やわらかなバッハの会

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所

ネコ踏んじゃった

我々が音楽を奏でようとする時、声楽は勿論のこと、ヴァイオリンなども自ら音程を作って奏する。音程が悪いと音痴ということになる。音程の良し悪しは演奏の生命線である。
今、当たり前のことを述べたに過ぎないが、こと鍵盤楽器に限っては全く事情が違うのである。ピアノ奏者は自ら音程を作らない。奏者がいくら歌って弾こうとしても、鍵盤楽器の音程は一定である。予め調律師に作ってもらった音程で弾くしかない。逆に言えば、鍵盤楽器は音痴でも弾けるということである。音程の善し悪しを問うことができないからだ。猫が踏んでも一流のピアニストが弾いても、音程に関する限り全く同じだ。ピアノはタッチによって音色が変わるので、音色の変化はあるが音程の変化は無い。
ピアニストは自ら音程を作らず、人任せの音程で演奏するしかないので音程というものに無関心である。

昔は鍵盤楽器の奏者が自ら調律したものである。バッハもクラヴィコード(鍵盤楽器)をたった15分で調律したという。クラヴィコードとは鍵盤楽器の総称であり、ピアノの前身であるが、クラヴィコードを調律する調律師という職業はなかった。クラヴィーアの奏者は必ず、好むところの調律を自ら施して演奏したのである。
ヴェイオリンの調律師が存在しないように、クラヴィーアの調律師も存在しない。それは当たり前のことだった。

ではなぜ今日我々はピアノを自ら調律しないのか、調律師にやってもらわねばならないのか。なぜ自分の演奏行為が人任せの調律なのか。
クラヴィコードに比べて、ピアノは大掛かりで調律が難しいという単純に物理的な問題では片付けられない重大な問題がそこにはある。

今日のピアニストといえば演奏専門の音楽家であるが、昔の音楽家は、3つのことを1人でカバーしていた。すなわち、作曲、調律、演奏の3つを一人の人間がやっていた。
自ら曲を作り、自ら楽器を調律し、自ら演奏した。バッハの時代、これが当たり前だった。
それに引き換え、今日の音楽家は、作曲するだけ、調律するだけ、演奏するだけと分業化し、3分の1人前でしかない。

昔は作曲家と演奏家が同じだったので、必然的にその時代の現代音楽が演奏された。ところが今日ではピアニストは曲を作らないし、作曲家は現代曲を作るもほとんど演奏されない。今日のプログラムは、ほとんどがベートーヴェンやショパンといった過去の作曲家の作品である。だから今日の音楽界は、現代音楽ではなく過去の音楽界の様相を呈している。

今日のピアニストは、なぜ自作の現代曲を演奏しないのだろうか?
昔は自分で音楽を作らない奏者は酒場のヴァイオリン弾きと同等の扱いを受けた。
彼らは人が書いた曲を楽器によって音にするだけに雇われるのであり、通常身分が低かった。彼らは「楽士」と呼ばれ、音楽家とは見なされなかった。
以上の認識からすると、今日のピアニストは人が書いた曲を、ピアノによって音にするだけなので、酒場のヴァイオリン弾き、「楽士」と言わざると得ない。

今日の作曲家は、通常、ステージでは演奏できず、調律も人任せである。
今日の調律師は、通常、シテージでは演奏できず、作曲法も知らない。
今日のピアニストは、通常、作曲も、調律もできない。

昔は3つの仕事を一人の人間がやっていたものを何時から分業することになったのか。
バッハもモーツァルトも自ら作った曲を演奏した。ベートーヴェンも若い頃は自分の作品を自分で演奏した。しかし耳が聞こえなくなった頃からベートーヴェンは人前で演奏しなくなった。またシューマンも指の故障でピアノが弾けなくなり、作曲に専念することになった。弾けない作曲家に代わって、ピアノを演奏する人が必要になった。このあたりが作曲家とピアニストの分岐点ではなかろうか。

また時代を同じくして、12等分平均律というバカチョンカメラのような調律が台頭してくる。この調律はオクターヴ以外のすべての音程が狂っている。純正の響きがひとつもない。音の素材は半音しかないという世界、どの調も同じモノクロの世界になってしまった。だから作曲家は音の素材の作り方を学ぶ必要がなくなった。音の素材とは調律法に直結する問題である。如何なる素材で音階を作るかということは作曲家にとって生命線であるはずである。ところが今では、音の素材は決まり切った不精音律、オクターブを頭ごなしに12等分する機械的な音律で作曲する。あるいは、微分音やコンピューターを駆使する音楽を書くが聴衆はついていけない。もはや音楽とは見なされないものとなりつつある。
調律師も12等分平均律で調律するから誰がやっても同じような調律である。調律師の腕の見せ所は音律如何ではない。音色、音質だけである。
ピアニストもペダルを踏んで目にも止まらぬ速さでパッセージを弾いてしまえば、12等分平均律の狂った音程でもさほど気にならない。
かくして、ピアニストは純正の響きと縁を切り、12等分平均律の不純さに慣らされてしまった。

時代は19世紀前半である。市民革命によって、音楽は教会と貴族のもとから音楽ホールや劇場、ブルジョワ市民のものに移っていく時代である。演奏できなくなったベートヴェンやシューマンに代わって演奏する職業ピアニストが誕生してきた時代である。彼らは、大ホールでの大音響と、音楽的に無知な聴衆にうけるべく超絶技巧を追求していく。他人が作った音楽、例えばベートーヴェンの悲愴を、我が物顔で情緒たっぷりに演奏する。しかし、それはベートヴェンの悲愴であってピアニストの悲愴ではない。

革命後の聴衆は純粋音楽よりも文学的で分かりやすい音楽を好み、甘いロマンティックな曲、華々しいパッセージ、迫力ある演奏に熱狂するようになる。ステージで脚光を浴びるピアニストはスター扱いされる。聴衆はピアニストに恋焦がれ、ファンクラブを作る。作曲家のほとんどは草葉の陰の人である。

かくしてピアノ音楽界はネコ踏んじゃったの世界に、2度と戻れない音楽の終焉に向かっている。

あまねく音楽にバッハは存在する

旧ソ連の作曲家シュニトケ(1934〜98)は「あまねく世界に神は存在し、あまねく音楽にバッハは存在する」という言葉を残した。これは数ある賞賛の言葉の中でも最大級ではないだろうか。
他にもバッハ賞賛の言葉として「五番目の福音史家」と言うのもある。福音史家とは聖書の福音書を書いたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人のことである。彼らに次ぐ5番目の福音史家がバッハというわけだ。
同様に「神様はバッハにかなりの借りがある」とも言われてきた。

古今東西あらゆる作曲家がバッハを神のごとく崇めている事実、これはバッハ一人だけに許される例外的な賞賛であり、他の作曲家ではダメなのである。音楽をよく知る者には何故バッハなのか自明のことである。しかし一般の人たちにはあまり理解されてないようだ。

世間一般ではクラシック作曲家といえばバッハよりベートーヴェンの方が有名だろう。。5線ノートの表紙にはベートーヴェンの顔が描かれ、クラシックといえば「運命」、年末には第九の「歓喜の歌」が街中にあふれ、1万人もの人が大合唱する。ベートーヴェンはまさにクラシック音楽の象徴的存在となった感がある。

最近話題になった佐村河内守も「現代のベートーヴェン」という誠に厚かましいコピーを実に巧みに使って成功した。耳が聞こえないベートーヴェンという偉人伝が衆知されているからこそ、耳の聞こえない佐村河内守が作曲したということで世に受け入れられたのである。世間というものは音楽そのものの価値より、逸話や伝記の方が大切らしい。というより逸話やストーリーしか理解できないから音楽には無頓着と言った方が正確かもしれない。

くだんの交響曲第1番も「現代のベートヴェン、佐村河内守」の作品だと宣伝したから世に出たのである。決して音楽そのものの価値によるのではない。ゴーストライターの「新垣隆」の名前で出したのでは誰も見向きもしないだろう。新垣隆はおろか、団伊玖磨、芥川也寸志、諸井三郎、松村貞三などの多少は名の知れた作曲家の交響曲1番でさえ、誰も見向きはしない。現況では、いくら名門音大を卒業しても自作曲をオーケストラで演奏してもらえるうチャンスはほとんど無い。その意味では新垣隆はある種の満足を得ていたと思う。自分の名前は世に出なくとも、自作曲が多くの人の耳に届き、賞賛されたのだから。しかしその賞賛の大部分は音楽ではなく、耳が聞こえない作曲家が作ったという逸話やストーリーに反応したに過ぎない。しかもその作曲家がマスコミによって作られた偽者であったことを冷静に判断すべきだろう。世間は音楽ではなく、逸話やストーリー、果てはブランドによって判断するという事実、マスコニによって洗脳される大衆の迷妄を見せつけられた事件と言わざるを得ない。

もしバッハに面白い逸話でもあったならば大衆にもっと受け入れられていたかもしれないが、バッハの音楽はそのような低級なものを必要としない。音楽の価値だけで君臨している。
古今の作曲家の中でバッハほど人生の経過と作品の成立が無関係な芸術家はいたためしがない。
またバッハほどその生涯について知られている情報が少なく興味を呼ばない芸術家もないのである。
しかし音楽芸術の本源は神への賛美である。音の波動である。作曲家の逸話やストーリーは邪魔にこそなれ全く不要のものである。

バッハの作曲活動はもっぱら神への賛美のためだけに行われた。だから彼の音楽芸術は世間とも世間における成功不成功ともなんら関係がなかったのである。音のない精霊の音なのだ。
バッハは内面的には世間と縁を切っていたので、彼の全思索は驚くべき晴れやかな死への憧れによって浄化されている。自我を放棄し、自我を超えたとき、あたかも飛行機が雲の上に出ると常住の青空の輝きが見えるように音楽が輝き始める。迷いの雲を突き抜けた光明世界がバッハの音楽である。光明世界の音楽は鳴り響く宇宙の法則、それは神の波動である。

反対に神から離れて自我に固執する音楽は無明である。宇宙の法則を書かないで、自分の考えたことや自分の勝手な夢を書く。無明を美だと思い違いして自分のノイローゼを売ろうとする。そういった音楽はいくら平和を唱えても平和になりようがない。せいぜい革命思想になるだけだ。

バッハの実生活は子供たちと家庭がすべてだった。20人もの子供を作り、安定した生活、幸福で多忙な毎日だった。そして何より平凡な日々だった。勤勉に働く日常生活の中でバッハは常に死を憧憬し、死こそ生活の真の完成であると確信していた。バッハは自我の死こそ永遠の命だという悟りにも似た精神をもって超越的視点で世の中を見ていた。
だからこそバッハの音楽は超越的で永遠である。バッハは永遠にその価値を失わないと同時に、何時の時代にあっても常に「新しい音楽」としてわれわれの前に変幻自在の姿で顕れてくる。

シューバルト(1739〜91)は
「人間がいつの日かバッハの精神に到達するまでには幾世紀かを要するだろう」と述べた。

ドビュッシー(1862〜1918)は
「好意にあふれた神バッハの業績に私たちが目を向けるなら、つい昨日書かれたように思われる箇所をいたるところに見出せるーー中略ーー今日なお凌駕するもののないその作品に、趣味のひとつのあやまりも探すだけ無駄であろう」と述べた。

ブゾーニ(1866〜1924)は「バッハの作品は幾世紀にも先んじ、時代を超える巨大な姿を呈している。ハイドンとモーツァルトのピアノ曲は実を言うとバッハ以上にわれわれから遠く離れて位置し、彼らの時代の枠に完全に適合している」と述べた。

永遠不滅の響き

バッハの没後、彼の音楽は時代から取り残され埋もれてしまった。しかしバッハの音楽の真価を世に先んじて示した人がいた。フォルケル(Johann Nikolaus Forkel 1749〜1818)という音楽学者、ゲッティンゲン大学の音楽監督を務め、ドイツ音楽史の最も重要な存在の一人である。彼は1802年に『バッハの生涯 芸術および作品について』を書き、バッハの真価を世に問うた。メンデルスゾーンのバッハ蘇演よりも27年も前に書いたのである。

フォルケルは言う。
「音楽家が偉大なものを求めずして小なるものや目先の快楽を求めるのは、ギリシャやローマの古典を知らないことに等しい」と。
また「バッハの作品を研究した者には、つまらない音楽と本当の音楽との区別が明らかになる」とも述べた。

フォルケルがこのように述べた1802年とはどのような時代であったか、「つまらない音楽」とは何を指すのか。
1802年といえば、バッハはとうの昔に亡く、バッハの息子たちも全員亡くなり、バッハの孫のエルンストが43歳である。

バッハが生きた時代はオペラが流行の先端を行く花形となってきたときである。そこでは独唱者と簡単な伴奏、つまりメロディーと3和音による和声音楽が主流となる。これが楽器の世界においても主流となり、軽快でわかりやすく耳に快い和声音楽にすべての音楽家が魂を売ってしまう。彼らはこれを「新しい音楽」と呼んでわれもわれもと夢中になっていく。
しかしバッハ一人だけは流行の和声的な「新しい音楽」に満足できなかった。バッハが晩年に作曲した《フーガの技法》や《音楽の捧げ物》などは対位法芸術の金字塔である。時代を超越し世俗と隔絶した究極の対位法芸術である。バッハは人生の終わり近くに断固として対位法音楽を書くが、これは時代の潮流である「新しい音楽」に警告を発する遺言である。当時の作曲家の誰一人としてバッハの遺言に耳をかたむける者はいなかったが。

バッハの没後50年あまり経った時、ようやくバッハの真価を認める人たちが出てきた。フォルケルが崇高な芸術を世の忘却から救うべく、人々にバッハへの注意を喚起せしめた功績はきわめて大きい。フォルケルこそがバッハ復興の原動力である。フォルケルの功績がなければメンデスルゾーンの《マタイ受難曲》の復活上演もなかっただろう。復活上演の大成功によってバッハ100年忌にはバッハ協会が設立される。
バッハ協会は50年という長期計画でバッハの全作品の出版を計画し、『旧バッハ全集』が完成する。
『旧バッハ全集』を基にバッハの音楽を演奏によって一般社会に広めようと毎年「バッハ祭」が開催される。
『「バッハ年鑑』も刊行され、バッハの音楽の普及と研究がいよいよ盛んになる。
バッハ200年忌には全作品の厳密な資料批判に基づく『新バッハ全集』の刊行プロジェクトが始まる。ドイツは国家的大事業としてこれに取組み、50年以上の歳月をかけて2007年にようやく最終巻が刊行される。こうしてバッハの芸術は学問的にも充実する。古楽の発達によって演奏実践においても大きな収穫を得ることになる。

我々は今バッハの真価を知っている。バッハが否定した和声音楽の崩壊を既に見た。新しい音楽の終着駅は音楽の終焉だった。音楽は宇宙を貫く生命、宇宙を貫く法則であった。
「それ見たことか」というバッハの声が聞こえる。今こそバッハに帰ろう、父の家に帰ろう。バッハはきっと放蕩息子を暖かく迎えてくれるだろう。

なぜ「ドレミ」というのか

最初に「ドレミ」を発明したのは、ベネディクト会修道院の修道士、グィード・ダレッツィオ(995〜1050?)である。イタリアの音楽理論家であり 『ミクロロゴス』 という世界最古の音楽理論書を残している。
また彼は、デオバルド司教のもとで大聖堂の少年聖歌隊の指導にも当たった。少年達にグレゴリオ聖歌を効率よく教えるには、従来のやり方の口伝では不十分だと彼は考えた。それで彼は少年達がグレゴリオ聖歌を容易に習得できるように、音感訓練の方法と新しい記譜法を開発した。それが「ドレミ」である。

彼は各節の出始めの音が音階を順に上昇する歌をグレゴリオ聖歌の中から探し、《聖ヨハネの讃歌》を選び出した。
「汝のしもべが、弦をかきなでて、汝の妙なるわざをたたえ得るように、この穢れある唇の罪をのぞかせたまえ、聖ヨハネよ」 と、6月25日の「聖ヨハネの日」に歌われるグレゴリオ聖歌である。
旋律は各節の出始めの音が音階を順に上昇していく。

《聖ヨハネの讃歌》を原語で示すと以下のようになる。
utqueant laxis
resonare fibris
mira gestorum
famuli tuorum
solve polluti
labii reatum, sancte johannes

各節の出始めの音が順に上昇していく旋律なので、各節の出始めの音、すなわち 「Ut Re Mi Fa Sol La」 と、音が順に上がっていく。
この「ウト、レ、ミ、ファ、ソ、ラ 」 と 順に上がっていく音が今日の「「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ」と上昇する音階の起源となった。

最初の「ウト」は発音しにくいので後に「ド」と改められた。「ド」になったのはバッハの時代より後である。バッハは「ウト」と歌った。
また「ドレミファソラ」の次の「シ」がないのは何かおかしいと思われるだろう。
音階に「シ」がないのはヘクサコード(6音音階)だったからである。今日の「シ」は後になって加えられたものだ。「シ」が加わって7音音階となったのが今日我々の言う「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、」である。バッハの時代のソルミゼーションはまだ6音音階だった。6音音階は今日我々の言う長調と短調の音階ではなく旋法である。

バッハといえば《平均律クラヴィーア曲集》であるが、第1巻の有名な前書きを読むとバッハの時代のソルミゼーションが明らかになる。この前書きはバッハの自筆によるものである。
「平均律クラヴィーア曲集、すなわち長3度 Ut Re Mi に関して、あるいは短3度 Re MI Fa に該当するすべての全音と半音(白鍵と黒鍵)によるプレリュードとフーガ」 と書かれている。

バッハの言う長3度とは長調、短3度とは短調のことである。
長3度が 「Ut Re Mi ウト レ ミ」 と書かれている。バッハの時代は「ド レ ミ」 ではなく 「ウト レ ミ」と言っていたことが明らかになる。
また短3度が「Re Mi Fa レ ミ ファ」 と書かれている。今日の短調なら「ラ シ ド」と書くべきところである。
バッハの時代のソルミゼーションは6音音階だったので「シ」とは書けない。だから「ラ シ ド 」ではなく 「レ ミ ファ 」と書いたのである。6音音階は旋法を意味している。

バッハの前書きから明らかなように 《平均律クラヴィーア曲集》 は、旋法から近代長短調確立へのちょうど過渡期に成立したと考えることができる。
また《平均律クラヴィーア曲集》は近代長短調における24の調ではなく、長旋法と短旋法の24の移旋として成立したという側面も忘れてはならないだろう。

《歓喜の歌》からの脱却

年末になるとベートーヴェンの第九《歓喜の歌》が聞こえてくる。
1980年代に入った頃から特に盛んになり、年末の第九ブームが定着してきたようである。

日本におけるこの現象は1972年に欧州の歌として《歓喜の歌》が採択決定され公式に発表されたことと関係がありそうである。
ヨーロッパのシンボルとなる欧州の歌がベートーヴェンの《歓喜の歌》に決定された理由は何だろうか。
その鍵を握る人物は《歓喜の歌》を最初に提案したリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(1894〜1972)である。

名前から察しがつくように彼はハーフである。父はオーストリア=ハンガリー帝国駐日特命全権大使のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、母はハインリヒの大使公邸の女中頭だった日本女性、青山みつ(クーデンホーフ=カレルギー・光子)。父ハインリヒが在日中に、みつ(旧名)と出会い日本で結婚(みつは日本国籍を喪失し、夫と同じカトリックに改宗した)。日本で最初の国際結婚である。光子の父は憤慨して光子を勘当した。カレルギー家も東洋人との結婚を反対した。

栄次郎はクーデンホーフ=カレルギー夫妻の7人の子の次男として1894年に東京で生まれる。一家は栄次郎が2歳のときに日本を離れ、父親の故郷オーストリア=ハンガリー帝国に移り住んだ。

栄次郎はウィーン大学で哲学博士号を取得する。そして、欧州連合構想の先駆けになった「汎ヨーロッパ論」を提唱する。
「汎ヨーロッパ論」とは第一次大戦の影響から欧州が衰退するのを克服するために、小国に分かれて覇権を競う欧州の状況を打開し、アメリカのような欧州合衆国の設立を目指すべきだと呼びかけるものである。それまでは理念先行だった欧州統合論を政治運動に昇華させたのは彼である。自らの提案を出版するとともに、汎ヨーロッパ連合を設立し、各国にも汎ヨーロッパ協会を設けた。ために彼は「EUの父」と呼ばれている。

彼の経歴を簡単に述べたが、最も大事な経歴はこれからだ。彼は19歳の学生であったとき、親の反対を押し切って33歳の女優と結婚した。そして28歳の時にフリーメイソンに加入したのである。彼はグランド・オリエント・ロッジの高位階級のフリーメイソン会員であった。彼が汎ヨーロッパ運動を開始するとヨーロッパ各地のフリーメイソンリーが彼の運動を支援した。
こうしたフリーメイソンとの深い関係のなかで、彼は自らのメイソン精神をかけてベートーヴェンの《歓喜の歌》を欧州のシンボルに定めた。なぜなら《歓喜の歌》はまぎれもないメイソン讃歌だからである。

「歓喜の歌」はシラーの詩である。シラーはフリーメイソンのクリスティアン・ゴットフリート・ケルナーの求めに応じてドレスデンにあるフリーメイソンのロッジ「三振りの剣と緑のラウテ上のアストレア」の音楽付きの儀式のために1785年に詩を書いた。詩の内容は友情の絆により結束した平等な人々の社会というメイソンの理想を描写するものである。シラーの作品には自由思想と人間至上主義が見られる。

曲は勿論ベートーヴェンである。
彼はフリーメイソンが最も盛んだったボン大学で青春を過ごし、メイソン君主であるフリードリヒ2世の私生児とまでいわれた作曲家である。モーツァルトとハイドンは確実にフリーメイソンだったが、ベートーヴェンも作品を見る限りフリーメイソン的である。『フリーメイソン辞典』などではベートーヴェンをメイソンとしているし、セルビアのフリーメイソンリー本部(グランドロッジ)によると《歓喜の歌》を作曲したベートーヴェンはフリーメイソンであるという有力な証拠があるという。

歌詞 (抜粋)

歌えよ 一人の友だに持たば
さあらで寂しき 者は去るべし

ものみな歓喜(かんき)を 天より受けて
良し悪しへだてず 幸に輝く
酒あり 愛あり 真の友あり
虫さえ喜び 天使は空に

行け 行け 限りなき大空高く
あまたの太陽の 飛び交い馳せ行くごとく
いざ走れ 友よ
勝利に赴く英雄のごと
いざ走れ 友よ

フリーメイソンのキーワードは進歩的知識人、平等、自由、友愛、市民、理神論、太陽讃歌、光、自然科学などである。音楽面では変ホ長調とハ短調(フラット3つ)、グラスハーモニカ、ピアノ、クラリネットなどである。ベートーヴェンにはなぜかフラット3つの曲が多いのも頷ける。変ホ長調の《英雄》《皇帝》《告別》、ハ短調の《運命》《悲愴》《コリオラン序曲》など。

メイソン精神とは王権神授や君主やカトリック聖職者を否定する革命思想である。

ベルリンの壁が崩壊した後チェコで革命が起きたときも《歓喜の歌》が歌われた。革命には《歓喜の歌》がよく似合う。1989年12月14日、首都のプラハで革命を祝うための演奏会がヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって行われ、ここで歌われた《歓喜の歌》が東欧革命のテーマ曲となった。

日本でも毎年、年末になると《歓喜の歌》が歌われる。日本に革命を起こしたいのだろうかと思ってしまう。もっと日本古来の美しい心を歌った歌があるのではないだろうか。《歓喜の歌》に変わる何かもっと相応しい歌はないものだろうか。


メサイア

クリスマスが近くなると聞こえてくる《メサイア》はヘンデルの代表作である。
《メサイア》とは救世主という意味で、聖書のイザヤ書、詩編、ルカ福音書、マタイ福音書、ローマ信徒への手紙、コリント信徒への手紙、ヨハネの黙示録などの引用句を用いている。

全体は3部からなり、有名なハレルヤコーラスは《メサイア》の第2部の最後で歌われる力強い合唱である。
歌詞は「ハレルヤ、全能であり私たちの神である主が王となられた。この世の国はわれらの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。王の王、主の王」というもので、今では宗教曲としての不動の地位と人気を獲得している。

ところが当時は《メサイヤ》の上演に抗議する人たちもいたのである。
それは聖なる主題を、教会ではなく劇場で上演することに対する批判であった。
当時の劇場は、オペラ歌手たちが軽薄で空しい作品、異教的で放埓な作品を美声を競って歌う場所だったので、そのような場所で《メサイア》を上演することに反対の声が上がったのである。
そのために予約演奏会ではあえて曲目を《メサイア》と書かず、《宗教的オラトリオ》と書いて批難をかわす策がとられた。

劇場上演の反対派曰く
「宗教にまるで関心がなく、宗教を求めて教会に行く価値など無いと考えている人々が、劇場で宗教的な演奏に耳を傾けて敬虔な気持ちになるとは絶対に考えられない」

「軽はずみに神の名と言葉を用いるといったことは冒涜である。」

「畏れをもって主に仕えよ、畏敬をもって主を喜べと述べた詩編の作者の忠言にもとることは明らかである。」

「もし宗教の行為としてではなく、気晴らしか楽しみだけのために演奏されるのであれば、芝居小屋がそれを上演する神殿に応しいものかどうか、また演奏者の一団がはたして神の言葉の宣教者として応しいかどうかを問いたいと思います。」

しかし《メサイア》は反対派の批難をよそに大成功を納める。
上演賛成派曰く

「劇場は聖なる賛美に応しからずなどとつまらぬ議論を持ち出すことなかれ。清らかなる歌は音楽に新しい品位を与え、徳には畏敬をもたらし、そしてその場を聖別する。同じく、ハーモニーは天の力を得、しかして魂を天にまで高め、地獄を天国に変える」

尚、ハレルヤコーラスを起立して聴く習慣は、ロンドン初演時に、国王が起立したことに始まるとされている。
当時から《メサイア》の人気は非常に高く、何度も演奏されたが、真の初演はダブリンであったから、国王はロンドンにおける初演時に起立したのだろう。


ヘンデルは偶然にバッハと同じ年、1685年に生まれた。共にドイツ人であるが、この2人は全く対照的な人生を歩んだ。

ヘンデルはオペラ、コンサートで高い人気と名声を獲得する。イタリア、イギリスなど国際的な活躍をしてやがてイギリスに帰化する。彼の作る曲は常に当時の流行の先端を行く作風であり、また複雑で難解とされるバッハなどの曲と違ってアマチュアにも大いに親しまれた。

一方バッハは故郷から離れず、バッハ一族は強いネットワークで繋がり、仕事でも、私生活でも互いに助け合う。バッハは最新流行の「新しい音楽」には抵抗を示し、対位法を作り続ける。オペラを作らず、モノフォニー音楽に重きをおかず、次第に時代遅れの音楽家となる。晩年の大作《フーガの技法》《音楽の捧げもの》《ゴルトベルク変奏曲》などは音楽古来の法則をポリフォニーのうちに確立し、バッハの晩年の関心はポリフォニーの背後にある永遠不変の法則を体系的に探求することだった。従ってモノフォニー音楽の台頭著しい時代にあってはテレマンやヘンデルのような名声を得ることができなかった。

2人の生い立ちも全く違う。
ヘンデルの父は医者で息子を法律家にするべく大学の法学部に進学させるが、途中で父の反対を押し切って音楽に方向転換してしまう。
一方バッハは先祖代々音楽家の家系であり、ごく自然に18歳から教会のオルガニストとして働き始める。大学には行かなかった。

結婚と家庭生活においても2人は全く違った生涯だった。
ヘンデルは女性に興味なく、生涯独身を通した。子供も残さなかった。故郷も持たず、個人主義で根無し草的人生であったが、名声を得て贅沢な暮らしをすることができた。
一方バッハは故郷に根をはり、20人もの子供を作った。最初の妻は急死し、後妻を迎えたが、両方とも夫婦仲は円満だった。妻と子供を愛し、浮いた話一つなく懸命に働く人生だった。息子たちはバッハ一族の後を継いで音楽家になった。特にエマーニエル・バッハはハンブルクでテレマンの後継者になるほどの名声を得た。またクリスティアン・バッはバッハ一族では唯一のオペラ作曲家となりギリスでヘンデルの後継者になった。


やがてヘンデルもバッハも天国に召されるが、バッハの路線を継ぐ者はなくバッハは世間から忘れ去られる。
バッハの息子たちでさえ、父の真の偉大さを理解することができなかった。息子たちはヘンデル的な新しい音楽の方向に活路を見出していく。もし、バッハが人生の最後まで追及し続けた対位法芸術はバッハの死をもって終焉を迎える。
ここが、西洋音楽の分水嶺である。
西洋音楽の終焉に向かう第一歩がここにある。バッハの死から霊性との決別が始まった。

ト長調のメヌエットはバッハの作品に非ず

《ト長調のメヌエット》はピアノを習えば必ず一度は弾く親しみやすい小品である。「メヌエット」といえばバッハのト長調のあの有名なメロディーがまず思いうかぶ。

しかしこのメヌエットについては、バッハの真作ではなく、ペッツォルトの作品だということが判明した。
だが未だにバッハの作品としている出版譜が多い。また、ピアノの発表会等や you tube の演奏動画においても「バッハのメヌエット」となっていることが多く、バッハの作品のように誤解されたままだ。

Wikipediaで「メヌエット」を検索すると、その中に問題のメヌエットに言及しているところがある。次のように書かれている。
「バッハのメヌエットとして有名な曲だが、近年、ペツォールトによる作品と判明した」と。

真の作曲者であるペッツォルト(Petzold Christian 1677〜1733)はドイツの作曲家、オルガニストで、ドレスデンの聖ゾフィー教会に務めていた。バッハはペッツォルトが務める教会で1725年に演奏を行っている。
このドレスデン旅行から問題のメヌエットを持ち帰った可能性がたかい。

この研究は近年、シュルツェ(Schulze Hansjoachim 1934〜)によってもたらされた。シュルツェは『バッハ年鑑』や 『バッハ便覧』の編集者であり、バッハ研究の中心的存在である。シュルツェが問題のメヌエットの真の作曲者を特定した。

ではなぜ今日までバッハの作品であると誤解されてきたのか。
それを解くには《ト長調のメヌエット》が入っている《アンナ・マグダレーナの音楽帳》を調べねばならない。

バッハは再婚婚後間もなく、愛する妻、アンナ・マグダレーナに1冊の音楽帳をプレゼントする。
当時はまだ楽譜の印刷が一般的ではなかったので、バッハの手書きの音楽帳である。
音楽帳の表紙は草色の羊皮紙で覆われ、金文字で妻の頭文字が入っている。帯紐の断片から赤いリボンで結わえられていたようである。現在はベルリンの国立図書館が蔵している。

バッハは育ち盛りの子供たちを養育し、家事全般を受け持ち、その上に写譜の仕事まで手伝ってくれる新妻へ感謝のしるしに音楽帳を捧げたのである。
音楽帳といえば、他には、バッハが長男ウィルヘルム・フリーデマンに与えた音楽帳や、モーッアルトの父レオポルト・モーッアルトが子供たちに与えた音楽帳もある。

アンナマグダレーナは音楽帳を宝物のように大切にしながら、だんだんと自分自身の記入で満たしていった。
夫が妻に、また子供たちが母に音楽の贈り物を書き込み、贈られたアンナ・マグダレーナが自分の大好きな曲をそれに書き加えた。いわば音楽詩文集として愛蔵した、記念帳であり、日記帳であった。
彼女の楽譜集の生成過程は15年以上の期間にわたると推測される。

《アンナ・マグダレーナの音楽帳》は1722年と1725年の2冊存在する。
1722年版はおもににフランス組曲の初期稿とコラール編曲などである。バッハは妻にプレゼントした時点以降も書き込みを続けた、ついには彼の音楽帳のようになってしまった。それで2冊目の音楽帳をプレゼントせざるを得なくなったようである。

2冊目は1725年の音楽帳である。これにはまず最初にバッハ自身の手で《パルティータ》が書かれている。それ以降の部分はほとんどアンナ・マグダレーナや息子たちが写譜したものである。
複数の有名なメヌエットや教育用の作品は1725年版に含まれているが、実際にはほとんどのメヌエットやその他の小品がバッハの作品ではない。

ベーレンライター原典版では、バッハの真作はBMW で表し、それ以外はBWV anh という表示になっている。
BWVはバッハ作品目録、anhは付録、補遺の意。問題の《ト長調のメヌエット》はBWV anh 114 である。つまりバッハの真作とは言えない付録補遺である。

よく出回っている実用版の《アンナ・マグダレーナの音楽帳》には BWV anh 番号の付いてないものが多い。
実用版において、作曲者がはっきりしているものは J.S.バッハを始め、C.P.E.バッハ、クープラン、ベームなどと明記されているが、何も書かれてない曲も多数ある。
何も書かれてないということは、BWV anh である。
しかしz実用版の楽譜の表紙にはBWV anh 番号はんく、表紙には「バッハ」と大書されており、J.Sバッハの曲だと誤解される。

また中には紛らわしい前書きもある。例えば「これらほとんどの曲は彼自身の作品であるが、1725年のものには彼自身の作品のほかに、息子のC.P.E.バッハや、フランスの作曲家クープランの作品、それにオルガニストであったベームの作品なども加えられている」といったものである。これでは上記の3人以外は、すべてバッハの真作だと言っているようなものである。実際にはほとんどの小品がバッハの真作だという証拠がないのだ。

このような実用版の楽譜の普及によって、いつのまにかバッハ作曲の《ト長調のメヌエット》と誤解されるに至ったようである。

G線上のアリア

バッハといえば 《G線上のアリア》が有名である。しかしバッハ自身がこの題名をつけたわけではない。
また単独の小曲でもない。管弦楽組曲第3番 BWV 1068 の中の1曲である。序曲、エア(エール)、ガヴォット、ブーレー、ジーグの5曲から成る管弦楽組曲の第2曲目のエア(エール)だけを取り出して《G線上のアリア》として親しまれている。

 《G線上のアリア》はドイツの名ヴァイオリニスト、ヴィルヘルミ(August Emil Wilhelmi 1845~1908) が、エア(エール)をヴァイオリンとピアノ伴奏用に編曲したことて有名になった。1871年版の編曲の通称が《G線上のアリア》である。ヴァイオリンのG線だけで弾けるということから《G線上のアリア》という名前がついた。

この編曲で最も注目すべき点は、ハ長調に移調されていることである。バッハはこの曲をシャープ2個のニ長調で書いた。ニ長調というと元気なイメージを抱くかもしれないが、2曲目のエア(エール)はしっとりとした静かな曲想である。元気な二長調と真反対の性格とさえ言える。

ちなみに調性格論者が述べるニ長調の性格を上げると次のようなものがある。
シューバルトは勝利の喜び、ハレルヤ、戦勝の雄叫び、
マッテゾンは幾分鋭く頑固、騒動、陽気、好戦的、元気を鼓舞するようなもの、
シリングは魔法のように美しく魅力的な交響曲とマーチに似合う、
ユンカーは快活で最高に興奮した調整、
ヴォーグラーは派手な騒ぎ、騒音、戦闘の響き、
ミースは輝き、華麗なスウィング、
リューティーは祝典的壮麗さ、軍隊の果敢さ

いずれも《G線上のアリア》の静けさとは余りにかけ離れていないだろうか?
バッハの手にかかれば二長調でも、これほど静かな曲が作れるという証拠ともいえる。
同時にバッハが調に関係なく静かなエア(エール)=G線上のアリアを作曲し得ると考えた証拠である。

有名な調性格論者のマッテゾンは「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならどんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりする事はできないからである」と述べたが、バッハも同じように考えたのだろう。

ヴィルヘルミの編曲以来、この曲がハ長調で演奏され続け、愛され続けているという事実が雄弁に語っているもの、それは音楽の性格を決定づけるものは調ではないということである。原調の二長調で演奏しなければいけないと思うのは根拠のない思い込みである。何調で演奏しようと、バッハの原曲の曲想は壊れない、壊すことは不可能である。
なぜなら、曲想は調に支配されず、曲自体に支配されるからである。
調に対する無意味な潜入観念を棄てるのがイコール式であるが、《G線上のアリア》は見事なイコール式である。

日本は西洋音楽を2度輸入した

いわゆるクラシックと呼ばれる音楽はキリスト教から発生した西洋音楽であるが、日本はこれを2度輸入した。

1度目の輸入は1549年のキリスト教伝来である。宣教師のザビエルたちが日本で初めてミサを捧げ、西洋音楽を響かせた。1582年には天正少年使節の一行が日本を離れてヨーロッパを目指した。少年たちはすっとラテン語と西洋音楽を学んでいたし、ヨーロッパに向かう途中も学習を怠らなかった。ポルトガルに着くと、少年たちは大聖堂のミサに参加した。伊藤マンショと千々石ミゲルは、初めて見た3段式の鍵盤があるオルガンを多くの人の前で臆することなく弾いた。上手に弾いたので大司教も人々も満足した。
マショー、デュファイ、ジョスカン・デプレ、カベソン、アルカーデルト、バード、ラッソ、パレストリーナ、スウェーリンク、ダウランド、モンテヴェルディ、プレトーリウス、フレスコバルディ、ギボンズ、シュッツ、シャイトなどの曲は、単純に時代から考えて日本人が知りえただろう。1591年には豊臣秀吉の前でジョスカン・デ・プレの曲が演奏されたという記録がある。器用な日本人が一生懸命に西洋音楽をマスターしようとしていたとき、残念なことに江戸幕府は1639年に鎖国してしまう。鎖国だけではなく、禁教令によって西洋音楽は完全に消えてしまう。バッハは1685年生まれ、鎖国から46年後にドイツに生まれた作曲家である。その後のモーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、なども日本が鎖国をしている間に生まれ、死んでいった作曲家たちである。

2度目の輸入は明治維新である。
その間の約300年は空白の期間である。1度目に受容した西洋音楽は,隠れキリシタンが密かにオラショを歌っていたものの、いわゆるクラシックといわれる西洋音楽は壊滅状態だった。時代は能や歌舞伎の音楽の全盛期だった。そこへいきなりクラシックが入ってきたのであるから、右も左も分からない状態でやみくもに受容せざるを得なかった。

明治も中頃になって、伊藤博文はアジアで始めての憲法を作るべく、視察のためにドイツに行った。その時、晩年のリストのピアノ演奏を生で聴いた。伊藤は感激してリストを日本に招こうとしたが実現しなかったと言う。ちなみに伊藤は1841年生まれでドヴォルジャークと丁度同い年であり、勿論リストより若い。

鎖国の300年間に、西洋で活躍した音楽家、すなわち ヴィヴァルディー、テーレマン、ラモー、バッハ、ヘンデル、スカルラッティ、グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、ロッシーニ、シューベルト、ベルリオーズ、ショパン、シューマンなど、いわゆるクラシックといわれる作曲家たちは、伊藤が渡欧したときには既にこの世になかった。
晩年のリスト、ヴェルディ、フランク、ヴァーグナー、ブラームスなどがまだ生きていたが、時代は次に移ろうとしていたときに、伊藤博文は渡欧したのである。

伊藤の憲法視察と相前後して明治政府は西洋音楽の受容に取り組む。
信濃国の下級武士の子である、伊沢修二を音楽取調掛(のちの東京芸大)に任命して、文字どおり音楽を取り調べるという取り組み方である。
伊沢は大学南校(のちの東大)に学んだ秀才であった。文部省に入り、愛知師範学校長になった。当時は未だ誰も西洋音楽を知らなかったので、誰を選んでも良かったのかもしらぬが、伊沢は邦楽の素養があったとも聞かない。伊沢は師範学校の教育調査のためにアメリカに渡り、ついでにメーソンから唱歌の指導を受けた。その縁で、帰国後、伊沢は、メーソンを日本に招く。伊沢は「小学校唱歌」の編纂をするためにメーソンを招いたのである。2回目の西洋音楽の輸入先はアメリカであった。メーソンはついでに小学校の教師養成のためのピアノ入門書をもってきた。有名なバイエルである。日本人はバイエルを世界的なピアノ入門書と信じて受容したが、本場ヨーロッパではマイナーというよりも誰も知らない教則本である。メーソンはヨーロッパの伝統的な音楽家ではなく、アメリカの、しかも初等音楽の教育者であるから多くは望むべくもない。日本における2度目の西洋音楽の輸入が、メーソンでなく、ヨーロッパの本格的な音楽家であったら、日本の音楽事情は多少変わっていたかもしれないと思う。

バッハの《平均律クラヴィーア曲集》という題名も西洋音楽受容の混乱がもたらした産物である。これは明らかな誤訳である。バッハはこの曲集の題名としてドイツ語で「Das Wohltemperierte clavier」と書いた。直訳すると「上手く調律されたクラヴィーア曲集」となるはずだ。clavier(クラヴィーア)とは鍵盤楽器全般を意味する言葉であってここでは問わない、重要なのは「Wohletemperierte」という語である。これはWohle と temperierte の合成語で、temperierte は調律、音律という意味である。 Wohle をどう訳すかが問題である。ドイツ語で Wohleは「良い、上手い」といった意味になる。決して「平均律」ではない。
バッハはヴェルクマイスター(Andreas Werckmeister 1645〜 1706) が
書いた Wohle temperiert stimmen (適度に調整して調律する) という表現にならって Wohle temperierte と書いたのだろう。
もしバッハが「平均律」ということを意味したいなら 「greich schuweven(等しく唸る)」としたはずだ。

《平均律クラヴィーア曲集》は鍵盤作品の金字塔である。世界中で出版されているが、英語では well (良い)、仏語では bien(良い)と翻訳されている。
日本語だけが勝手に「良い」を「平均律」と誤訳した。それには鎖国の影響で、平均律時代になってからの鍵盤楽器しか知らないという事情があった。バッハの時代やそれ以前も以後も、ヨーロッパではミーントーンやキルンベルガー音律の鍵盤楽器が主流であったことを知らなかった。またそういった音律に関する深い問題があることも知らなかった。明治になって日本に鍵盤楽器が入ってきたとき、世界の鍵盤楽器は既に平均律に移行していた。だから短絡的に「平均律」だと思い込んだのだろう。この思い込みが現在も尾を引いており、未だに《平均律クラヴィーア曲集》と呼んでいる。今ではこれが誤訳であることを知る人も多くなってきたが、慣れ親しんだ誤訳を他の言葉に置き換えることにい抵抗があるのかもしれない。とにもかくにも《平均律クラヴィーア曲集》というのは理解しがたく、奇異な題名である。

移調と移高

カラオケなどで歌い易い高さに音を変える場合、「キーを上げる」、あるいは「キーを下げる」という。
キーを上げ下げしても音楽そのものに変化は起こらない。音の高さが変わるだけである。単なる音の移高である。
しかし、この音の移高が一旦、楽譜にとして書かれると、調号に変化が起こり、移調と呼ばれる。
単なる移高なのに、譜面がガラリと変わってしまうことで、元の調の趣きがガラリと変わったかのように思う。新たな調号に新たな趣きが生まれたかのような誤解を生じる。
その結果、移調すると異なる性格になると主張する人もいるほどだ。

再度確認しておきたいが、12平均律においては、移調による性格の変化は無い。12平均律は半音の幅がすべて等しいので、どの調も同じである。勿論、調性格の違いなどは存在しない。
不等分音律の場合は調ごとに多少の響きの違いがあるが、普遍的な調性格など存在しない。なぜなら、不等分音律の種類は無数にあるので、ある調性格が、どの音律に基づいているのか判然としないからである。ましてやある調の調性格というのは調性格論者によってさまざまである。ある調について真反対の調性格を述べる調性格論者も多々いるのである。」

調性格論者として最も有名なマッテゾンは次のように結論している。「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならどんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりする事はできないからである」
この言葉はマッテゾン自身が述べた調性格を、自分で否定しているにも等しいではないか。

現在の私達が、調性格を感じ、それを普遍のものと信じるのは、長年の思い込みから生じているわけだが、その原因は教会旋法の認識不足からも起こり易い。
教会旋法も近代長短j調も、任意の音から音階を始めることができる。たとえばドリア旋法はどの音を終止音にするかによって譜面の調号が違う。しかしこれをドリア旋法の移調とは言わない。高さを変えるのだから文字通理り、ドリア旋法の移高と言う。

音楽の性格が変わるのは移高によってではない。移旋によって性格が変化するのである。移旋とは旋法が変わることである。旋法が変われば音階構造が変わる。音階構造が変われば性格が変わる。例えば、ドリア旋法をフリギア旋法に移旋すれば音階構造が変わり、音楽の性格が変わる。ただし、音階開始音には影響されない。ドリア旋法の壮重な性格は、フリギアの悲しい性格に変わるのである。

参考までにブットシュテットによる教会旋法の性格づけを以下に記載する。
          イオニア旋法・・・・・・活発、陽気、楽しげ
          ドリア旋法・・・・・・活発、喜ばしい、そして壮重
          フリギア旋法・・・・全く悲しい、愛らしく快適
          リディア旋法・・・・・威嚇的
          ミクソリディア旋法・・まじめ
          エオリア旋法・・・・・・快適、愛らしい
          

教会旋法の中のイオニア旋法は長調と同じであり、その性格は活発、陽気、楽しげとなっている。一方、短調はエオリア旋法と同じであり、その性格は快適、愛らしいとなる。
このように長調も短調も旋法の一つであるから、長調を短調に移旋すれば音階構造が変わる。音階構造が変われば性格が変わる。ただし音階開始音には影響されrない。音階構造が変われば長調の明るい性格は短調の淋しい性格に変わる。音階開始音によって性格が変わるのではないということは、ハ長調やニ長調といった音階開始音の変化には影響を受けないということである。長調を短調に移旋しない限り性格は不変である。移高あるいは別の言い方で移調だけでは音楽の性格は変わらない。あくまで移旋によって音楽の性格が変わるのである。

現在、よく話題になる調性格は、長調の中にも短調の中にも、それぞれ12の調性格があると言わんばかりであるが、これらの調性格は恣意的であると同時に、おとぎ話と言わざるを得ないのである。
バッハが《平均律クラヴィーア曲集》において、難しい調をハ長調などの簡単な調から移調して曲集の中に組み込んだことを考えれば、なおさら調性格の確立は困難と言わざるを得ない。


      
バッハ定例会
第1日曜日 15:00 PM
第2金曜日 10:00 AM
第4土曜日 10:00 AM

富田庸講演会&公開レッスン
講演会:2017年9月9日 午後2時
公開レッスン:9月10日午前10時
場所:山口大学
大学会館1階大ホール
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<プロフィール>
鍵盤楽器の
新しい記譜法
「イコール式」を提唱

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取った。爾来バッハの鍵盤作品の
とりこになった。

延べ400人の生徒のレッスンを通して、バッハのフーガを弾くことが音楽力を向上させる最も有効な手段であることを再認識した。
移調によって難易度を下げることで、ピアノの初心者も《平均律クラヴィーア曲集》に親しむことができる。

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも調性格の恣意性を指摘しています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の元調にこだわる必要は無くなります。簡単な調に移調して、まず親しむ方が大切なことです。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。
橋本絹代 著  『やわらかなバッハ』 春秋社
橋本絹代 編著 《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》


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音楽の構造が良く解る










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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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