やわらかなバッハの会

先入観念にとらわれることなく、自由にバッハの音楽を楽しむ会です。
イコール式音楽研究所

永遠不滅の響き

バッハの没後、彼の音楽は時代から取り残され埋もれてしまった。しかしバッハの音楽の真価を世に先んじて示した人がいた。フォルケル(Johann Nikolaus Forkel 1749〜1818)という音楽学者、ゲッティンゲン大学の音楽監督を務め、ドイツ音楽史の最も重要な存在の一人である。彼は1802年に『バッハの生涯 芸術および作品について』を書き、バッハの真価を世に問うた。メンデルスゾーンのバッハ蘇演よりも27年も前に書いたのである。

フォルケルは言う。
「音楽家が偉大なものを求めずして小なるものや目先の快楽を求めるのは、ギリシャやローマの古典を知らないことに等しい」と。
また「バッハの作品を研究した者には、つまらない音楽と本当の音楽との区別が明らかになる」とも述べた。

フォルケルがこのように述べた1802年とはどのような時代であったか、「つまらない音楽」とは何を指すのか。
1802年といえば、バッハはとうの昔に亡く、バッハの息子たちも全員亡くなり、バッハの孫のエルンストが43歳である。

バッハが生きた時代はオペラが流行の先端を行く花形となってきたときである。そこでは独唱者と簡単な伴奏、つまりメロディーと3和音による和声音楽が主流となる。これが楽器の世界においても主流となり、軽快でわかりやすく耳に快い和声音楽にすべての音楽家が魂を売ってしまう。彼らはこれを「新しい音楽」と呼んでわれもわれもと夢中になっていく。
しかしバッハ一人だけは流行の和声的な「新しい音楽」に満足できなかった。バッハが晩年に作曲した《フーガの技法》や《音楽の捧げ物》などは対位法芸術の金字塔である。時代を超越し世俗と隔絶した究極の対位法芸術である。バッハは人生の終わり近くに断固として対位法音楽を書くが、これは時代の潮流である「新しい音楽」に警告を発する遺言である。当時の作曲家の誰一人としてバッハの遺言に耳をかたむける者はいなかったが。

バッハの没後50年あまり経った時、ようやくバッハの真価を認める人たちが出てきた。フォルケルが崇高な芸術を世の忘却から救うべく、人々にバッハへの注意を喚起せしめた功績はきわめて大きい。フォルケルこそがバッハ復興の原動力である。フォルケルの功績がなければメンデスルゾーンの《マタイ受難曲》の復活上演もなかっただろう。復活上演の大成功によってバッハ100年忌にはバッハ協会が設立される。
バッハ協会は50年という長期計画でバッハの全作品の出版を計画し、『旧バッハ全集』が完成する。
『旧バッハ全集』を基にバッハの音楽を演奏によって一般社会に広めようと毎年「バッハ祭」が開催される。
『「バッハ年鑑』も刊行され、バッハの音楽の普及と研究がいよいよ盛んになる。
バッハ200年忌には全作品の厳密な資料批判に基づく『新バッハ全集』の刊行プロジェクトが始まる。ドイツは国家的大事業としてこれに取組み、50年以上の歳月をかけて2007年にようやく最終巻が刊行される。こうしてバッハの芸術は学問的にも充実する。古楽の発達によって演奏実践においても大きな収穫を得ることになる。

我々は今バッハの真価を知っている。バッハが否定した和声音楽の崩壊を既に見た。新しい音楽の終着駅は音楽の終焉だった。音楽は宇宙を貫く生命、宇宙を貫く法則であった。
「それ見たことか」というバッハの声が聞こえる。今こそバッハに帰ろう、父の家に帰ろう。バッハはきっと放蕩息子を暖かく迎えてくれるだろう。

なぜ「ドレミ」というのか

最初に「ドレミ」を発明したのは、ベネディクト会修道院の修道士、グィード・ダレッツィオ(995〜1050?)である。イタリアの音楽理論家であり 『ミクロロゴス』 という世界最古の音楽理論書を残している。
また彼は、デオバルド司教のもとで大聖堂の少年聖歌隊の指導にも当たった。少年達にグレゴリオ聖歌を効率よく教えるには、従来のやり方の口伝では不十分だと彼は考えた。それで彼は少年達がグレゴリオ聖歌を容易に習得できるように、音感訓練の方法と新しい記譜法を開発した。それが「ドレミ」である。

彼は各節の出始めの音が音階を順に上昇する歌をグレゴリオ聖歌の中から探し、《聖ヨハネの讃歌》を選び出した。
「汝のしもべが、弦をかきなでて、汝の妙なるわざをたたえ得るように、この穢れある唇の罪をのぞかせたまえ、聖ヨハネよ」 と、6月25日の「聖ヨハネの日」に歌われるグレゴリオ聖歌である。
旋律は各節の出始めの音が音階を順に上昇していく。

《聖ヨハネの讃歌》を原語で示すと以下のようになる。
utqueant laxis
resonare fibris
mira gestorum
famuli tuorum
solve polluti
labii reatum, sancte johannes

各節の出始めの音が順に上昇していく旋律なので、各節の出始めの音、すなわち 「Ut Re Mi Fa Sol La」 と、音が順に上がっていく。
この「ウト、レ、ミ、ファ、ソ、ラ 」 と 順に上がっていく音が今日の「「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ」と上昇する音階の起源となった。

最初の「ウト」は発音しにくいので後に「ド」と改められた。「ド」になったのはバッハの時代より後である。バッハは「ウト」と歌った。
また「ドレミファソラ」の次の「シ」がないのは何かおかしいと思われるだろう。
音階に「シ」がないのはヘクサコード(6音音階)だったからである。今日の「シ」は後になって加えられたものだ。「シ」が加わって7音音階となったのが今日我々の言う「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、」である。バッハの時代のソルミゼーションはまだ6音音階だった。6音音階は今日我々の言う長調と短調の音階ではなく旋法である。

バッハといえば《平均律クラヴィーア曲集》であるが、第1巻の有名な前書きを読むとバッハの時代のソルミゼーションが明らかになる。この前書きはバッハの自筆によるものである。
「平均律クラヴィーア曲集、すなわち長3度 Ut Re Mi に関して、あるいは短3度 Re MI Fa に該当するすべての全音と半音(白鍵と黒鍵)によるプレリュードとフーガ」 と書かれている。

バッハの言う長3度とは長調、短3度とは短調のことである。
長3度が 「Ut Re Mi ウト レ ミ」 と書かれている。バッハの時代は「ド レ ミ」 ではなく 「ウト レ ミ」と言っていたことが明らかになる。
また短3度が「Re Mi Fa レ ミ ファ」 と書かれている。今日の短調なら「ラ シ ド」と書くべきところである。
バッハの時代のソルミゼーションは6音音階だったので「シ」とは書けない。だから「ラ シ ド 」ではなく 「レ ミ ファ 」と書いたのである。6音音階は旋法を意味している。

バッハの前書きから明らかなように 《平均律クラヴィーア曲集》 は、旋法から近代長短調確立へのちょうど過渡期に成立したと考えることができる。
また《平均律クラヴィーア曲集》は近代長短調における24の調ではなく、長旋法と短旋法の24の移旋として成立したという側面も忘れてはならないだろう。

《歓喜の歌》からの脱却

年末になるとベートーヴェンの第九《歓喜の歌》が聞こえてくる。
1980年代に入った頃から特に盛んになり、年末の第九ブームが定着してきたようである。

日本におけるこの現象は1972年に欧州の歌として《歓喜の歌》が採択決定され公式に発表されたことと関係がありそうである。
ヨーロッパのシンボルとなる欧州の歌がベートーヴェンの《歓喜の歌》に決定された理由は何だろうか。
その鍵を握る人物は《歓喜の歌》を最初に提案したリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(1894〜1972)である。

名前から察しがつくように彼はハーフである。父はオーストリア=ハンガリー帝国駐日特命全権大使のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、母はハインリヒの大使公邸の女中頭だった日本女性、青山みつ(クーデンホーフ=カレルギー・光子)。父ハインリヒが在日中に、みつ(旧名)と出会い日本で結婚(みつは日本国籍を喪失し、夫と同じカトリックに改宗した)。日本で最初の国際結婚である。光子の父は憤慨して光子を勘当した。カレルギー家も東洋人との結婚を反対した。

栄次郎はクーデンホーフ=カレルギー夫妻の7人の子の次男として1894年に東京で生まれる。一家は栄次郎が2歳のときに日本を離れ、父親の故郷オーストリア=ハンガリー帝国に移り住んだ。

栄次郎はウィーン大学で哲学博士号を取得する。そして、欧州連合構想の先駆けになった「汎ヨーロッパ論」を提唱する。
「汎ヨーロッパ論」とは第一次大戦の影響から欧州が衰退するのを克服するために、小国に分かれて覇権を競う欧州の状況を打開し、アメリカのような欧州合衆国の設立を目指すべきだと呼びかけるものである。それまでは理念先行だった欧州統合論を政治運動に昇華させたのは彼である。自らの提案を出版するとともに、汎ヨーロッパ連合を設立し、各国にも汎ヨーロッパ協会を設けた。ために彼は「EUの父」と呼ばれている。

彼の経歴を簡単に述べたが、最も大事な経歴はこれからだ。彼は19歳の学生であったとき、親の反対を押し切って33歳の女優と結婚した。そして28歳の時にフリーメイソンに加入したのである。彼はグランド・オリエント・ロッジの高位階級のフリーメイソン会員であった。彼が汎ヨーロッパ運動を開始するとヨーロッパ各地のフリーメイソンリーが彼の運動を支援した。
こうしたフリーメイソンとの深い関係のなかで、彼は自らのメイソン精神をかけてベートーヴェンの《歓喜の歌》を欧州のシンボルに定めた。なぜなら《歓喜の歌》はまぎれもないメイソン讃歌だからである。

「歓喜の歌」はシラーの詩である。シラーはフリーメイソンのクリスティアン・ゴットフリート・ケルナーの求めに応じてドレスデンにあるフリーメイソンのロッジ「三振りの剣と緑のラウテ上のアストレア」の音楽付きの儀式のために1785年に詩を書いた。詩の内容は友情の絆により結束した平等な人々の社会というメイソンの理想を描写するものである。シラーの作品には自由思想と人間至上主義が見られる。

曲は勿論ベートーヴェンである。
彼はフリーメイソンが最も盛んだったボン大学で青春を過ごし、メイソン君主であるフリードリヒ2世の私生児とまでいわれた作曲家である。モーツァルトとハイドンは確実にフリーメイソンだったが、ベートーヴェンも作品を見る限りフリーメイソン的である。『フリーメイソン辞典』などではベートーヴェンをメイソンとしているし、セルビアのフリーメイソンリー本部(グランドロッジ)によると《歓喜の歌》を作曲したベートーヴェンはフリーメイソンであるという有力な証拠があるという。

歌詞 (抜粋)

歌えよ 一人の友だに持たば
さあらで寂しき 者は去るべし

ものみな歓喜(かんき)を 天より受けて
良し悪しへだてず 幸に輝く
酒あり 愛あり 真の友あり
虫さえ喜び 天使は空に

行け 行け 限りなき大空高く
あまたの太陽の 飛び交い馳せ行くごとく
いざ走れ 友よ
勝利に赴く英雄のごと
いざ走れ 友よ

フリーメイソンのキーワードは進歩的知識人、平等、自由、友愛、市民、理神論、太陽讃歌、光、自然科学などである。音楽面では変ホ長調とハ短調(フラット3つ)、グラスハーモニカ、ピアノ、クラリネットなどである。ベートーヴェンにはなぜかフラット3つの曲が多いのも頷ける。変ホ長調の《英雄》《皇帝》《告別》、ハ短調の《運命》《悲愴》《コリオラン序曲》など。

メイソン精神とは王権神授や君主やカトリック聖職者を否定する革命思想である。

ベルリンの壁が崩壊した後チェコで革命が起きたときも《歓喜の歌》が歌われた。革命には《歓喜の歌》がよく似合う。1989年12月14日、首都のプラハで革命を祝うための演奏会がヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって行われ、ここで歌われた《歓喜の歌》が東欧革命のテーマ曲となった。

日本でも毎年、年末になると《歓喜の歌》が歌われる。日本に革命を起こしたいのだろうかと思ってしまう。もっと日本古来の美しい心を歌った歌があるのではないだろうか。《歓喜の歌》に変わる何かもっと相応しい歌はないものだろうか。


メサイア

クリスマスが近くなると聞こえてくる《メサイア》はヘンデルの代表作である。
《メサイア》とは救世主という意味で、聖書のイザヤ書、詩編、ルカ福音書、マタイ福音書、ローマ信徒への手紙、コリント信徒への手紙、ヨハネの黙示録などの引用句を用いている。

全体は3部からなり、有名なハレルヤコーラスは《メサイア》の第2部の最後で歌われる力強い合唱である。
歌詞は「ハレルヤ、全能であり私たちの神である主が王となられた。この世の国はわれらの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。王の王、主の王」というもので、今では宗教曲としての不動の地位と人気を獲得している。

ところが当時は《メサイヤ》の上演に抗議する人たちもいたのである。
それは聖なる主題を、教会ではなく劇場で上演することに対する批判であった。
当時の劇場は、オペラ歌手たちが軽薄で空しい作品、異教的で放埓な作品を美声を競って歌う場所だったので、そのような場所で《メサイア》を上演することに反対の声が上がったのである。
そのために予約演奏会ではあえて曲目を《メサイア》と書かず、《宗教的オラトリオ》と書いて批難をかわす策がとられた。

劇場上演の反対派曰く
「宗教にまるで関心がなく、宗教を求めて教会に行く価値など無いと考えている人々が、劇場で宗教的な演奏に耳を傾けて敬虔な気持ちになるとは絶対に考えられない」

「軽はずみに神の名と言葉を用いるといったことは冒涜である。」

「畏れをもって主に仕えよ、畏敬をもって主を喜べと述べた詩編の作者の忠言にもとることは明らかである。」

「もし宗教の行為としてではなく、気晴らしか楽しみだけのために演奏されるのであれば、芝居小屋がそれを上演する神殿に応しいものかどうか、また演奏者の一団がはたして神の言葉の宣教者として応しいかどうかを問いたいと思います。」

しかし《メサイア》は反対派の批難をよそに大成功を納める。
上演賛成派曰く

「劇場は聖なる賛美に応しからずなどとつまらぬ議論を持ち出すことなかれ。清らかなる歌は音楽に新しい品位を与え、徳には畏敬をもたらし、そしてその場を聖別する。同じく、ハーモニーは天の力を得、しかして魂を天にまで高め、地獄を天国に変える」

尚、ハレルヤコーラスを起立して聴く習慣は、ロンドン初演時に、国王が起立したことに始まるとされている。
当時から《メサイア》の人気は非常に高く、何度も演奏されたが、真の初演はダブリンであったから、国王はロンドンにおける初演時に起立したのだろう。


ヘンデルは偶然にバッハと同じ年、1685年に生まれた。共にドイツ人であるが、この2人は全く対照的な人生を歩んだ。

ヘンデルはオペラ、コンサートで高い人気と名声を獲得する。イタリア、イギリスなど国際的な活躍をしてやがてイギリスに帰化する。彼の作る曲は常に当時の流行の先端を行く作風であり、また複雑で難解とされるバッハなどの曲と違ってアマチュアにも大いに親しまれた。

一方バッハは故郷から離れず、バッハ一族は強いネットワークで繋がり、仕事でも、私生活でも互いに助け合う。バッハは最新流行の「新しい音楽」には抵抗を示し、対位法を作り続ける。オペラを作らず、モノフォニー音楽に重きをおかず、次第に時代遅れの音楽家となる。晩年の大作《フーガの技法》《音楽の捧げもの》《ゴルトベルク変奏曲》などは音楽古来の法則をポリフォニーのうちに確立し、バッハの晩年の関心はポリフォニーの背後にある永遠不変の法則を体系的に探求することだった。従ってモノフォニー音楽の台頭著しい時代にあってはテレマンやヘンデルのような名声を得ることができなかった。

2人の生い立ちも全く違う。
ヘンデルの父は医者で息子を法律家にするべく大学の法学部に進学させるが、途中で父の反対を押し切って音楽に方向転換してしまう。
一方バッハは先祖代々音楽家の家系であり、ごく自然に18歳から教会のオルガニストとして働き始める。大学には行かなかった。

結婚と家庭生活においても2人は全く違った生涯だった。
ヘンデルは女性に興味なく、生涯独身を通した。子供も残さなかった。故郷も持たず、個人主義で根無し草的人生であったが、名声を得て贅沢な暮らしをすることができた。
一方バッハは故郷に根をはり、20人もの子供を作った。最初の妻は急死し、後妻を迎えたが、両方とも夫婦仲は円満だった。妻と子供を愛し、浮いた話一つなく懸命に働く人生だった。息子たちはバッハ一族の後を継いで音楽家になった。特にエマーニエル・バッハはハンブルクでテレマンの後継者になるほどの名声を得た。またクリスティアン・バッはバッハ一族では唯一のオペラ作曲家となりギリスでヘンデルの後継者になった。


やがてヘンデルもバッハも天国に召されるが、バッハの路線を継ぐ者はなくバッハは世間から忘れ去られる。
バッハの息子たちでさえ、父の真の偉大さを理解することができなかった。息子たちはヘンデル的な新しい音楽の方向に活路を見出していく。もし、バッハが人生の最後まで追及し続けた対位法芸術はバッハの死をもって終焉を迎える。
ここが、西洋音楽の分水嶺である。
西洋音楽の終焉に向かう第一歩がここにある。バッハの死から霊性との決別が始まった。

ト長調のメヌエットはバッハの作品に非ず

《ト長調のメヌエット》はピアノを習えば必ず一度は弾く親しみやすい小品である。「メヌエット」といえばバッハのト長調のあの有名なメロディーがまず思いうかぶ。

しかしこのメヌエットについては、バッハの真作ではなく、ペッツォルトの作品だということが判明した。
だが未だにバッハの作品としている出版譜が多い。また、ピアノの発表会等や you tube の演奏動画においても「バッハのメヌエット」となっていることが多く、バッハの作品のように誤解されたままだ。

Wikipediaで「メヌエット」を検索すると、その中に問題のメヌエットに言及しているところがある。次のように書かれている。
「バッハのメヌエットとして有名な曲だが、近年、ペツォールトによる作品と判明した」と。

真の作曲者であるペッツォルト(Petzold Christian 1677〜1733)はドイツの作曲家、オルガニストで、ドレスデンの聖ゾフィー教会に務めていた。バッハはペッツォルトが務める教会で1725年に演奏を行っている。
このドレスデン旅行から問題のメヌエットを持ち帰った可能性がたかい。

この研究は近年、シュルツェ(Schulze Hansjoachim 1934〜)によってもたらされた。シュルツェは『バッハ年鑑』や 『バッハ便覧』の編集者であり、バッハ研究の中心的存在である。シュルツェが問題のメヌエットの真の作曲者を特定した。

ではなぜ今日までバッハの作品であると誤解されてきたのか。
それを解くには《ト長調のメヌエット》が入っている《アンナ・マグダレーナの音楽帳》を調べねばならない。

バッハは再婚婚後間もなく、愛する妻、アンナ・マグダレーナに1冊の音楽帳をプレゼントする。
当時はまだ楽譜の印刷が一般的ではなかったので、バッハの手書きの音楽帳である。
音楽帳の表紙は草色の羊皮紙で覆われ、金文字で妻の頭文字が入っている。帯紐の断片から赤いリボンで結わえられていたようである。現在はベルリンの国立図書館が蔵している。

バッハは育ち盛りの子供たちを養育し、家事全般を受け持ち、その上に写譜の仕事まで手伝ってくれる新妻へ感謝のしるしに音楽帳を捧げたのである。
音楽帳といえば、他には、バッハが長男ウィルヘルム・フリーデマンに与えた音楽帳や、モーッアルトの父レオポルト・モーッアルトが子供たちに与えた音楽帳もある。

アンナマグダレーナは音楽帳を宝物のように大切にしながら、だんだんと自分自身の記入で満たしていった。
夫が妻に、また子供たちが母に音楽の贈り物を書き込み、贈られたアンナ・マグダレーナが自分の大好きな曲をそれに書き加えた。いわば音楽詩文集として愛蔵した、記念帳であり、日記帳であった。
彼女の楽譜集の生成過程は15年以上の期間にわたると推測される。

《アンナ・マグダレーナの音楽帳》は1722年と1725年の2冊存在する。
1722年版はおもににフランス組曲の初期稿とコラール編曲などである。バッハは妻にプレゼントした時点以降も書き込みを続けた、ついには彼の音楽帳のようになってしまった。それで2冊目の音楽帳をプレゼントせざるを得なくなったようである。

2冊目は1725年の音楽帳である。これにはまず最初にバッハ自身の手で《パルティータ》が書かれている。それ以降の部分はほとんどアンナ・マグダレーナや息子たちが写譜したものである。
複数の有名なメヌエットや教育用の作品は1725年版に含まれているが、実際にはほとんどのメヌエットやその他の小品がバッハの作品ではない。

ベーレンライター原典版では、バッハの真作はBMW で表し、それ以外はBWV anh という表示になっている。
BWVはバッハ作品目録、anhは付録、補遺の意。問題の《ト長調のメヌエット》はBWV anh 114 である。つまりバッハの真作とは言えない付録補遺である。

よく出回っている実用版の《アンナ・マグダレーナの音楽帳》には BWV anh 番号の付いてないものが多い。
実用版において、作曲者がはっきりしているものは J.S.バッハを始め、C.P.E.バッハ、クープラン、ベームなどと明記されているが、何も書かれてない曲も多数ある。
何も書かれてないということは、BWV anh である。
しかしz実用版の楽譜の表紙にはBWV anh 番号はんく、表紙には「バッハ」と大書されており、J.Sバッハの曲だと誤解される。

また中には紛らわしい前書きもある。例えば「これらほとんどの曲は彼自身の作品であるが、1725年のものには彼自身の作品のほかに、息子のC.P.E.バッハや、フランスの作曲家クープランの作品、それにオルガニストであったベームの作品なども加えられている」といったものである。これでは上記の3人以外は、すべてバッハの真作だと言っているようなものである。実際にはほとんどの小品がバッハの真作だという証拠がないのだ。

このような実用版の楽譜の普及によって、いつのまにかバッハ作曲の《ト長調のメヌエット》と誤解されるに至ったようである。

G線上のアリア

バッハといえば 《G線上のアリア》が有名である。しかしバッハ自身がこの題名をつけたわけではない。
また単独の小曲でもない。管弦楽組曲第3番 BWV 1068 の中の1曲である。序曲、エア(エール)、ガヴォット、ブーレー、ジーグの5曲から成る管弦楽組曲の第2曲目のエア(エール)だけを取り出して《G線上のアリア》として親しまれている。

 《G線上のアリア》はドイツの名ヴァイオリニスト、ヴィルヘルミ(August Emil Wilhelmi 1845~1908) が、エア(エール)をヴァイオリンとピアノ伴奏用に編曲したことて有名になった。1871年版の編曲の通称が《G線上のアリア》である。ヴァイオリンのG線だけで弾けるということから《G線上のアリア》という名前がついた。

この編曲で最も注目すべき点は、ハ長調に移調されていることである。バッハはこの曲をシャープ2個のニ長調で書いた。ニ長調というと元気なイメージを抱くかもしれないが、2曲目のエア(エール)はしっとりとした静かな曲想である。元気な二長調と真反対の性格とさえ言える。

ちなみに調性格論者が述べるニ長調の性格を上げると次のようなものがある。
シューバルトは勝利の喜び、ハレルヤ、戦勝の雄叫び、
マッテゾンは幾分鋭く頑固、騒動、陽気、好戦的、元気を鼓舞するようなもの、
シリングは魔法のように美しく魅力的な交響曲とマーチに似合う、
ユンカーは快活で最高に興奮した調整、
ヴォーグラーは派手な騒ぎ、騒音、戦闘の響き、
ミースは輝き、華麗なスウィング、
リューティーは祝典的壮麗さ、軍隊の果敢さ

いずれも《G線上のアリア》の静けさとは余りにかけ離れていないだろうか?
バッハの手にかかれば二長調でも、これほど静かな曲が作れるという証拠ともいえる。
同時にバッハが調に関係なく静かなエア(エール)=G線上のアリアを作曲し得ると考えた証拠である。

有名な調性格論者のマッテゾンは「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならどんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりする事はできないからである」と述べたが、バッハも同じように考えたのだろう。

ヴィルヘルミの編曲以来、この曲がハ長調で演奏され続け、愛され続けているという事実が雄弁に語っているもの、それは音楽の性格を決定づけるものは調ではないということである。原調の二長調で演奏しなければいけないと思うのは根拠のない思い込みである。何調で演奏しようと、バッハの原曲の曲想は壊れない、壊すことは不可能である。
なぜなら、曲想は調に支配されず、曲自体に支配されるからである。
調に対する無意味な潜入観念を棄てるのがイコール式であるが、《G線上のアリア》は見事なイコール式である。

日本は西洋音楽を2度輸入した

いわゆるクラシックと呼ばれる音楽はキリスト教から発生した西洋音楽であるが、日本はこれを2度輸入した。

1度目の輸入は1549年のキリスト教伝来である。宣教師のザビエルたちが日本で初めてミサを捧げ、西洋音楽を響かせた。1582年には天正少年使節の一行が日本を離れてヨーロッパを目指した。少年たちはすっとラテン語と西洋音楽を学んでいたし、ヨーロッパに向かう途中も学習を怠らなかった。ポルトガルに着くと、少年たちは大聖堂のミサに参加した。伊藤マンショと千々石ミゲルは、初めて見た3段式の鍵盤があるオルガンを多くの人の前で臆することなく弾いた。上手に弾いたので大司教も人々も満足した。
マショー、デュファイ、ジョスカン・デプレ、カベソン、アルカーデルト、バード、ラッソ、パレストリーナ、スウェーリンク、ダウランド、モンテヴェルディ、プレトーリウス、フレスコバルディ、ギボンズ、シュッツ、シャイトなどの曲は、単純に時代から考えて日本人が知りえただろう。1591年には豊臣秀吉の前でジョスカン・デ・プレの曲が演奏されたという記録がある。器用な日本人が一生懸命に西洋音楽をマスターしようとしていたとき、残念なことに江戸幕府は1639年に鎖国してしまう。鎖国だけではなく、禁教令によって西洋音楽は完全に消えてしまう。バッハは1685年生まれ、鎖国から46年後にドイツに生まれた作曲家である。その後のモーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、なども日本が鎖国をしている間に生まれ、死んでいった作曲家たちである。

2度目の輸入は明治維新である。
その間の約300年は空白の期間である。1度目に受容した西洋音楽は,隠れキリシタンが密かにオラショを歌っていたものの、いわゆるクラシックといわれる西洋音楽は壊滅状態だった。時代は能や歌舞伎の音楽の全盛期だった。そこへいきなりクラシックが入ってきたのであるから、右も左も分からない状態でやみくもに受容せざるを得なかった。

明治も中頃になって、伊藤博文はアジアで始めての憲法を作るべく、視察のためにドイツに行った。その時、晩年のリストのピアノ演奏を生で聴いた。伊藤は感激してリストを日本に招こうとしたが実現しなかったと言う。ちなみに伊藤は1841年生まれでドヴォルジャークと丁度同い年であり、勿論リストより若い。

鎖国の300年間に、西洋で活躍した音楽家、すなわち ヴィヴァルディー、テーレマン、ラモー、バッハ、ヘンデル、スカルラッティ、グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、ロッシーニ、シューベルト、ベルリオーズ、ショパン、シューマンなど、いわゆるクラシックといわれる作曲家たちは、伊藤が渡欧したときには既にこの世になかった。
晩年のリスト、ヴェルディ、フランク、ヴァーグナー、ブラームスなどがまだ生きていたが、時代は次に移ろうとしていたときに、伊藤博文は渡欧したのである。

伊藤の憲法視察と相前後して明治政府は西洋音楽の受容に取り組む。
信濃国の下級武士の子である、伊沢修二を音楽取調掛(のちの東京芸大)に任命して、文字どおり音楽を取り調べるという取り組み方である。
伊沢は大学南校(のちの東大)に学んだ秀才であった。文部省に入り、愛知師範学校長になった。当時は未だ誰も西洋音楽を知らなかったので、誰を選んでも良かったのかもしらぬが、伊沢は邦楽の素養があったとも聞かない。伊沢は師範学校の教育調査のためにアメリカに渡り、ついでにメーソンから唱歌の指導を受けた。その縁で、帰国後、伊沢は、メーソンを日本に招く。伊沢は「小学校唱歌」の編纂をするためにメーソンを招いたのである。2回目の西洋音楽の輸入先はアメリカであった。メーソンはついでに小学校の教師養成のためのピアノ入門書をもってきた。有名なバイエルである。日本人はバイエルを世界的なピアノ入門書と信じて受容したが、本場ヨーロッパではマイナーというよりも誰も知らない教則本である。メーソンはヨーロッパの伝統的な音楽家ではなく、アメリカの、しかも初等音楽の教育者であるから多くは望むべくもない。日本における2度目の西洋音楽の輸入が、メーソンでなく、ヨーロッパの本格的な音楽家であったら、日本の音楽事情は多少変わっていたかもしれないと思う。

バッハの《平均律クラヴィーア曲集》という題名も西洋音楽受容の混乱がもたらした産物である。これは明らかな誤訳である。バッハはこの曲集の題名としてドイツ語で「Das Wohltemperierte clavier」と書いた。直訳すると「上手く調律されたクラヴィーア曲集」となるはずだ。clavier(クラヴィーア)とは鍵盤楽器全般を意味する言葉であってここでは問わない、重要なのは「Wohletemperierte」という語である。これはWohle と temperierte の合成語で、temperierte は調律、音律という意味である。 Wohle をどう訳すかが問題である。ドイツ語で Wohleは「良い、上手い」といった意味になる。決して「平均律」ではない。
バッハはヴェルクマイスター(Andreas Werckmeister 1645〜 1706) が
書いた Wohle temperiert stimmen (適度に調整して調律する) という表現にならって Wohle temperierte と書いたのだろう。
もしバッハが「平均律」ということを意味したいなら 「greich schuweven(等しく唸る)」としたはずだ。

《平均律クラヴィーア曲集》は鍵盤作品の金字塔である。世界中で出版されているが、英語では well (良い)、仏語では bien(良い)と翻訳されている。
日本語だけが勝手に「良い」を「平均律」と誤訳した。それには鎖国の影響で、平均律時代になってからの鍵盤楽器しか知らないという事情があった。バッハの時代やそれ以前も以後も、ヨーロッパではミーントーンやキルンベルガー音律の鍵盤楽器が主流であったことを知らなかった。またそういった音律に関する深い問題があることも知らなかった。明治になって日本に鍵盤楽器が入ってきたとき、世界の鍵盤楽器は既に平均律に移行していた。だから短絡的に「平均律」だと思い込んだのだろう。この思い込みが現在も尾を引いており、未だに《平均律クラヴィーア曲集》と呼んでいる。今ではこれが誤訳であることを知る人も多くなってきたが、慣れ親しんだ誤訳を他の言葉に置き換えることにい抵抗があるのかもしれない。とにもかくにも《平均律クラヴィーア曲集》というのは理解しがたく、奇異な題名である。

移調と移高

カラオケなどで歌い易い高さに音を変える場合、「キーを上げる」、あるいは「キーを下げる」という。
キーを上げ下げしても音楽そのものに変化は起こらない。音の高さが変わるだけである。単なる音の移高である。
しかし、この音の移高が一旦、楽譜にとして書かれると、調号に変化が起こり、移調と呼ばれる。
単なる移高なのに、譜面がガラリと変わってしまうことで、元の調の趣きがガラリと変わったかのように思う。新たな調号に新たな趣きが生まれたかのような誤解を生じる。
その結果、移調すると異なる性格になると主張する人もいるほどだ。

再度確認しておきたいが、12平均律においては、移調による性格の変化は無い。12平均律は半音の幅がすべて等しいので、どの調も同じである。勿論、調性格の違いなどは存在しない。
不等分音律の場合は調ごとに多少の響きの違いがあるが、普遍的な調性格など存在しない。なぜなら、不等分音律の種類は無数にあるので、ある調性格が、どの音律に基づいているのか判然としないからである。ましてやある調の調性格というのは調性格論者によってさまざまである。ある調について真反対の調性格を述べる調性格論者も多々いるのである。」

調性格論者として最も有名なマッテゾンは次のように結論している。「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならどんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりする事はできないからである」
この言葉はマッテゾン自身が述べた調性格を、自分で否定しているにも等しいではないか。

現在の私達が、調性格を感じ、それを普遍のものと信じるのは、長年の思い込みから生じているわけだが、その原因は教会旋法の認識不足からも起こり易い。
教会旋法も近代長短j調も、任意の音から音階を始めることができる。たとえばドリア旋法はどの音を終止音にするかによって譜面の調号が違う。しかしこれをドリア旋法の移調とは言わない。高さを変えるのだから文字通理り、ドリア旋法の移高と言う。

音楽の性格が変わるのは移高によってではない。移旋によって性格が変化するのである。移旋とは旋法が変わることである。旋法が変われば音階構造が変わる。音階構造が変われば性格が変わる。例えば、ドリア旋法をフリギア旋法に移旋すれば音階構造が変わり、音楽の性格が変わる。ただし、音階開始音には影響されない。ドリア旋法の壮重な性格は、フリギアの悲しい性格に変わるのである。

参考までにブットシュテットによる教会旋法の性格づけを以下に記載する。
          イオニア旋法・・・・・・活発、陽気、楽しげ
          ドリア旋法・・・・・・活発、喜ばしい、そして壮重
          フリギア旋法・・・・全く悲しい、愛らしく快適
          リディア旋法・・・・・威嚇的
          ミクソリディア旋法・・まじめ
          エオリア旋法・・・・・・快適、愛らしい
          

教会旋法の中のイオニア旋法は長調と同じであり、その性格は活発、陽気、楽しげとなっている。一方、短調はエオリア旋法と同じであり、その性格は快適、愛らしいとなる。
このように長調も短調も旋法の一つであるから、長調を短調に移旋すれば音階構造が変わる。音階構造が変われば性格が変わる。ただし音階開始音には影響されrない。音階構造が変われば長調の明るい性格は短調の淋しい性格に変わる。音階開始音によって性格が変わるのではないということは、ハ長調やニ長調といった音階開始音の変化には影響を受けないということである。長調を短調に移旋しない限り性格は不変である。移高あるいは別の言い方で移調だけでは音楽の性格は変わらない。あくまで移旋によって音楽の性格が変わるのである。

現在、よく話題になる調性格は、長調の中にも短調の中にも、それぞれ12の調性格があると言わんばかりであるが、これらの調性格は恣意的であると同時に、おとぎ話と言わざるを得ないのである。
バッハが《平均律クラヴィーア曲集》において、難しい調をハ長調などの簡単な調から移調して曲集の中に組み込んだことを考えれば、なおさら調性格の確立は困難と言わざるを得ない。


      

調とピッチは別物

《平均律クラヴィーア曲集》 には24の調が網羅されている。その最後を飾る調はロ短調であるが、ロ短調とは何ぞや。それは「ロ」の音を主音とする、あるいは音階開始音とするところの短音階である。
短音階とは何ぞやといえば、バッハが確立した2種の音階、すなわち長音階と短音階である。長音階と短音階は半音の位置がそれぞれ違う。半音の位置がそれぞれ違うから長音階は明るく短音階は寂しい性格をもつ。2種類の音階に2種類の異なる性格が存在する。厳密に言えば、12平均律の場合において2種類の音階に2種類の異なる性格が存在する。

ところでバッハが長音階と短音階を確立するまでの音楽はどうであったか。それは教会旋法であった。教会旋法の種類は一般的に6つある。イオニア、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディア、エオリアという6つの旋法は半音の位置がそれぞれ違う。半音の位置がそれぞれ違うから6種類の音階に6種類の性格が存在することになる。
バッハがたくさんの教会旋法をエオリア旋法とイオニア旋法に集約し、長音階と短音階に確立した時から、音階の種類も性格も6種類から2種類に減少したのである。

にもかかわらずバッハの時代の長音階と短音階は2種類の性格以上のたくさんの性格を持っていた。なぜか?
バッハの時代は現在の12平均律とは違い、半音の幅が異なる不等分音律の鍵盤楽器を使っていた。半音の幅がそれぞれ異なるので、同じ短音階でもそれぞれの異なる性格が存在した、しかし現在は12平均律になってしまったので、短音階はどれも同じ性格である。つまり12平均においては長短2つの性格しかない。
ただし現在においても、不等分音律に調律した鍵盤楽器や、ヴァイオリンなど奏者が意識的に12平均律を避けて演奏できる楽器は、同じ短調でも異なる性格が存在する。それらは不等分音律を奏でることが可能であるからそれぞれの異なる性格の短調を演奏できる。
調性格を論じる時は、12平均律と不等分音律を分けて考えることが大切である。

現在世界中で使われている12平均律において、ロ短調の「ロ」とは何ぞやというと「ロ」の音つまり「シ」の高さの音が音階開始音ということである。
問題はこの「シ」の高さが歴史的に常に変動していることである。
「シ」の音の高さというのは何かというと、標準ピッチに対する高さである。
オーケストラの演奏会に行くと、いろいろな楽器の奏者がa'=440でピッチを合わせているが、この440 Hz が標準ピッチである。標準ピッチは「ラ」の音で示すので、「シ」の音はそれより1音高い。ところがこの標準ピッチが最近は445まで上げているオーケストラもあって変動している。標準ピッチが上がれば、「シ」の音も上がる。
反対にバッハの時代は標準ピッシが現在より約半音低かった。ということはバッハの「シ」の音は、現在の「♭シ」である。ピッチでもって調を決めれば、バッハのロ短調は今や変ロ短調と言わねばならない。
これは可笑しいと誰もが思う。ピッチで調を決定するのは可笑しいと思うからであろう。

ところがである。絶対音感教育は、標準音=440 における主音の高さでもって調を判断する。もしバッハの時代のピッチに準じてロ短調を演奏すれば、絶対音感保持者には変ロ短調に聞こえるらしい。楽譜を見ればロ短調なのに、耳には変ロ短調に聞こえるので気持ち悪いらしい。
これは困った問題である。





階名的センス

「ドレミ」は本来、階名であった。
『実践的音楽への平易で気楽な手引き』(トマス・モーリ 1597年)に由来するギャマット(音階図)を見ると階名の意味がよくわかる。ギャマット(音階図)には一つの音名に対して3つの階名が書いてある。例えば「C」という音名に対して「ド」「ファ」「ソ」という3つの階名が書かれている。つまり、「C」という音名はハ長調では「ド」、ト長調では「ファ」、ヘ長調では「ソ」と読むことを示している。このように調によって読み方が変わるのが階名である。
ところが、現在では音名にも「ドレミ」を使ってしまっている。階名も音名も「ドレミ」を使っている。全く意味の違うもを同じ「ドレミ」で読むという混乱が生じている。これが深刻な問題を起こす訳をこれから説明する。尚、ご承知のように階名は移動ド読み、音名は固定ド読みされる。

階名=移動ド読みの「ドレミファソラシ」はそれぞれが固有の役割を持っている。一つの家族に、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、長男、長女、次男がいるようにそれぞれの役割が違う。
反対に音名=固定ド読みは、均一の音が7つ、同じ役割の人間が一つ屋根の下にいるようなものである。

また階名は「我輩は猫である」と書くように自ずから意味のわかる表記である。
反対に音名は「ワガハイハネコデアル」というように意味不明の文字の羅列である。

例えば「高い」とネットで検索すると幾つもヒットする。どの「高い」かは前後関係があってはじめて理解できる。理解するためには「インフレで物価が高い」「高い音域」「合格の可能性が高い」などの文脈、前後関係が必要だ。階名は前後関係が分かる読み方だた、音名は単発的で前後関係無く意味もわからない読み方である。

「ドレミファソラシ」を階名=移動ド読みで歌えば、「シ」を歌うやいなや耳は次の音である「ド」への欲求を呼び起こす。階名の「シ」にはそのすぐ上にある半音を前もって感じさせる役割がある。これを導音と呼び、「シ」は自分のすぐ上にある半音を主音として通告する役割を持つ。
また「ソ」は自分の4度上にある音を主音として通告する役割をもつ。

しかし音名=固定ド読みで歌えば「シ」に固有の役割がない。「シ」の次にどこに行くのか全く不明である。「シ」が導音である可能性は極めて低い。

階名読みの「ドレミファソラシ」という階名的センスを呼び起こすためには必ずしも楽譜に頼る必要はない。階名的センスを呼び起こすには数字譜、文字譜でもいっこうにかまわない。「シード」や「ソード」の階名的センスが頭の中にあり、いつでもその音程を思い起こしてアウトプットできることが重要である。楽譜が読めることとは全く時限の違う能力である。階名的センスとは音の役割を感じる耳、それは真に音楽的な耳であり、内的聴覚の中枢をなすものである。

トニック・ソルファ法のカーウェン(John Curwen 1816〜80 )は階名のこのような性格を心に留めるのが「最も易しい方法であるばかりか最も賢明な方法である。なぜならそれは、作曲家の方法だからである」と述べている。

作曲家の方法になり得ない音名=固定ド読みは音の高さだけを識別できる能力であり、音楽的な耳とはいえない。ちょうど色の名前を教えられれば、色を識別するのは簡単だが、絵画的天才とは言えないのと同じことである。色の名前を教えるごとく、音の名前を教えるのが絶対音感教育である。絶対音感をもつことと音楽的才能とは全く別物である。
別物であるばかりか、絶対音感は、これまでるる述べたところの音名=固定ド読みであるから非音楽j的であるといわざるを得ない。
その上、厳密な絶対音感をもつと、オーケストラのピッチが違えば気持ちが悪い、CDのピッチが少し違えば気持ちが悪いといったように、不便なことも多いようである。

バッハ定例会
第1日曜日 15:00 PM
第2金曜日 10:00 AM
第4土曜日 10:00 AM

第4回バッハ礼讃音楽会
日時:2017年7月30日(日)
午後2時
場所:山口県旧県会議事堂

富田庸講演会&公開レッスン
講演会:2017年9月9日 午後2時
公開レッスン:9月10日午前10時
場所:山口大学
大学会館1階大ホール
お問い合わせはこちら

<プロフィール>
鍵盤楽器の
新しい記譜法
「イコール式」を提唱

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取った。爾来バッハの鍵盤作品の
とりこになった。

延べ400人の生徒のレッスンを通して、バッハのフーガを弾くことが音楽力を向上させる最も有効な手段であることを再認識した。
移調によって難易度を下げることで、ピアノの初心者も《平均律クラヴィーア曲集》に親しむことができる。

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも調性格の恣意性を指摘しています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の元調にこだわる必要は無くなります。簡単な調に移調して、まず親しむ方が大切なことです。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。
橋本絹代 著  『やわらかなバッハ』 春秋社
橋本絹代 編著 《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》


世界唯一! 平均律クラヴィーア曲集の移調
音楽の構造が良く解る










Amazon


<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
Archives
記事検索

イコール式チラシ
  • ライブドアブログ