やわらかなバッハの会

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所

調性格は2つだけ

「ハ長調」や「ト短調」というような「調」は、その「調」自体が、ある性格を持つと考えられてきた。あるいは今でもそう考えられている。12等分平均律の鍵盤楽器においてさえそのように考えている人は少なくない。

「調」自体の性格という時、現代では12 の長調と12 の短調があって、合計24の「調」の性格があることになっている。
24 もあるとはいえ、音階の種類はたったの2つ、すなわち長調と短調である。

現代の主たる音階は長調、短調の2種類だが、その前身の教会旋法は違う。
11世紀にグィードという音楽理論家がいた。彼は4つの教会旋法が特有の性格をもつと考えた。
16世紀に至ってイオニア旋法とエオリア旋法が加えられ、6つの教会旋法が固有の特徴をもつと考えられた。
その特徴的な性格はプリンツ(1641〜1717)によると以下のようになる。

イオニア旋法・・・・・・・・陽気で活発
ドリア旋法・・・・・・・・・・温和,敬虔
フリギア旋法・・・・・・・・非常に悲しい
リディア旋法・・・・・・・・過酷、不親切
ミクソリディア旋法・・・・陽気、いくらか穏健
エオリア旋法・・・・・・・・穏健、優しい、いくらか悲しい

[ キルンベルガー著 『純正作曲の技法』 東川清一訳 より ]

上の教会旋法は音階構造が6種類それぞれ違う。
繰り返すが現代の主たる音階構造は長調と短調の2種類である。

教会旋法では、音階の開始音の如何にかかわらず、イオニア旋法ならばすべて「陽気で活発」な性格を持つと考えられた。イオニア旋法の音階は現代の長調の音階と同じである。
ならばである。
音階の開始音の如何にかかわらず、長調ならばすべて「陽気で活発」な性格をもつと考えるのが当然である。

イオニア旋法で音階開始音が「ハ」なら○○の性格、「ニ」ならば○○の性格などと区別はしない。
しからば長調で音階開始音が「ハ」なら○○の性格、「ニ」ならば○○の性格などと区別するのは矛盾だ。

特に現在の12等分平均律の鍵盤楽器を演奏する我々が、音階開始音の違いだけで、「調」の性格を云々するのは無意味というものである。
「ハ長調」と「ニ長調」の違いは音階開始音の違いだけである。音階構造はどちらも長調で等しい。
12等分平均律の鍵盤楽器は音程が固定されているのだから、「ハ長調」と「ニ長調」の違いを見出すことは不可能というものである。

フーガ ト短調はト短調に非ず

《フーガ ト短調》 あるいは《 小フーガ》という通称でよく知られているのは BWV 578 のフーガである。主題は歌唱的な前半と器楽的な後半が好対照をなし、端正な美しさと親しみやすさを合わせ持つ佳曲である。

このフーガを市販の楽譜で見ると♭2個の調号で記譜してあるものが多い。♭2個の調号で終止音が「 g 」であるから、なるほどト短調のようである。ただし「近代長短調」の考え方でいえばの話である。
なぜなら、バッハはこのフーガを♭2個の調号では書いてないからである。

バッハの意図を知るには、ゲッティンゲンのバッハ研究所とライプツィヒのバッハ資料館が長い年月を費やして完成させた『新バッハ全集』を見るのが一番だ。これは現在最も信頼できる版である。
『新バッハ全集』はドイツのベーレンライター社から随時出版され2007年に完成を見た。《フーガ BWV 578 》 は 1999年に出版された。『新バッハ全集』 の 検檻供∧埆玄圓蓮Dietrich Kilian である。

[Neue Ausgabe saemtlicher Werke, harausgegeben vom Jphann-Sebastian-Bach-Institute Goettingen und vom Bach-Archiv Leipzig, Serie , Orgelwerke,Band 6, herausgegeben von Dietrich Kilian.]


『新バッハ全集』で見ると、《 フーガ BWV 578 》は♭1個の調号で記譜されている。♭1個の調号なのに、終止音は「g」である。我々の常識では、♭1個はニ短調であり、終止音は「d」のはずだ。もし、終止音が「 g 」 ならば調号は♭2個というのが我々の常識だ。

しかしバッハの時代にはこのような記譜法も一般的だった。それは今日の我々にはあまり馴染みのないドリア旋法の記譜法である。ドリア旋法は教会旋法の一つで、今日の記譜法より♭を一つ少なく記譜する。バッハの初期の作品によく見られる記譜法である。

《 トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565 》 という通称で呼ばれるあの有名な曲も、バッハはドリア旋法で書いている。調号には♯ も♭もつかず一見するとイ短調のようである。しかし終止音は「 d 」である。我々の常識ではニ短調は♭1個のはずだが。

ドリアなどの教会旋法で書かれるのが一般的だった時代に、バッハはそれを近代長短調へと徐々に収斂し確立した。今日我々は種々のジャンルの音楽において、初めから長調と短調が存在しているかのごとく思っているが、これはすべてバッハのお陰である。だから「あまねく世界に神は存在し、あまねく音楽にバッハは存在する」と言われるのだ。

《 フーガ BWV 578 》 は《アンドレーアス=バッハ本》の中に収められている。『アンドレーアス=バッハ本』とはバッハの甥(1713〜79)の名前に由来し、「J・アンドレアス・バッハ 1754」という所持を示す文字の書かれた手書きの楽譜集である。この中に収められた作品は遅くともヴァイマール時代までに書かれたことがわかっており、《 フーガ BWV 578 》はバッハ初期の作品と言える。バッハの初期の作品にはドリア旋法の記譜法で書かれたものが多い。

以上見てきた通り、我々が 《フーガ ト短調 》 と思い込んでいた曲は、実はドリア旋法である。
ドリアなど種々の教会旋法にはそれぞれ異なる性格がある。ちなみにプッシュテット(1666〜1727)による教会旋法の性格付けによると、ドリア旋法は「活発、喜ばしい、そして壮重」となる。ドリア旋法のこの性格は終止音が変わっても不変である。これは大変重要なポイントである。つまり 《 フーガ ト短調 》 も 《 トッタータとフーガ ニ短調 》もドリア旋法であるから終止音が「 ト 」あるいは 「 ニ 」 、その他何の音に変わっても性格は不変である。すべて「活発、喜ばしい、そして壮重」という性格である。

今日の常識では 《フーガ ト短調 》 と 《 トッタータとフーガ ニ短調 》 は調が違うから性格も違うと考えられている。これは大きな間違い、両方ともドリア旋法でその性格は同じである。
バッハは 「 ト 」を終止音とするドリア旋法のフーガを意図したのであって、「ト短調」を意図したのではない。我々は勝手に「ト短調」だと思い込んでいる。

ドリア旋法において、終止音は何であれ、その性格は不変であると先に述べた。にもかかわらず、《 フーガ ト短調 》 以外の調で弾くと、曲の性格が変わってしまうと考えている人は少なくない。もしそのように考えているなら、間違った常識、あるいは既成概念に捉われている証拠であろう。

音楽は魂のひそかな数学的実践である

 紀元前5世紀ごろ、ピュタゴラスは音の調和の法則を発見した。彼は古代ギリシャの数学者、哲学者、宗教家、音楽理論家で、ピュタゴラス学派は「万物は数である」という根本原理から成り立っている。
 
 ピュタゴラスは、2つの音が協和する時、2つの音の振動数比は簡単な整数比になることを発見した。オクターヴは 1:2、完全5度は2:3、完全4度は 3:4 である。
振動数比を視覚的に把握するには、共鳴箱に1本の弦を張り、移動駒によって弦の長さを調節する装置をイメージするとよい。オクターヴとは「ド」から上の「ド」までの幅であるが、移動駒を2分の1のところにもってきて弦の長さを半分にすれば1オクターヴ上の「ド」が得られる。
同様に、移動駒を3分の2のところに持ってきて弦を短くすれば「ド」から完全5度上の「ソ」が得られる。

 このように音の協和が振動数比で数学的に理論付けられ、それが全宇宙を支配するものと考えられた。なぜ、人間が簡単な整数比の音を協和音と感じるかといえば、宇宙と人間の魂が同じ振動数に基づいているからであり、宇宙の調和を表す音楽は人間の魂を調和させると考えられたのである。ピュタゴラスは簡単な振動数比を一種の神的啓示としてとらえ、神聖なものと考えた。今日の言葉で言えば純正の音程を神聖なものと考えたということだ。数学も音楽も哲学もその創始者は同じであり、古代ギリシャにおいてこれらは一つの学問だった。

 その後のピュタゴラス学派は宇宙形成原理として受け継がれた。
プラトン(紀元前427〜347)の世界霊魂形成、プレトマイオス(83〜168)のハルモニア論、ケプラー(1571〜1630)の世界の調和など、哲学的伝統を形成していく。
ライプニッツ(1646〜1716)はドイツの哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍し、学者・思想家として知られる知の巨人である。17世紀の様々な学問を統一し、体系化しようとした。その業績はベルリン科学アカデミーの創設など多岐にわたる。彼は「予定調和説」を唱え、極めて広い領域にまたがる思想を打ち立て、「音楽は魂が自ら知らずに行うひそかな数学的実践である」という言葉を残した。ここでいう音楽とは簡単な振動数比の数学を意味している。
現在我々が耳にする12等分平均律の音階や微分音などは簡単な振動数比ではない。現代人は簡単な振動数比の響きを忘れ、濁った音に慣らされてしまったようだ。

 ピュタゴラスの発見した 2:3 の振動数比、すなわち純正の完全5度を積み重ねて得られる音階をピュタゴラス音律と呼んでいる。純正の完全5度を積み重ねるとドレミファソラシドの7音音階が得られる。これは全音といえども大全音と小全音によって構成される7音音階である。
純正の完全5度を11回積み重ねると12個の半音階が得られる。しかし、ここに大問題が発生する。すべての完全5度を純正で得ようとするとオクターヴの環が閉じないのだ。不都合にも自然の摂理に阻まれる。環の最後の音、すなわち His=C が最初の C より24セントも高くなってしまう。この不都合な24セントを如何様に処理するかという難問が音律の諸相である。処理の仕方によって幾通りもの音律が考えられる。12個すべての音を純正に得たいという人間の理想に反して、神の摂理は常に割り切れない。1日24時間では処理し切れないから4年に一度うるう年を設けて調整しなくてはならない。円周率3.14 も割り切れない数字だ。音律も割り切れない。神様はいつも科学的理論的に割り切れないという粋な計らいをなさるのである。

 ピュタゴラス音律は、古代中国の三分損益法、近代邦楽の順八逆六の法とも基本的に同じである。国も言葉も文化も違う。それでも人間が協和音と感じる振動数比は共通である。気候風土、思想、宗教、伝統を超越した振動数すなわち波動の世界は共通だ。人間が言語表現の世界にとどまっている限り、共通理解を見出すのは難しい。言語を超えた波動の世界におけるピュタゴラスの思想は全く正しい。「万物は数である」

ネコ踏んじゃった

我々が音楽を奏でようとする時、声楽は勿論のこと、ヴァイオリンなども自ら音程を作って奏する。音程が悪いと音痴ということになる。音程の良し悪しは演奏の生命線である。
今、当たり前のことを述べたに過ぎないが、こと鍵盤楽器に限っては全く事情が違うのである。ピアノ奏者は自ら音程を作らない。奏者がいくら歌って弾こうとしても、鍵盤楽器の音程は一定である。予め調律師に作ってもらった音程で弾くしかない。逆に言えば、鍵盤楽器は音痴でも弾けるということである。音程の善し悪しを問うことができないからだ。猫が踏んでも一流のピアニストが弾いても、音程に関する限り全く同じだ。ピアノはタッチによって音色が変わるので、音色の変化はあるが音程の変化は無い。
ピアニストは自ら音程を作らず、人任せの音程で演奏するしかないので音程というものに無関心である。

昔は鍵盤楽器の奏者が自ら調律したものである。バッハもクラヴィコード(鍵盤楽器)をたった15分で調律したという。クラヴィコードとは鍵盤楽器の総称であり、ピアノの前身であるが、クラヴィコードを調律する調律師という職業はなかった。クラヴィーアの奏者は必ず、好むところの調律を自ら施して演奏したのである。
ヴェイオリンの調律師が存在しないように、クラヴィーアの調律師も存在しない。それは当たり前のことだった。

ではなぜ今日我々はピアノを自ら調律しないのか、調律師にやってもらわねばならないのか。なぜ自分の演奏行為が人任せの調律なのか。
クラヴィコードに比べて、ピアノは大掛かりで調律が難しいという単純に物理的な問題では片付けられない重大な問題がそこにはある。

今日のピアニストといえば演奏専門の音楽家であるが、昔の音楽家は、3つのことを1人でカバーしていた。すなわち、作曲、調律、演奏の3つを一人の人間がやっていた。
自ら曲を作り、自ら楽器を調律し、自ら演奏した。バッハの時代、これが当たり前だった。
それに引き換え、今日の音楽家は、作曲するだけ、調律するだけ、演奏するだけと分業化し、3分の1人前でしかない。

昔は作曲家と演奏家が同じだったので、必然的にその時代の現代音楽が演奏された。ところが今日ではピアニストは曲を作らないし、作曲家は現代曲を作るもほとんど演奏されない。今日のプログラムは、ほとんどがベートーヴェンやショパンといった過去の作曲家の作品である。だから今日の音楽界は、現代音楽ではなく過去の音楽界の様相を呈している。

今日のピアニストは、なぜ自作の現代曲を演奏しないのだろうか?
昔は自分で音楽を作らない奏者は酒場のヴァイオリン弾きと同等の扱いを受けた。
彼らは人が書いた曲を楽器によって音にするだけに雇われるのであり、通常身分が低かった。彼らは「楽士」と呼ばれ、音楽家とは見なされなかった。
以上の認識からすると、今日のピアニストは人が書いた曲を、ピアノによって音にするだけなので、酒場のヴァイオリン弾き、「楽士」と言わざると得ない。

今日の作曲家は、通常、ステージでは演奏できず、調律も人任せである。
今日の調律師は、通常、シテージでは演奏できず、作曲法も知らない。
今日のピアニストは、通常、作曲も、調律もできない。

昔は3つの仕事を一人の人間がやっていたものを何時から分業することになったのか。
バッハもモーツァルトも自ら作った曲を演奏した。ベートーヴェンも若い頃は自分の作品を自分で演奏した。しかし耳が聞こえなくなった頃からベートーヴェンは人前で演奏しなくなった。またシューマンも指の故障でピアノが弾けなくなり、作曲に専念することになった。弾けない作曲家に代わって、ピアノを演奏する人が必要になった。このあたりが作曲家とピアニストの分岐点ではなかろうか。

また時代を同じくして、12等分平均律というバカチョンカメラのような調律が台頭してくる。この調律はオクターヴ以外のすべての音程が狂っている。純正の響きがひとつもない。音の素材は半音しかないという世界、どの調も同じモノクロの世界になってしまった。だから作曲家は音の素材の作り方を学ぶ必要がなくなった。音の素材とは調律法に直結する問題である。如何なる素材で音階を作るかということは作曲家にとって生命線であるはずである。ところが今では、音の素材は決まり切った不精音律、オクターブを頭ごなしに12等分する機械的な音律で作曲する。あるいは、微分音やコンピューターを駆使する音楽を書くが聴衆はついていけない。もはや音楽とは見なされないものとなりつつある。
調律師も12等分平均律で調律するから誰がやっても同じような調律である。調律師の腕の見せ所は音律如何ではない。音色、音質だけである。
ピアニストもペダルを踏んで目にも止まらぬ速さでパッセージを弾いてしまえば、12等分平均律の狂った音程でもさほど気にならない。
かくして、ピアニストは純正の響きと縁を切り、12等分平均律の不純さに慣らされてしまった。

時代は19世紀前半である。市民革命によって、音楽は教会と貴族のもとから音楽ホールや劇場、ブルジョワ市民のものに移っていく時代である。演奏できなくなったベートヴェンやシューマンに代わって演奏する職業ピアニストが誕生してきた時代である。彼らは、大ホールでの大音響と、音楽的に無知な聴衆にうけるべく超絶技巧を追求していく。他人が作った音楽、例えばベートーヴェンの悲愴を、我が物顔で情緒たっぷりに演奏する。しかし、それはベートヴェンの悲愴であってピアニストの悲愴ではない。

革命後の聴衆は純粋音楽よりも文学的で分かりやすい音楽を好み、甘いロマンティックな曲、華々しいパッセージ、迫力ある演奏に熱狂するようになる。ステージで脚光を浴びるピアニストはスター扱いされる。聴衆はピアニストに恋焦がれ、ファンクラブを作る。作曲家のほとんどは草葉の陰の人である。

かくしてピアノ音楽界はネコ踏んじゃったの世界に、2度と戻れない音楽の終焉に向かっている。

あまねく音楽にバッハは存在する

旧ソ連の作曲家シュニトケ(1934〜98)は「あまねく世界に神は存在し、あまねく音楽にバッハは存在する」という言葉を残した。これは数ある賞賛の言葉の中でも最大級ではないだろうか。
他にもバッハ賞賛の言葉として「五番目の福音史家」と言うのもある。福音史家とは聖書の福音書を書いたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人のことである。彼らに次ぐ5番目の福音史家がバッハというわけだ。
同様に「神様はバッハにかなりの借りがある」とも言われてきた。

古今東西あらゆる作曲家がバッハを神のごとく崇めている事実、これはバッハ一人だけに許される例外的な賞賛であり、他の作曲家ではダメなのである。音楽をよく知る者には何故バッハなのか自明のことである。しかし一般の人たちにはあまり理解されてないようだ。

世間一般ではクラシック作曲家といえばバッハよりベートーヴェンの方が有名だろう。。5線ノートの表紙にはベートーヴェンの顔が描かれ、クラシックといえば「運命」、年末には第九の「歓喜の歌」が街中にあふれ、1万人もの人が大合唱する。ベートーヴェンはまさにクラシック音楽の象徴的存在となった感がある。

最近話題になった佐村河内守も「現代のベートーヴェン」という誠に厚かましいコピーを実に巧みに使って成功した。耳が聞こえないベートーヴェンという偉人伝が衆知されているからこそ、耳の聞こえない佐村河内守が作曲したということで世に受け入れられたのである。世間というものは音楽そのものの価値より、逸話や伝記の方が大切らしい。というより逸話やストーリーしか理解できないから音楽には無頓着と言った方が正確かもしれない。

くだんの交響曲第1番も「現代のベートヴェン、佐村河内守」の作品だと宣伝したから世に出たのである。決して音楽そのものの価値によるのではない。ゴーストライターの「新垣隆」の名前で出したのでは誰も見向きもしないだろう。新垣隆はおろか、団伊玖磨、芥川也寸志、諸井三郎、松村貞三などの多少は名の知れた作曲家の交響曲1番でさえ、誰も見向きはしない。現況では、いくら名門音大を卒業しても自作曲をオーケストラで演奏してもらえるうチャンスはほとんど無い。その意味では新垣隆はある種の満足を得ていたと思う。自分の名前は世に出なくとも、自作曲が多くの人の耳に届き、賞賛されたのだから。しかしその賞賛の大部分は音楽ではなく、耳が聞こえない作曲家が作ったという逸話やストーリーに反応したに過ぎない。しかもその作曲家がマスコミによって作られた偽者であったことを冷静に判断すべきだろう。世間は音楽ではなく、逸話やストーリー、果てはブランドによって判断するという事実、マスコニによって洗脳される大衆の迷妄を見せつけられた事件と言わざるを得ない。

もしバッハに面白い逸話でもあったならば大衆にもっと受け入れられていたかもしれないが、バッハの音楽はそのような低級なものを必要としない。音楽の価値だけで君臨している。
古今の作曲家の中でバッハほど人生の経過と作品の成立が無関係な芸術家はいたためしがない。
またバッハほどその生涯について知られている情報が少なく興味を呼ばない芸術家もないのである。
しかし音楽芸術の本源は神への賛美である。音の波動である。作曲家の逸話やストーリーは邪魔にこそなれ全く不要のものである。

バッハの作曲活動はもっぱら神への賛美のためだけに行われた。だから彼の音楽芸術は世間とも世間における成功不成功ともなんら関係がなかったのである。音のない精霊の音なのだ。
バッハは内面的には世間と縁を切っていたので、彼の全思索は驚くべき晴れやかな死への憧れによって浄化されている。自我を放棄し、自我を超えたとき、あたかも飛行機が雲の上に出ると常住の青空の輝きが見えるように音楽が輝き始める。迷いの雲を突き抜けた光明世界がバッハの音楽である。光明世界の音楽は鳴り響く宇宙の法則、それは神の波動である。

反対に神から離れて自我に固執する音楽は無明である。宇宙の法則を書かないで、自分の考えたことや自分の勝手な夢を書く。無明を美だと思い違いして自分のノイローゼを売ろうとする。そういった音楽はいくら平和を唱えても平和になりようがない。せいぜい革命思想になるだけだ。

バッハの実生活は子供たちと家庭がすべてだった。20人もの子供を作り、安定した生活、幸福で多忙な毎日だった。そして何より平凡な日々だった。勤勉に働く日常生活の中でバッハは常に死を憧憬し、死こそ生活の真の完成であると確信していた。バッハは自我の死こそ永遠の命だという悟りにも似た精神をもって超越的視点で世の中を見ていた。
だからこそバッハの音楽は超越的で永遠である。バッハは永遠にその価値を失わないと同時に、何時の時代にあっても常に「新しい音楽」としてわれわれの前に変幻自在の姿で顕れてくる。

シューバルト(1739〜91)は
「人間がいつの日かバッハの精神に到達するまでには幾世紀かを要するだろう」と述べた。

ドビュッシー(1862〜1918)は
「好意にあふれた神バッハの業績に私たちが目を向けるなら、つい昨日書かれたように思われる箇所をいたるところに見出せるーー中略ーー今日なお凌駕するもののないその作品に、趣味のひとつのあやまりも探すだけ無駄であろう」と述べた。

ブゾーニ(1866〜1924)は「バッハの作品は幾世紀にも先んじ、時代を超える巨大な姿を呈している。ハイドンとモーツァルトのピアノ曲は実を言うとバッハ以上にわれわれから遠く離れて位置し、彼らの時代の枠に完全に適合している」と述べた。

永遠不滅の響き

バッハの没後、彼の音楽は時代から取り残され埋もれてしまった。しかしバッハの音楽の真価を世に先んじて示した人がいた。フォルケル(Johann Nikolaus Forkel 1749〜1818)という音楽学者、ゲッティンゲン大学の音楽監督を務め、ドイツ音楽史の最も重要な存在の一人である。彼は1802年に『バッハの生涯 芸術および作品について』を書き、バッハの真価を世に問うた。メンデルスゾーンのバッハ蘇演よりも27年も前に書いたのである。

フォルケルは言う。
「音楽家が偉大なものを求めずして小なるものや目先の快楽を求めるのは、ギリシャやローマの古典を知らないことに等しい」と。
また「バッハの作品を研究した者には、つまらない音楽と本当の音楽との区別が明らかになる」とも述べた。

フォルケルがこのように述べた1802年とはどのような時代であったか、「つまらない音楽」とは何を指すのか。
1802年といえば、バッハはとうの昔に亡く、バッハの息子たちも全員亡くなり、バッハの孫のエルンストが43歳である。

バッハが生きた時代はオペラが流行の先端を行く花形となってきたときである。そこでは独唱者と簡単な伴奏、つまりメロディーと3和音による和声音楽が主流となる。これが楽器の世界においても主流となり、軽快でわかりやすく耳に快い和声音楽にすべての音楽家が魂を売ってしまう。彼らはこれを「新しい音楽」と呼んでわれもわれもと夢中になっていく。
しかしバッハ一人だけは流行の和声的な「新しい音楽」に満足できなかった。バッハが晩年に作曲した《フーガの技法》や《音楽の捧げ物》などは対位法芸術の金字塔である。時代を超越し世俗と隔絶した究極の対位法芸術である。バッハは人生の終わり近くに断固として対位法音楽を書くが、これは時代の潮流である「新しい音楽」に警告を発する遺言である。当時の作曲家の誰一人としてバッハの遺言に耳をかたむける者はいなかったが。

バッハの没後50年あまり経った時、ようやくバッハの真価を認める人たちが出てきた。フォルケルが崇高な芸術を世の忘却から救うべく、人々にバッハへの注意を喚起せしめた功績はきわめて大きい。フォルケルこそがバッハ復興の原動力である。フォルケルの功績がなければメンデスルゾーンの《マタイ受難曲》の復活上演もなかっただろう。復活上演の大成功によってバッハ100年忌にはバッハ協会が設立される。
バッハ協会は50年という長期計画でバッハの全作品の出版を計画し、『旧バッハ全集』が完成する。
『旧バッハ全集』を基にバッハの音楽を演奏によって一般社会に広めようと毎年「バッハ祭」が開催される。
『「バッハ年鑑』も刊行され、バッハの音楽の普及と研究がいよいよ盛んになる。
バッハ200年忌には全作品の厳密な資料批判に基づく『新バッハ全集』の刊行プロジェクトが始まる。ドイツは国家的大事業としてこれに取組み、50年以上の歳月をかけて2007年にようやく最終巻が刊行される。こうしてバッハの芸術は学問的にも充実する。古楽の発達によって演奏実践においても大きな収穫を得ることになる。

我々は今バッハの真価を知っている。バッハが否定した和声音楽の崩壊を既に見た。新しい音楽の終着駅は音楽の終焉だった。音楽は宇宙を貫く生命、宇宙を貫く法則であった。
「それ見たことか」というバッハの声が聞こえる。今こそバッハに帰ろう、父の家に帰ろう。バッハはきっと放蕩息子を暖かく迎えてくれるだろう。

なぜ「ドレミ」というのか

最初に「ドレミ」を発明したのは、ベネディクト会修道院の修道士、グィード・ダレッツィオ(995〜1050?)である。イタリアの音楽理論家であり 『ミクロロゴス』 という世界最古の音楽理論書を残している。
また彼は、デオバルド司教のもとで大聖堂の少年聖歌隊の指導にも当たった。少年達にグレゴリオ聖歌を効率よく教えるには、従来のやり方の口伝では不十分だと彼は考えた。それで彼は少年達がグレゴリオ聖歌を容易に習得できるように、音感訓練の方法と新しい記譜法を開発した。それが「ドレミ」である。

彼は各節の出始めの音が音階を順に上昇する歌をグレゴリオ聖歌の中から探し、《聖ヨハネの讃歌》を選び出した。
「汝のしもべが、弦をかきなでて、汝の妙なるわざをたたえ得るように、この穢れある唇の罪をのぞかせたまえ、聖ヨハネよ」 と、6月25日の「聖ヨハネの日」に歌われるグレゴリオ聖歌である。
旋律は各節の出始めの音が音階を順に上昇していく。

《聖ヨハネの讃歌》を原語で示すと以下のようになる。
utqueant laxis
resonare fibris
mira gestorum
famuli tuorum
solve polluti
labii reatum, sancte johannes

各節の出始めの音が順に上昇していく旋律なので、各節の出始めの音、すなわち 「Ut Re Mi Fa Sol La」 と、音が順に上がっていく。
この「ウト、レ、ミ、ファ、ソ、ラ 」 と 順に上がっていく音が今日の「「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ」と上昇する音階の起源となった。

最初の「ウト」は発音しにくいので後に「ド」と改められた。「ド」になったのはバッハの時代より後である。バッハは「ウト」と歌った。
また「ドレミファソラ」の次の「シ」がないのは何かおかしいと思われるだろう。
音階に「シ」がないのはヘクサコード(6音音階)だったからである。今日の「シ」は後になって加えられたものだ。「シ」が加わって7音音階となったのが今日我々の言う「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、」である。バッハの時代のソルミゼーションはまだ6音音階だった。6音音階は今日我々の言う長調と短調の音階ではなく旋法である。

バッハといえば《平均律クラヴィーア曲集》であるが、第1巻の有名な前書きを読むとバッハの時代のソルミゼーションが明らかになる。この前書きはバッハの自筆によるものである。
「平均律クラヴィーア曲集、すなわち長3度 Ut Re Mi に関して、あるいは短3度 Re MI Fa に該当するすべての全音と半音(白鍵と黒鍵)によるプレリュードとフーガ」 と書かれている。

バッハの言う長3度とは長調、短3度とは短調のことである。
長3度が 「Ut Re Mi ウト レ ミ」 と書かれている。バッハの時代は「ド レ ミ」 ではなく 「ウト レ ミ」と言っていたことが明らかになる。
また短3度が「Re Mi Fa レ ミ ファ」 と書かれている。今日の短調なら「ラ シ ド」と書くべきところである。
バッハの時代のソルミゼーションは6音音階だったので「シ」とは書けない。だから「ラ シ ド 」ではなく 「レ ミ ファ 」と書いたのである。6音音階は旋法を意味している。

バッハの前書きから明らかなように 《平均律クラヴィーア曲集》 は、旋法から近代長短調確立へのちょうど過渡期に成立したと考えることができる。
また《平均律クラヴィーア曲集》は近代長短調における24の調ではなく、長旋法と短旋法の24の移旋として成立したという側面も忘れてはならないだろう。

《歓喜の歌》からの脱却

年末になるとベートーヴェンの第九《歓喜の歌》が聞こえてくる。
1980年代に入った頃から特に盛んになり、年末の第九ブームが定着してきたようである。

日本におけるこの現象は1972年に欧州の歌として《歓喜の歌》が採択決定され公式に発表されたことと関係がありそうである。
ヨーロッパのシンボルとなる欧州の歌がベートーヴェンの《歓喜の歌》に決定された理由は何だろうか。
その鍵を握る人物は《歓喜の歌》を最初に提案したリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(1894〜1972)である。

名前から察しがつくように彼はハーフである。父はオーストリア=ハンガリー帝国駐日特命全権大使のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、母はハインリヒの大使公邸の女中頭だった日本女性、青山みつ(クーデンホーフ=カレルギー・光子)。父ハインリヒが在日中に、みつ(旧名)と出会い日本で結婚(みつは日本国籍を喪失し、夫と同じカトリックに改宗した)。日本で最初の国際結婚である。光子の父は憤慨して光子を勘当した。カレルギー家も東洋人との結婚を反対した。

栄次郎はクーデンホーフ=カレルギー夫妻の7人の子の次男として1894年に東京で生まれる。一家は栄次郎が2歳のときに日本を離れ、父親の故郷オーストリア=ハンガリー帝国に移り住んだ。

栄次郎はウィーン大学で哲学博士号を取得する。そして、欧州連合構想の先駆けになった「汎ヨーロッパ論」を提唱する。
「汎ヨーロッパ論」とは第一次大戦の影響から欧州が衰退するのを克服するために、小国に分かれて覇権を競う欧州の状況を打開し、アメリカのような欧州合衆国の設立を目指すべきだと呼びかけるものである。それまでは理念先行だった欧州統合論を政治運動に昇華させたのは彼である。自らの提案を出版するとともに、汎ヨーロッパ連合を設立し、各国にも汎ヨーロッパ協会を設けた。ために彼は「EUの父」と呼ばれている。

彼の経歴を簡単に述べたが、最も大事な経歴はこれからだ。彼は19歳の学生であったとき、親の反対を押し切って33歳の女優と結婚した。そして28歳の時にフリーメイソンに加入したのである。彼はグランド・オリエント・ロッジの高位階級のフリーメイソン会員であった。彼が汎ヨーロッパ運動を開始するとヨーロッパ各地のフリーメイソンリーが彼の運動を支援した。
こうしたフリーメイソンとの深い関係のなかで、彼は自らのメイソン精神をかけてベートーヴェンの《歓喜の歌》を欧州のシンボルに定めた。なぜなら《歓喜の歌》はまぎれもないメイソン讃歌だからである。

「歓喜の歌」はシラーの詩である。シラーはフリーメイソンのクリスティアン・ゴットフリート・ケルナーの求めに応じてドレスデンにあるフリーメイソンのロッジ「三振りの剣と緑のラウテ上のアストレア」の音楽付きの儀式のために1785年に詩を書いた。詩の内容は友情の絆により結束した平等な人々の社会というメイソンの理想を描写するものである。シラーの作品には自由思想と人間至上主義が見られる。

曲は勿論ベートーヴェンである。
彼はフリーメイソンが最も盛んだったボン大学で青春を過ごし、メイソン君主であるフリードリヒ2世の私生児とまでいわれた作曲家である。モーツァルトとハイドンは確実にフリーメイソンだったが、ベートーヴェンも作品を見る限りフリーメイソン的である。『フリーメイソン辞典』などではベートーヴェンをメイソンとしているし、セルビアのフリーメイソンリー本部(グランドロッジ)によると《歓喜の歌》を作曲したベートーヴェンはフリーメイソンであるという有力な証拠があるという。

歌詞 (抜粋)

歌えよ 一人の友だに持たば
さあらで寂しき 者は去るべし

ものみな歓喜(かんき)を 天より受けて
良し悪しへだてず 幸に輝く
酒あり 愛あり 真の友あり
虫さえ喜び 天使は空に

行け 行け 限りなき大空高く
あまたの太陽の 飛び交い馳せ行くごとく
いざ走れ 友よ
勝利に赴く英雄のごと
いざ走れ 友よ

フリーメイソンのキーワードは進歩的知識人、平等、自由、友愛、市民、理神論、太陽讃歌、光、自然科学などである。音楽面では変ホ長調とハ短調(フラット3つ)、グラスハーモニカ、ピアノ、クラリネットなどである。ベートーヴェンにはなぜかフラット3つの曲が多いのも頷ける。変ホ長調の《英雄》《皇帝》《告別》、ハ短調の《運命》《悲愴》《コリオラン序曲》など。

メイソン精神とは王権神授や君主やカトリック聖職者を否定する革命思想である。

ベルリンの壁が崩壊した後チェコで革命が起きたときも《歓喜の歌》が歌われた。革命には《歓喜の歌》がよく似合う。1989年12月14日、首都のプラハで革命を祝うための演奏会がヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって行われ、ここで歌われた《歓喜の歌》が東欧革命のテーマ曲となった。

日本でも毎年、年末になると《歓喜の歌》が歌われる。日本に革命を起こしたいのだろうかと思ってしまう。もっと日本古来の美しい心を歌った歌があるのではないだろうか。《歓喜の歌》に変わる何かもっと相応しい歌はないものだろうか。


メサイア

クリスマスが近くなると聞こえてくる《メサイア》はヘンデルの代表作である。
《メサイア》とは救世主という意味で、聖書のイザヤ書、詩編、ルカ福音書、マタイ福音書、ローマ信徒への手紙、コリント信徒への手紙、ヨハネの黙示録などの引用句を用いている。

全体は3部からなり、有名なハレルヤコーラスは《メサイア》の第2部の最後で歌われる力強い合唱である。
歌詞は「ハレルヤ、全能であり私たちの神である主が王となられた。この世の国はわれらの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。王の王、主の王」というもので、今では宗教曲としての不動の地位と人気を獲得している。

ところが当時は《メサイヤ》の上演に抗議する人たちもいたのである。
それは聖なる主題を、教会ではなく劇場で上演することに対する批判であった。
当時の劇場は、オペラ歌手たちが軽薄で空しい作品、異教的で放埓な作品を美声を競って歌う場所だったので、そのような場所で《メサイア》を上演することに反対の声が上がったのである。
そのために予約演奏会ではあえて曲目を《メサイア》と書かず、《宗教的オラトリオ》と書いて批難をかわす策がとられた。

劇場上演の反対派曰く
「宗教にまるで関心がなく、宗教を求めて教会に行く価値など無いと考えている人々が、劇場で宗教的な演奏に耳を傾けて敬虔な気持ちになるとは絶対に考えられない」

「軽はずみに神の名と言葉を用いるといったことは冒涜である。」

「畏れをもって主に仕えよ、畏敬をもって主を喜べと述べた詩編の作者の忠言にもとることは明らかである。」

「もし宗教の行為としてではなく、気晴らしか楽しみだけのために演奏されるのであれば、芝居小屋がそれを上演する神殿に応しいものかどうか、また演奏者の一団がはたして神の言葉の宣教者として応しいかどうかを問いたいと思います。」

しかし《メサイア》は反対派の批難をよそに大成功を納める。
上演賛成派曰く

「劇場は聖なる賛美に応しからずなどとつまらぬ議論を持ち出すことなかれ。清らかなる歌は音楽に新しい品位を与え、徳には畏敬をもたらし、そしてその場を聖別する。同じく、ハーモニーは天の力を得、しかして魂を天にまで高め、地獄を天国に変える」

尚、ハレルヤコーラスを起立して聴く習慣は、ロンドン初演時に、国王が起立したことに始まるとされている。
当時から《メサイア》の人気は非常に高く、何度も演奏されたが、真の初演はダブリンであったから、国王はロンドンにおける初演時に起立したのだろう。


ヘンデルは偶然にバッハと同じ年、1685年に生まれた。共にドイツ人であるが、この2人は全く対照的な人生を歩んだ。

ヘンデルはオペラ、コンサートで高い人気と名声を獲得する。イタリア、イギリスなど国際的な活躍をしてやがてイギリスに帰化する。彼の作る曲は常に当時の流行の先端を行く作風であり、また複雑で難解とされるバッハなどの曲と違ってアマチュアにも大いに親しまれた。

一方バッハは故郷から離れず、バッハ一族は強いネットワークで繋がり、仕事でも、私生活でも互いに助け合う。バッハは最新流行の「新しい音楽」には抵抗を示し、対位法を作り続ける。オペラを作らず、モノフォニー音楽に重きをおかず、次第に時代遅れの音楽家となる。晩年の大作《フーガの技法》《音楽の捧げもの》《ゴルトベルク変奏曲》などは音楽古来の法則をポリフォニーのうちに確立し、バッハの晩年の関心はポリフォニーの背後にある永遠不変の法則を体系的に探求することだった。従ってモノフォニー音楽の台頭著しい時代にあってはテレマンやヘンデルのような名声を得ることができなかった。

2人の生い立ちも全く違う。
ヘンデルの父は医者で息子を法律家にするべく大学の法学部に進学させるが、途中で父の反対を押し切って音楽に方向転換してしまう。
一方バッハは先祖代々音楽家の家系であり、ごく自然に18歳から教会のオルガニストとして働き始める。大学には行かなかった。

結婚と家庭生活においても2人は全く違った生涯だった。
ヘンデルは女性に興味なく、生涯独身を通した。子供も残さなかった。故郷も持たず、個人主義で根無し草的人生であったが、名声を得て贅沢な暮らしをすることができた。
一方バッハは故郷に根をはり、20人もの子供を作った。最初の妻は急死し、後妻を迎えたが、両方とも夫婦仲は円満だった。妻と子供を愛し、浮いた話一つなく懸命に働く人生だった。息子たちはバッハ一族の後を継いで音楽家になった。特にエマーニエル・バッハはハンブルクでテレマンの後継者になるほどの名声を得た。またクリスティアン・バッはバッハ一族では唯一のオペラ作曲家となりギリスでヘンデルの後継者になった。


やがてヘンデルもバッハも天国に召されるが、バッハの路線を継ぐ者はなくバッハは世間から忘れ去られる。
バッハの息子たちでさえ、父の真の偉大さを理解することができなかった。息子たちはヘンデル的な新しい音楽の方向に活路を見出していく。もし、バッハが人生の最後まで追及し続けた対位法芸術はバッハの死をもって終焉を迎える。
ここが、西洋音楽の分水嶺である。
西洋音楽の終焉に向かう第一歩がここにある。バッハの死から霊性との決別が始まった。

ト長調のメヌエットはバッハの作品に非ず

《ト長調のメヌエット》はピアノを習えば必ず一度は弾く親しみやすい小品である。「メヌエット」といえばバッハのト長調のあの有名なメロディーがまず思いうかぶ。

しかしこのメヌエットについては、バッハの真作ではなく、ペッツォルトの作品だということが判明した。
だが未だにバッハの作品としている出版譜が多い。また、ピアノの発表会等や you tube の演奏動画においても「バッハのメヌエット」となっていることが多く、バッハの作品のように誤解されたままだ。

Wikipediaで「メヌエット」を検索すると、その中に問題のメヌエットに言及しているところがある。次のように書かれている。
「バッハのメヌエットとして有名な曲だが、近年、ペツォールトによる作品と判明した」と。

真の作曲者であるペッツォルト(Petzold Christian 1677〜1733)はドイツの作曲家、オルガニストで、ドレスデンの聖ゾフィー教会に務めていた。バッハはペッツォルトが務める教会で1725年に演奏を行っている。
このドレスデン旅行から問題のメヌエットを持ち帰った可能性がたかい。

この研究は近年、シュルツェ(Schulze Hansjoachim 1934〜)によってもたらされた。シュルツェは『バッハ年鑑』や 『バッハ便覧』の編集者であり、バッハ研究の中心的存在である。シュルツェが問題のメヌエットの真の作曲者を特定した。

ではなぜ今日までバッハの作品であると誤解されてきたのか。
それを解くには《ト長調のメヌエット》が入っている《アンナ・マグダレーナの音楽帳》を調べねばならない。

バッハは再婚婚後間もなく、愛する妻、アンナ・マグダレーナに1冊の音楽帳をプレゼントする。
当時はまだ楽譜の印刷が一般的ではなかったので、バッハの手書きの音楽帳である。
音楽帳の表紙は草色の羊皮紙で覆われ、金文字で妻の頭文字が入っている。帯紐の断片から赤いリボンで結わえられていたようである。現在はベルリンの国立図書館が蔵している。

バッハは育ち盛りの子供たちを養育し、家事全般を受け持ち、その上に写譜の仕事まで手伝ってくれる新妻へ感謝のしるしに音楽帳を捧げたのである。
音楽帳といえば、他には、バッハが長男ウィルヘルム・フリーデマンに与えた音楽帳や、モーッアルトの父レオポルト・モーッアルトが子供たちに与えた音楽帳もある。

アンナマグダレーナは音楽帳を宝物のように大切にしながら、だんだんと自分自身の記入で満たしていった。
夫が妻に、また子供たちが母に音楽の贈り物を書き込み、贈られたアンナ・マグダレーナが自分の大好きな曲をそれに書き加えた。いわば音楽詩文集として愛蔵した、記念帳であり、日記帳であった。
彼女の楽譜集の生成過程は15年以上の期間にわたると推測される。

《アンナ・マグダレーナの音楽帳》は1722年と1725年の2冊存在する。
1722年版はおもににフランス組曲の初期稿とコラール編曲などである。バッハは妻にプレゼントした時点以降も書き込みを続けた、ついには彼の音楽帳のようになってしまった。それで2冊目の音楽帳をプレゼントせざるを得なくなったようである。

2冊目は1725年の音楽帳である。これにはまず最初にバッハ自身の手で《パルティータ》が書かれている。それ以降の部分はほとんどアンナ・マグダレーナや息子たちが写譜したものである。
複数の有名なメヌエットや教育用の作品は1725年版に含まれているが、実際にはほとんどのメヌエットやその他の小品がバッハの作品ではない。

ベーレンライター原典版では、バッハの真作はBMW で表し、それ以外はBWV anh という表示になっている。
BWVはバッハ作品目録、anhは付録、補遺の意。問題の《ト長調のメヌエット》はBWV anh 114 である。つまりバッハの真作とは言えない付録補遺である。

よく出回っている実用版の《アンナ・マグダレーナの音楽帳》には BWV anh 番号の付いてないものが多い。
実用版において、作曲者がはっきりしているものは J.S.バッハを始め、C.P.E.バッハ、クープラン、ベームなどと明記されているが、何も書かれてない曲も多数ある。
何も書かれてないということは、BWV anh である。
しかしz実用版の楽譜の表紙にはBWV anh 番号はんく、表紙には「バッハ」と大書されており、J.Sバッハの曲だと誤解される。

また中には紛らわしい前書きもある。例えば「これらほとんどの曲は彼自身の作品であるが、1725年のものには彼自身の作品のほかに、息子のC.P.E.バッハや、フランスの作曲家クープランの作品、それにオルガニストであったベームの作品なども加えられている」といったものである。これでは上記の3人以外は、すべてバッハの真作だと言っているようなものである。実際にはほとんどの小品がバッハの真作だという証拠がないのだ。

このような実用版の楽譜の普及によって、いつのまにかバッハ作曲の《ト長調のメヌエット》と誤解されるに至ったようである。
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<プロフィール>
やわらかなバッハの会 代表
新しい鍵盤楽器記譜法「イコール式」の創始者

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取り
バッハのとりこになった。
これまで約400人のピアノレッスンを通じて、バッハのフーガを弾くことの重要性を認識し、初級者でもバッハ演奏を楽む方法を提案。

2007年 世界で初めての楽譜《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》カワイ出版 
2009年 音楽書『やわらかなバッハ』春秋社
2013年「やわらかなバッハの会」設立
2014年 バッハ礼讃音楽会 (於 旧県会議事堂) 毎年開催
2016年 バッハ・イン・ザ・サブウェイズ (於 新山口駅南北自由通路 )毎年開催
2017年 Bach Network UK 対話会議研究発表 (於 ケンブリッジ大学)
Prof.Yo Yomita (富田庸) 講演会「バッハを嗜む」主催 (於 山口大学)

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも調性格の恣意性を指摘しています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の中の難しい調を簡単な調に移調してまず親しむことが大切です。初級者は更にそれをアンサンブルで楽しむことが大切です。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。


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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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