているかのように聞こえるからだ。もし1オクターヴ以外の間隔で離して歌うと男声と女声は明らかに違って聞こえる。
ピアノでいうと、オクターヴの間隔で2つの音を弾けば一つの音のように聞こえ、ドとファ などオクターヴ以外の間隔で2つの音を弾けば明らかに違いがわかるということである。
このようにオクターヴはうっかりすると同じ音に聞こえるくらい最も澄んだハーモニーである。

ではなぜオクターヴが澄んだハーモニーといえるのだろうか?
少し科学的に説明をしなくてはならないが、小学生の掛け算程度で理解できる範囲で説明しよう。

音は空気の振動である。振動が細かいほど音が高くなる。音の高さは1秒間の振動数で表すことになっており、それを周波数という。周波数の数が多いほど高音である。周波数の単位はHz (ヘルツ)である。
例えば ラ=440Hz といえば、 ラ の音は1秒間に 440 振動すると言う意味である。

ラ =440Hz の場合、ラより低い方の ド=262Hzである。
高い方の ド=524Hzである。
ここで ドード のオクターヴが丁度2倍の周波数であることに気付く。
262:524=1:2 という整数比である。
12等分平均律とは 262Hz から 524Hz までのオクターヴを等しい比率で12等分したものであり、これが今日我々が弾いているピアノの調律法である。

ピアノのオクターブ内には、白鍵7個、黒鍵5個が含まれる。黒鍵とは左右にある白鍵の丁度中間の音である。例えば ド と レ の白鍵の間にある黒鍵は ド♯ あるいは レ♭ と呼ばれる。ド♯ は ド より少し高く、
レ より少し低い音である。白鍵黒鍵合わせて12個の音がすべて等しい比率で周波数の増す調律を12等分平均律という。

さあこれから本題に入る。

ド=262 から 高いド=524 までを等比率で分けるにはどうすればよいだろうか?
それは 262 に何かの公数を12回掛けて 524 になればよいのだ。
従って公数は2の12乗根になる。この計算は省略して答えを言うと
1.0594  である。
ド=262 に1.0594 を12回掛けると オクターヴ高いド=524 になる。
例えば ド♯ は ド×1.0594=262×1.0594=278である。
レは ド♯×1.0594=278×1.0594=295である。同様にして12回の掛け算をすると524 になる。 
ド=262、ド♯=278、レ=295、レ♯=313、ミ=332 ・・・・・・・・・高いド=524 である。

ド=262ならば、263, 265, 267, 268・・・・・は何と言えばよいのだろうか?
ド とも言えないし、 ド♯ とも言えない。1Hzだけ高い263Hz は ド と言えないのかという問題が起こる。
アバウトに 262 の周辺の周波数を ド というのか?
それなら ド と ド♯ の丁度中間の270Hz は ド なのか、ド♯ なのかという問題も起こってくる。

262Hzの近辺をアバウトに ド だというのであれば、絶対音感は曖昧音感である。
絶対音感が絶対ではない理由はここにある。絶対音感は非絶対音感である。

ピアノの鍵盤は針が次に進んだ瞬間に数字が変わるデジタル時計のようなものだ。
デジタル時計はアナログ時計の秒針の動きを無視する。
つまりピアノの鍵盤は ド から ド♯ の間に至る秒針の動きを無視せざるを得ないつくりである。
音のデジタル化は鍵盤楽器と一部の楽器だけの現象であるから、絶対音感という言葉を、ピアノに限定された絶対"鍵感"というなら多少わかるが、絶対音感というのは疑問だ。

長年、絶対音感の牙城であった桐朋学園『子供のためのハーモニー聴音』による影響で絶対音感教育が日本中津々浦々まで盛んであった。しかし桐朋の室長であった別宮貞夫氏は「われわれは皆絶対音感を持っていなかったので、それがすばらしいと思ってしまったんだね。私は絶対音感訓練の加熱が原因で教室をやめたのです」と述べている。
また、桐朋の教室の生徒であったピアニストの青柳いずみこ氏は「思ってしまうのは勝手だが、それで集団訓練された子供の身にもなってほしい。古典やロマン派の音楽を演奏する際にはむしろ障害になっていると思う」と述べている。
青柳いずみこ氏は集団訓練で440Hzの12等分平均律の音感だけを身につけてしまった。しかし実際の音楽の現場では標準ピッチや音律の多様性があって、身につけた”絶対音感”なるものと一致しない場合があるから困るという意味であろう。
また「障害になっている」というのは古典派やロマン派の調性音楽は相対音感的に理解するものなので、”絶対音感”的な音の把握では、音楽の理解の障害になるという意味である。
このようにかつての憧れだった”絶対音感”なるものは非常に問題が多いのである。




謎のカノン

《音楽の捧げもの》( Musikalisches Opfer) BWV 1079 は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ晩年の作品で、1つの主題に基づく曲集である。
その中にはリチェルカーレ2曲とトリオソナタ、ならびに種々のカノンが含まれる。主題はフリードリヒ大王がバッハに与えたとされている。ハ短調、8小節、王者の威厳にふさわしい主題である。
この作品はバッハがフリードリヒ大王に捧げたもので、とりわけ高度な対位法技巧が駆使されており、種々のカノンは謎に満ちている。

カノン (canon) とは、同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する 様式の曲を指す。
一般に輪唱と訳されるが、輪唱は 全く同じ旋律を追唱する(同度カノン)。
これに対してこの曲集では、開始音の異なるものが含まれる(5度カノン、2度カノン、etc.)。


今回は謎のカノンの中から《蟹のカノン》および《螺旋カノン》と呼ばれるものを取り上げる。

まず《蟹のカノン》について。
これは蟹の横歩きのようなイメージからの通称だろうが、バッハは「2声の逆行カノン」とだけ書いた。
1つの旋律を頭と尻尾から同時に演奏すると、2つの旋律が互いに主題となり対旋律となって美しい響きを織りなす。
蟹行というのは頭から読んでも後ろから読んでも同じというあれとは意味が違う。
例えば「しんぶんし」はどちらから読んでも「しんぶんし」だが、これを頭と尻尾から同時に演奏しても単なる斉唱(ユニゾン)である。ハーモニーを紡ぐことはできない。
バッハの「蟹のカノン」は他の追随を許さない高度な技法である。


次に《螺旋カノン》について。
これは王の主題を装飾変形して定旋律としている。そこに美しい対旋律が寄り添う。しかもその対旋律は5度上で1小節遅れで模倣される。つまり3声である。主題、対旋律、5度上の1小節遅れの対旋律、合計3つである。

主題が途中で1全音上に昇り、その調のまま、2回目の王の主題に突入するというパターンを繰り返すカノンである。かくて王の主題は繰り返される度にハ短調→ニ短調→ホ短調→嬰へ短調→変イ短調→変ロ短調→ハ短調と7回目にもとの調に復帰する。これが「螺旋」と言われる由縁である。
バッハはこの楽譜に「調が上昇するように王の栄光も高まらんことを」と添え書きした。

マッテゾンの調性格に従えば、王の主題をハ短調で奏すれば「並はずれて愛らしい」、ニ短調で奏すれば「信仰深く穏やか」、ホ短調で奏すれば「悄然とし悲しげな状態」、嬰へ短調で奏すれば「ひどい憂鬱」、変イ短調は「記述なし」、変ロ短調も「記述なし」となる。「記述なし」とは当時の調律法では極端な響きになるためにほとんど用いられなかった調である。
《螺旋カノン》をマッテゾン流に解釈すれば、調が上昇していくにしたがって、王の栄光が高まるどころか悲しく憂鬱に沈み込んでいき、最後は王の栄光の崩壊ということになる。

バッハがもし調性格というものにこだわっていたならば、調性格に従って王の栄光が徐々に高まるように全く違う配列を考えたかもしれぬ。しかしバッハは調性格に全く配慮せずに調の配列を選んだ。もしバッハが調性格にこだわっていたならば、ハ短調で与えられた主題を他の調で書くことすらできなかっただろう。なぜなら調の変化によって主題の性格が変わってしまうなら、王の栄光は揺らいでしまうからだ。どの調でも主題の性格が不変であると考えたからこそ、バッハは調の上昇とともに王の栄光も高まると考えたのだろう。


「調が上昇するように王の栄光も高まらんことを」とバッハが書いた根底に、調性格の否定を読み取ることができる。

またバッハはこのカノンの記譜法において、調号としてのシャープ、フラットを使わず、曲の最初から最後まですべての音を臨時記号で表している。これはバッハのフーガの書き方にも通ずる。

バッハのフーガは冒頭の主題が主調で提示され、その直ぐ後に5度上の調で、また直ぐ後に元の主調で、またまた直ぐ後に5度上の調で主題が提示される。
一つのの調にとどまる時間が極短に短い。
もし調が変われば調性格も変わるという考え方ならば、フーガは1曲が終わるまでに、いくつもの性格が目まぐるしく変わることになる。
しかし実際は調が複雑に変化し一つの調に長くとどまらないと言う意味で転調がないと言った方が妥当である。
バッハのフーガは調性格の否定が根底にあり、それはイコール式の考え方に通じるものである。

バッハ礼讃会

1か月ほど前に開催したバッハ礼讃会は大好評、盛会のうちに無事終了することができました。
バッハ礼讃会というのはバッハの曲でバッハを礼讃する独自の音楽会です。いわゆる演奏会のようなものとは違います。またピアノ発表会とも違います。バッハ礼讃会は宗教的、哲学的音楽会です。同時にバッハ慰霊祭でもあります。
バッハは江戸の中期、我が国が鎖国している間にドイツで活躍し、1750年7月28日に亡くなりました。私はバッハの祥月命日に拘りまして7月28日に一番近い日曜日にバッハ礼讃会を開催させていただきました。今年はなんとバッハの264回忌ということになります。バッハの命日は単に一作曲家の亡くなった日ではありません。バッハの死はいろいろな意味で西洋音楽の分水嶺をなす音楽史上最も重要な日なのです。

バッハ礼讃会はプロテスタント教会の礼拝堂で行いました。
礼拝堂の正面右側にはバッハの肖像画を飾りました。バッハの会に参加しておられる画家が描いてくださった油絵です。
正面の左側にはスクリーンを用意しました。曲にマッチした言葉や、バッハの生涯などを書いて映し出しました。音楽を聴きながら字幕を読んでいただく仕掛けです。


演奏曲は、平均律クラヴィーア曲集、G線上のアリア、主よ人の望みの喜びよ、ブランデンブルク協奏曲、ミサ曲ロ短調のバスのアリア、フランス組曲、目覚めよとわれらに呼ばわる物見らの声、etc

珍しい演奏としては法衣をまとった臨済宗の僧侶の出演です。《ブランデンブルク協奏曲》に合わせて複雑なリズムを木魚で叩かれました。その瞑想的な雰囲気の中に音楽の生命がイキイキと立ち上ってくるようでした。
同じようなものとしては紋付き袴姿で鼓を打ってくださったプログラムもありました。《G線上のアリア》に合わせて「イヨー、ポン」と盛り上がっていき、会場は不思議な幽玄の世界に包まれました。
神様は変幻自在です。このような変幻自在なコラボが可能なのはバッハだけでありまして、モーツァルトやショパンでは不可能なのです。変幻自在のバッハは神様の音楽であることの一つ証明であります。

メインはフーガBWV 578 の合奏です。ピアノ教師、主婦、元小学校の校長先生などによる7台のキーボードの合奏です。バッハのフーガがなぜ難しいかと言うとソプラノ、アルト、テナー、バスの4パートを一人で全部弾かなければならないからです。それを7人で手分けして演奏すれば、とても簡単です。その上、♯♭を最小限にして簡単に弾き易く移調した楽譜を使うのですから、誰にでもできるのです。ふつうならバッハなどとても弾けないという人もこういう形なら、気軽にバッハに触れることができます。
 
難曲をお弾きになった方はバッハに造詣が深く、ドイツ的な超一流の演奏家や、旧態依然とした頑ななバッハ解釈から抜けられないご様子で、最初は出演を躊躇しておられました。私が「上手に弾こうとせず、般若心経を読むようなつもりで弾いてください」と申し上げると納得して出演してくださいました。猛スピードでミスなく綺麗に弾くだけなら、高度に進化したコンピューターの方がはるかに有能です。そうではなくてバッハの音楽の中に息づく生命の実相を感じることが最も大切なのです。そうすることによって心が調律されるのです。潜在意識が浄化されるのです。彼は文字通り般若心経を読むようにお弾きになりました。後で彼は次のような感想を述べてくださいました。「これまでバッハが書いた音符が多くの人の目に触れ、多くの人によって音にされて来た。その中の一人がこの私なんですね。多くの人がバッハの音楽の中に包まれてきた。これって、ある意味で、バッハは今こうして弾いている私のために書いてくれたとも言えるんですね。バッハ礼讃会の全体がそんな雰囲気でした」と、自らの出演を通して言葉にならないバッハの真髄を観じ取っていただけようでございます。

バッハはラッパなり

ラビ・マーヴィン・トケイヤー(1936〜)はユダヤ人にしてユダヤ教団の教師である。彼の著書 『日本には教育がない』によると、日本では受験と教育が同義語になっているという。

日本には教育という一つの言葉しかないが、自分たちには2つの言葉があるという。すなわち learn と Studyである。小学生にあっては Learn、中学生以上は Study するという。2つの言葉はともに勉強するという意味を持ちながら、Learn は 受け身になって「習う、教わる」、一方 Study は生徒が主体性を持って自ら積極的に学ぶことだと。日本では小学生から大学生まで Learn して Study がない。

音楽教育についても全く同様のことが言える
日本では小学生から大学生まで Learn して Study がない。

小中高の音楽の授業、各種ピアノ教室の音大受験教育、音楽専門学校、音楽大学など、どこでも受け身で、「習う、教わる」だけである。
主体的にStudy しないから、先生の言うことを鵜呑みにするだけである。取りあえず回答だけを覚える。表面的なテクニックの上達だけに走る。実は教師自身も気づかぬまま、間違ったことを生徒に教えている場合もあるというのに。

教師の言うことを間違っているかどうか考えるのは、Learn だけの生徒には無理である。
先生の言うことを主体性をもって本気で Study するという姿勢がないから、何でも疑わずに鵜呑みにしてしまう。

歴史上最初のバッハ評伝を書いたフォルケル(1749〜1818)は辛辣に言う。
「偉大な音楽作品の真の享受をいっそう普及させるためには、よりすぐれた教師が何よりも必要である。すぐれた教師のいないことこそ、音楽におけるあらゆる災いの源泉である。未熟で不勉強な教師が体面を保とうとすれば、すぐれた芸術作品を生徒たちの前でけなさざるを得ない。さもないと、それらの作品を聴かせてほしいと、生徒たちから求められる恐れがあるからだ。こうして生徒は愚にもつかぬへぼピアノ教師に時間と労力と金を浪費せざるを得ず、おそらく5,6年たっても、本当の音楽教養という点で、最初にくらべて少しの進歩も見られないことになろう」

フォルケルはバッハの音楽を最初に発掘した人である。バッハの死後、世間から忘れ去られた大作曲家の存在を世に知らしめた人である。
彼はバッハを教えるピアノ教師こそ優れた教師と考えた。バッハを教えるピアノ教師の不在が音楽におけるあらゆる災いの源泉であると言うのだ。
バッハを教えようとしないへぼ教師につくと、時間と労力と金を浪費するだけというのである。

しかし今日、ピアノ教師たちの多くは、バッハは難しいから教えられないと言う。
難しければ、簡単にして教えようと努力して欲しい。
例えば移調したり、アンサンブルで1パートだけ弾かせたりすれば、初心者でもバッハを弾くことができる。
どのような形であれ、バッハの音楽に触れさせることが先決である。

宗教家、オルガニスト、医師のシュヴァイツァー(1875〜1965)は言う。
「バッハのフーガを練習したことのある子供は(その際どんなに機械的に行われたにせよ)声部進行を目のあたりに学び取るのであり、この直感はもう二度と消し去られることはないであろう。そのような子供はどんな曲にも同様な音響の線による尊厳な動きを本能的に求めるようになり、その欠如を貧しさと感ずるであろう」と


バッハの音楽を信ずる者は限りなき命を得て永遠に輝かん。
バッハは創り主の言葉なり、バッハの音楽はバッハの思想の言うところに非ず、
神バッハと共にありて、バッハもまた自らの音楽の内に神の声を聞くなり
バッハはラッパなり、
汝らバッハが示すところの神を崇めよ
バッハを崇めよと言うには非ず
バッハはただ天の使いなり

調性格は2つだけ

「ハ長調」や「ト短調」というような「調」は、その「調」自体が、ある性格を持つと考えられてきた。あるいは今でもそう考えられている。12等分平均律の鍵盤楽器においてさえそのように考えている人は少なくない。

「調」自体の性格という時、現代では12 の長調と12 の短調があって、合計24の「調」の性格があることになっている。
24 もあるとはいえ、音階の種類はたったの2つ、すなわち長調と短調である。

現代の主たる音階は長調、短調の2種類だが、その前身の教会旋法は違う。
11世紀にグィードという音楽理論家がいた。彼は4つの教会旋法が特有の性格をもつと考えた。
16世紀に至ってイオニア旋法とエオリア旋法が加えられ、6つの教会旋法が固有の特徴をもつと考えられた。
その特徴的な性格はプリンツ(1641〜1717)によると以下のようになる。

イオニア旋法・・・・・・・・陽気で活発
ドリア旋法・・・・・・・・・・温和,敬虔
フリギア旋法・・・・・・・・非常に悲しい
リディア旋法・・・・・・・・過酷、不親切
ミクソリディア旋法・・・・陽気、いくらか穏健
エオリア旋法・・・・・・・・穏健、優しい、いくらか悲しい

[ キルンベルガー著 『純正作曲の技法』 東川清一訳 より ]

上の教会旋法は音階構造が6種類それぞれ違う。
繰り返すが現代の主たる音階構造は長調と短調の2種類である。

教会旋法では、音階の開始音の如何にかかわらず、イオニア旋法ならばすべて「陽気で活発」な性格を持つと考えられた。イオニア旋法の音階は現代の長調の音階と同じである。
ならばである。
音階の開始音の如何にかかわらず、長調ならばすべて「陽気で活発」な性格をもつと考えるのが当然である。

イオニア旋法で音階開始音が「ハ」なら○○の性格、「ニ」ならば○○の性格などと区別はしない。
しからば長調で音階開始音が「ハ」なら○○の性格、「ニ」ならば○○の性格などと区別するのは矛盾だ。

特に現在の12等分平均律の鍵盤楽器を演奏する我々が、音階開始音の違いだけで、「調」の性格を云々するのは無意味というものである。
「ハ長調」と「ニ長調」の違いは音階開始音の違いだけである。音階構造はどちらも長調で等しい。
12等分平均律の鍵盤楽器は音程が固定されているのだから、「ハ長調」と「ニ長調」の違いを見出すことは不可能というものである。

フーガ ト短調はト短調に非ず

《フーガ ト短調》 あるいは《 小フーガ》という通称でよく知られているのは BWV 578 のフーガである。主題は歌唱的な前半と器楽的な後半が好対照をなし、端正な美しさと親しみやすさを合わせ持つ佳曲である。

このフーガを市販の楽譜で見ると♭2個の調号で記譜してあるものが多い。♭2個の調号で終止音が「 g 」であるから、なるほどト短調のようである。ただし「近代長短調」の考え方でいえばの話である。
なぜなら、バッハはこのフーガを♭2個の調号では書いてないからである。

バッハの意図を知るには、ゲッティンゲンのバッハ研究所とライプツィヒのバッハ資料館が長い年月を費やして完成させた『新バッハ全集』を見るのが一番だ。これは現在最も信頼できる版である。
『新バッハ全集』はドイツのベーレンライター社から随時出版され2007年に完成を見た。《フーガ BWV 578 》 は 1999年に出版された。『新バッハ全集』 の 検檻供∧埆玄圓蓮Dietrich Kilian である。

[Neue Ausgabe saemtlicher Werke, harausgegeben vom Jphann-Sebastian-Bach-Institute Goettingen und vom Bach-Archiv Leipzig, Serie , Orgelwerke,Band 6, herausgegeben von Dietrich Kilian.]


『新バッハ全集』で見ると、《 フーガ BWV 578 》は♭1個の調号で記譜されている。♭1個の調号なのに、終止音は「g」である。我々の常識では、♭1個はニ短調であり、終止音は「d」のはずだ。もし、終止音が「 g 」 ならば調号は♭2個というのが我々の常識だ。

しかしバッハの時代にはこのような記譜法も一般的だった。それは今日の我々にはあまり馴染みのないドリア旋法の記譜法である。ドリア旋法は教会旋法の一つで、今日の記譜法より♭を一つ少なく記譜する。バッハの初期の作品によく見られる記譜法である。

《 トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565 》 という通称で呼ばれるあの有名な曲も、バッハはドリア旋法で書いている。調号には♯ も♭もつかず一見するとイ短調のようである。しかし終止音は「 d 」である。我々の常識ではニ短調は♭1個のはずだが。

ドリアなどの教会旋法で書かれるのが一般的だった時代に、バッハはそれを近代長短調へと徐々に収斂し確立した。今日我々は種々のジャンルの音楽において、初めから長調と短調が存在しているかのごとく思っているが、これはすべてバッハのお陰である。だから「あまねく世界に神は存在し、あまねく音楽にバッハは存在する」と言われるのだ。

《 フーガ BWV 578 》 は《アンドレーアス=バッハ本》の中に収められている。『アンドレーアス=バッハ本』とはバッハの甥(1713〜79)の名前に由来し、「J・アンドレアス・バッハ 1754」という所持を示す文字の書かれた手書きの楽譜集である。この中に収められた作品は遅くともヴァイマール時代までに書かれたことがわかっており、《 フーガ BWV 578 》はバッハ初期の作品と言える。バッハの初期の作品にはドリア旋法の記譜法で書かれたものが多い。

以上見てきた通り、我々が 《フーガ ト短調 》 と思い込んでいた曲は、実はドリア旋法である。
ドリアなど種々の教会旋法にはそれぞれ異なる性格がある。ちなみにプッシュテット(1666〜1727)による教会旋法の性格付けによると、ドリア旋法は「活発、喜ばしい、そして壮重」となる。ドリア旋法のこの性格は終止音が変わっても不変である。これは大変重要なポイントである。つまり 《 フーガ ト短調 》 も 《 トッタータとフーガ ニ短調 》もドリア旋法であるから終止音が「 ト 」あるいは 「 ニ 」 、その他何の音に変わっても性格は不変である。すべて「活発、喜ばしい、そして壮重」という性格である。

今日の常識では 《フーガ ト短調 》 と 《 トッタータとフーガ ニ短調 》 は調が違うから性格も違うと考えられている。これは大きな間違い、両方ともドリア旋法でその性格は同じである。
バッハは 「 ト 」を終止音とするドリア旋法のフーガを意図したのであって、「ト短調」を意図したのではない。我々は勝手に「ト短調」だと思い込んでいる。

ドリア旋法において、終止音は何であれ、その性格は不変であると先に述べた。にもかかわらず、《 フーガ ト短調 》 以外の調で弾くと、曲の性格が変わってしまうと考えている人は少なくない。もしそのように考えているなら、間違った常識、あるいは既成概念に捉われている証拠であろう。

音楽は魂のひそかな数学的実践である

 紀元前5世紀ごろ、ピュタゴラスは音の調和の法則を発見した。彼は古代ギリシャの数学者、哲学者、宗教家、音楽理論家で、ピュタゴラス学派は「万物は数である」という根本原理から成り立っている。
 
 ピュタゴラスは、2つの音が協和する時、2つの音の振動数比は簡単な整数比になることを発見した。オクターヴは 1:2、完全5度は2:3、完全4度は 3:4 である。
振動数比を視覚的に把握するには、共鳴箱に1本の弦を張り、移動駒によって弦の長さを調節する装置をイメージするとよい。オクターヴとは「ド」から上の「ド」までの幅であるが、移動駒を2分の1のところにもってきて弦の長さを半分にすれば1オクターヴ上の「ド」が得られる。
同様に、移動駒を3分の2のところに持ってきて弦を短くすれば「ド」から完全5度上の「ソ」が得られる。

 このように音の協和が振動数比で数学的に理論付けられ、それが全宇宙を支配するものと考えられた。なぜ、人間が簡単な整数比の音を協和音と感じるかといえば、宇宙と人間の魂が同じ振動数に基づいているからであり、宇宙の調和を表す音楽は人間の魂を調和させると考えられたのである。ピュタゴラスは簡単な振動数比を一種の神的啓示としてとらえ、神聖なものと考えた。今日の言葉で言えば純正の音程を神聖なものと考えたということだ。数学も音楽も哲学もその創始者は同じであり、古代ギリシャにおいてこれらは一つの学問だった。

 その後のピュタゴラス学派は宇宙形成原理として受け継がれた。
プラトン(紀元前427〜347)の世界霊魂形成、プレトマイオス(83〜168)のハルモニア論、ケプラー(1571〜1630)の世界の調和など、哲学的伝統を形成していく。
ライプニッツ(1646〜1716)はドイツの哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍し、学者・思想家として知られる知の巨人である。17世紀の様々な学問を統一し、体系化しようとした。その業績はベルリン科学アカデミーの創設など多岐にわたる。彼は「予定調和説」を唱え、極めて広い領域にまたがる思想を打ち立て、「音楽は魂が自ら知らずに行うひそかな数学的実践である」という言葉を残した。ここでいう音楽とは簡単な振動数比の数学を意味している。
現在我々が耳にする12等分平均律の音階や微分音などは簡単な振動数比ではない。現代人は簡単な振動数比の響きを忘れ、濁った音に慣らされてしまったようだ。

 ピュタゴラスの発見した 2:3 の振動数比、すなわち純正の完全5度を積み重ねて得られる音階をピュタゴラス音律と呼んでいる。純正の完全5度を積み重ねるとドレミファソラシドの7音音階が得られる。これは全音といえども大全音と小全音によって構成される7音音階である。
純正の完全5度を11回積み重ねると12個の半音階が得られる。しかし、ここに大問題が発生する。すべての完全5度を純正で得ようとするとオクターヴの環が閉じないのだ。不都合にも自然の摂理に阻まれる。環の最後の音、すなわち His=C が最初の C より24セントも高くなってしまう。この不都合な24セントを如何様に処理するかという難問が音律の諸相である。処理の仕方によって幾通りもの音律が考えられる。12個すべての音を純正に得たいという人間の理想に反して、神の摂理は常に割り切れない。1日24時間では処理し切れないから4年に一度うるう年を設けて調整しなくてはならない。円周率3.14 も割り切れない数字だ。音律も割り切れない。神様はいつも科学的理論的に割り切れないという粋な計らいをなさるのである。

 ピュタゴラス音律は、古代中国の三分損益法、近代邦楽の順八逆六の法とも基本的に同じである。国も言葉も文化も違う。それでも人間が協和音と感じる振動数比は共通である。気候風土、思想、宗教、伝統を超越した振動数すなわち波動の世界は共通だ。人間が言語表現の世界にとどまっている限り、共通理解を見出すのは難しい。言語を超えた波動の世界におけるピュタゴラスの思想は全く正しい。「万物は数である」

ネコ踏んじゃった

我々が音楽を奏でようとする時、声楽は勿論のこと、ヴァイオリンなども自ら音程を作って奏する。音程が悪いと音痴ということになる。音程の良し悪しは演奏の生命線である。
今、当たり前のことを述べたに過ぎないが、こと鍵盤楽器に限っては全く事情が違うのである。ピアノ奏者は自ら音程を作らない。奏者がいくら歌って弾こうとしても、鍵盤楽器の音程は一定である。予め調律師に作ってもらった音程で弾くしかない。逆に言えば、鍵盤楽器は音痴でも弾けるということである。音程の善し悪しを問うことができないからだ。猫が踏んでも一流のピアニストが弾いても、音程に関する限り全く同じだ。ピアノはタッチによって音色が変わるので、音色の変化はあるが音程の変化は無い。
ピアニストは自ら音程を作らず、人任せの音程で演奏するしかないので音程というものに無関心である。

昔は鍵盤楽器の奏者が自ら調律したものである。バッハもクラヴィコード(鍵盤楽器)をたった15分で調律したという。クラヴィコードとは鍵盤楽器の総称であり、ピアノの前身であるが、クラヴィコードを調律する調律師という職業はなかった。クラヴィーアの奏者は必ず、好むところの調律を自ら施して演奏したのである。
ヴェイオリンの調律師が存在しないように、クラヴィーアの調律師も存在しない。それは当たり前のことだった。

ではなぜ今日我々はピアノを自ら調律しないのか、調律師にやってもらわねばならないのか。なぜ自分の演奏行為が人任せの調律なのか。
クラヴィコードに比べて、ピアノは大掛かりで調律が難しいという単純に物理的な問題では片付けられない重大な問題がそこにはある。

今日のピアニストといえば演奏専門の音楽家であるが、昔の音楽家は、3つのことを1人でカバーしていた。すなわち、作曲、調律、演奏の3つを一人の人間がやっていた。
自ら曲を作り、自ら楽器を調律し、自ら演奏した。バッハの時代、これが当たり前だった。
それに引き換え、今日の音楽家は、作曲するだけ、調律するだけ、演奏するだけと分業化し、3分の1人前でしかない。

昔は作曲家と演奏家が同じだったので、必然的にその時代の現代音楽が演奏された。ところが今日ではピアニストは曲を作らないし、作曲家は現代曲を作るもほとんど演奏されない。今日のプログラムは、ほとんどがベートーヴェンやショパンといった過去の作曲家の作品である。だから今日の音楽界は、現代音楽ではなく過去の音楽界の様相を呈している。

今日のピアニストは、なぜ自作の現代曲を演奏しないのだろうか?
昔は自分で音楽を作らない奏者は酒場のヴァイオリン弾きと同等の扱いを受けた。
彼らは人が書いた曲を楽器によって音にするだけに雇われるのであり、通常身分が低かった。彼らは「楽士」と呼ばれ、音楽家とは見なされなかった。
以上の認識からすると、今日のピアニストは人が書いた曲を、ピアノによって音にするだけなので、酒場のヴァイオリン弾き、「楽士」と言わざると得ない。

今日の作曲家は、通常、ステージでは演奏できず、調律も人任せである。
今日の調律師は、通常、シテージでは演奏できず、作曲法も知らない。
今日のピアニストは、通常、作曲も、調律もできない。

昔は3つの仕事を一人の人間がやっていたものを何時から分業することになったのか。
バッハもモーツァルトも自ら作った曲を演奏した。ベートーヴェンも若い頃は自分の作品を自分で演奏した。しかし耳が聞こえなくなった頃からベートーヴェンは人前で演奏しなくなった。またシューマンも指の故障でピアノが弾けなくなり、作曲に専念することになった。弾けない作曲家に代わって、ピアノを演奏する人が必要になった。このあたりが作曲家とピアニストの分岐点ではなかろうか。

また時代を同じくして、12等分平均律というバカチョンカメラのような調律が台頭してくる。この調律はオクターヴ以外のすべての音程が狂っている。純正の響きがひとつもない。音の素材は半音しかないという世界、どの調も同じモノクロの世界になってしまった。だから作曲家は音の素材の作り方を学ぶ必要がなくなった。音の素材とは調律法に直結する問題である。如何なる素材で音階を作るかということは作曲家にとって生命線であるはずである。ところが今では、音の素材は決まり切った不精音律、オクターブを頭ごなしに12等分する機械的な音律で作曲する。あるいは、微分音やコンピューターを駆使する音楽を書くが聴衆はついていけない。もはや音楽とは見なされないものとなりつつある。
調律師も12等分平均律で調律するから誰がやっても同じような調律である。調律師の腕の見せ所は音律如何ではない。音色、音質だけである。
ピアニストもペダルを踏んで目にも止まらぬ速さでパッセージを弾いてしまえば、12等分平均律の狂った音程でもさほど気にならない。
かくして、ピアニストは純正の響きと縁を切り、12等分平均律の不純さに慣らされてしまった。

時代は19世紀前半である。市民革命によって、音楽は教会と貴族のもとから音楽ホールや劇場、ブルジョワ市民のものに移っていく時代である。演奏できなくなったベートヴェンやシューマンに代わって演奏する職業ピアニストが誕生してきた時代である。彼らは、大ホールでの大音響と、音楽的に無知な聴衆にうけるべく超絶技巧を追求していく。他人が作った音楽、例えばベートーヴェンの悲愴を、我が物顔で情緒たっぷりに演奏する。しかし、それはベートヴェンの悲愴であってピアニストの悲愴ではない。

革命後の聴衆は純粋音楽よりも文学的で分かりやすい音楽を好み、甘いロマンティックな曲、華々しいパッセージ、迫力ある演奏に熱狂するようになる。ステージで脚光を浴びるピアニストはスター扱いされる。聴衆はピアニストに恋焦がれ、ファンクラブを作る。作曲家のほとんどは草葉の陰の人である。

かくしてピアノ音楽界はネコ踏んじゃったの世界に、2度と戻れない音楽の終焉に向かっている。
やわらかなバッハの会
〒753-0072 山口県山口市大手町
3−6 大手町ビル4F
毎週土曜日18:00 PM
毎週金曜日10:00 AM
毎月1回   対話集会18:00 PM
都合により日時を変更する場合もありますので初めての方は事前にご連絡ください

お問い合わせはこちら

マンスリーバッハ (第2日曜日)
午後4時〜6〜時
場所:新山口駅構内

バッハ・イン・ザ・サブウェイズ
2019年3月21日
場所:新山口駅構内

<プロフィール>
やわらかなバッハの会 
会長 橋本絹代
新しい鍵盤楽器記譜法「イコール式」の創始者

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取り
バッハのとりこになった。
初級者でもバッハのフーガを楽む方法を提案している。

2007年 世界で初めての楽譜《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》カワイ出版 

2009 音楽書『やわらかなバッハ』春秋社

2013「やわらかなバッハの会」設立

2014 バッハ礼讃音楽祭 (於 旧県会議事堂) 毎年開催

2016 バッハ・イン・ザ・サブウェイズ (於 新山口駅構内)毎年開催

2017 Bach Network UK 対話会議研究発表 (於 ケンブリッジ大学)

2017 Prof.Yo Yomita (富田庸) 講演会「バッハを嗜む」主催(於山口大学)

2018 Thomas Cressy 明治150年記念「日本の明治時代におけるバッハ受容」

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも「どんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりすることはできない」と述べています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の中の難しい調を簡単な調に移調してまず親しむことが大切です。初級者は更にそれをアンサンブルで楽しむことが大切です。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。


世界唯一! 平均律クラヴィーア曲集の移調
音楽の構造が良く解る










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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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