やわらかなバッハの会

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所

作曲家が選ぶ時

一般に作曲家が調を決定する際、どのような要因が考えられるだろうか?
概して次のような要因から決定されるのではなかろうか。

1)古典から学んだ既成概念
2)個人的な感覚、気質
3)楽器の特質、
4)音域の制約

1)古典から学んだ既成概念について

バッハという作曲家を例にとるならば、彼にとっての古典とは教会旋法ということになる。バッハは教会旋法を近代和声学として集大成した作曲家であり、バッハの作品は教会旋法と近代和声学が混在している。

教会旋法においては、各旋法の音階構造が異なるので、旋法ごとに性格が違うのは当然である。しかし同じ旋法の中で音階終止音が違っても性格は変わらない。例えばドリア旋法はド調ドリア、レ調ドリア、ミ調ドリアと言う具合に音階終止音がいろりろ考えられるが、音階終止音が変わっても調の性格はドリア旋法である。音階終止音がいかに変化しようと、音階構造が同じである以上、性格は不変である。

イオニア旋法は近代和声学における長音階に匹敵するが、これも同様に、ド調イオニア、レ調イオニア、ミ調イオニアといろいろな音階終止音が考えられるが、調の性格はすべてイオニア旋法である。

近代和声学では、ド調イオニアのことを、音階終止音がドである長音階という。ド調イオニアはハ長調、レ調イオニアはニ長調、ミ調イオニアはホ長調である。
ハ長調、ニ長調、ホ長調とどのように音階終止音が変わろうとも、調の性格はイオニア=長調という不変のものである。

にもかかわらず、ハ長調、ニ長調、ホ長調がそれぞれ異なる性格だという思い込みがあるようだ。どれも同じ長調の音階なのに既成概念にとらわれて調性格が異なると思い込んでいるようである。再三述べたように、鍵盤楽器で演奏する限り、異名同音がある限り、調性格の違いはない。12等分平均律では当然であるが、不等分音律では違いがあるという意見もあるだろう。これについては 2)個人的な感覚、気質の項で詳しく述べる。

今ここでは音階構造が同じであれば終止音がいかに変化しても調の性格は変わらないということを覚えておいてほしい。我々の近代和声学においては音階は長調と短調の2種類しかない。音階終止音としては12種考えられるが、その12種はすべて同じ性格である。長調1種である。

2)個人的な感覚、気質について

これについては、調性格の代表者マッテゾンが次のように述べている。
「調の性質について何か確実なものを定めようとすればするだけ、おそらく、意見の食い違いも表面化してくるように思われる。この問題をめぐる見解はほとんど数えきれないほどあるからである。その理由としてただ一つ考えられるのは、人間の体液の組成が一人一人非常に異なっていると言うことである。それゆえ、例えばある調を、多血質の人は楽しげで快活に感じ、一方、粘着質の人は、ものうく、嘆き、悄然としているように感じたとしてもまったく不思議はないのである」

例えばホ長調の調性格を比較してその意見の食い違いを確認しよう。

マッテゾン・・・絶望、死ぬほどの悲しみ
シューバルト・・・賑やかな歓声、満足感
フォーグラー・・・身を切るようにつらい
クラーマー・・・尊大さが目立ち癪に障る
シリング・・・燃えるような黄色、聖なる愛、率直さ
シュテファニー・・・火花を散らす、明るい、純金
ミース・・・耳をつんざくような、優雅な、愛らしい
ベック・・・精神的な温かさ

このようにホ長調という調の性格は8人8様で、何の共通性も感じられない。
例えば《平均律クラヴィーア曲集》にあるホ長調を比較するだけでも、全く共通性が無いことがわかる。

1巻9番ホ長調プレリュード=平安な牧歌的情緒
  ”      フーガ    =熱烈な青春の喜びが奔流となって躍動している
2巻9番ホ長調プレリュード=穏やかな淡い光、洗練された美しさ
  ”      フーガ    =パレストリーナ様式の厳かな宗教合唱曲風 

調性格を考える得る場合、調律法が不等分音律であることが前提となる。なぜなら不等分でないと微妙な響きの違いが出ないからである。12等分平均律の響きはどこをとっても均一である。多少なりとも響きの違いを得るためには不等分音律でなければならないのだ。

バッハの時代は不等分音律の一つであるミーントーンが主流だった。ミーントーンはハ長調、ト長調といった調号の少ない調は綺麗に響くが、変ニ長調、嬰へ長調といった調号の多い調は聞くに堪えない響きとなる。
そのため、バッハの時代には、♯♭3個ぐらいまでの調しか使えなかった。

そのような時代にあって、バッハは理論上24すべての調が聞くに堪える響きとなる独自の調律法を考案した。その独自の調律法でもって24の調を演奏した。24の調を網羅した《平均律クラヴィーア曲集》を演奏した。それは音楽史上画期的なことであった。♯♭3個までの調だけではなく、♯♭6,7個の調まで使える調律は、純正の綺麗な響きを少し不純に、聞くに堪えない響きを純正に近づけて、どの調も平均的な響きにならざるを得ない。つまり24すべての調が弾けるためには12等分平均律に限りなく近い調律法にならざるを得ないのである。
12等分平均律に非常に近いということは、調による性格の違いはほぼ無いということである。

よってバッハの《平均律クラヴィーア曲集》は不等分音律といえども、12等分平均律に非常に近いものであり、調による響きの違いは殆どないということである。

1)古典から学んだ既成概念、2)個人的な感覚、気質 の考察からいえることは、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》は長調と短調2種の性格があるのみで、音階終止音が異なるだけである。調性格は2種類しかないと言うことが理解できるであろう。《平均律クラヴィーア曲集》に24種類の異なる調性格があると思うのは根拠のない固定観念に過ぎない。










マッテゾンが調性格を否定

マッテゾン(Mattheson 1681〜1764)は 『新管弦楽法』 の 「各調の性質とアフェクト表現上の作用について」 という項目のもとに調性格論を展開した。これは彼自信が認めるようにあくまで 「私論」 であり、各調がそれぞれ絶対的な性格を有するという見解にマッテゾンは懐疑的であった。

その証拠に、彼は 『完全なる楽長』 において 「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならば、どんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりすることはできないからである」 と述べている。

マッテゾンの調性格論を見ると24の調のうち7つの調については記述がない。♯♭の多い7つの調である。これらは当時使われてなかったので触れられてないのだろう。このことから、マッテゾンの調性格論は、ミーントーン音律に近いと考えられる。

つまりマッテゾンはミーントーン音律においてすら、絶対的な調性格は存在しないと言っているのである。ましてや24の調のすべてが演奏可能な音律においては、調性格の存在のしようがない。

マッテゾンとバッハは同時代であり、教会旋法と近代長短調の移行期に2人は位置する。
マッテゾンが述べたのは近代長短調の調性格であるが、次にプリンツ(Prinz 1641〜1717) が述べた教会旋法の特有な性格をあげてみよう。

イオニア旋法・・・・・・・・陽気で活発
ドリア旋法・・・・・・・・・・・温和、敬虔
フリギア旋法・・・・・・・・非常に悲しい
リディア旋法・・・・・・・・過酷、不親切
ミクソリディア旋法・・・・陽気、いくらか穏健
エオリア旋法・・・・・・・・穏健、優しい、いくらか悲しい

教会旋法においては、例えばイオニア旋法とドリア旋法は音階が全く違う。だから調の性格も違う。教会旋法には6種類の音階が存在するからこそ、6種類の調性格が存在する。

近代長短調においては長調と短調の2種類の音階しか存在しない。だから2種類の調性格しかない。
ハ長調、ニ長調、変ホ長調などと言ってあたかも違う調ように思われがちだが、これらはすべて長調という同じ音階である。ただ音階開始音が違うのみである。

長調と短調という2つの音階が、音階開始音の違いだけで24種類もの調性格があると考えてはならない。
特に鍵盤楽器においてはこのことを銘記する必要がある。なぜなら鍵盤楽器は、異名同音だからである。長3度と減4度は、音楽理論上では明らかに異なる音程であるが、鍵盤上では同じ鍵盤だからである。鍵盤楽器においてはどんな達人でも、長3度と減4度などの異名同音を弾き分けることは不可能である。この点が弦楽器などとは違うところである。

バッハの代表作の一つ 《平均律クラヴィーア曲集》 を移調によってより解りやすく弾くことのできる 《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》 は、大きな音楽的成長をもたらすだろう。移調することに抵抗のある方は以下のことをもう一度考えてみて欲しい。

1、バッハ自身が移調して編集した曲も入っている《平均律クラヴィーア曲集》
2、同一調なのに全く性格の異なる曲が多い《平均律クラヴィーア曲集》
3、ウィーンのシュテファン大聖堂の楽長、ベートヴェンやチェルニーの教師であったアルブレヒツベルガーが   編集したウィーンの移調譜は《平均律クラヴィーア曲集》の中の遠隔調を移調して♯♭の少ない調にしたも   のである。
4、バッハの弟子たちの筆写譜に移調したものが見られる
5、その他、バッハは前に作った曲を他の曲に転用する際、頻繁に移調している
6、ピッチの変動を考えるとバッハの時代は現代より約半音低いので、《平均律クラヴィーア曲集》 の全24曲   を半音低い調に移調すべきであるが、元の調で演奏しているのは絶対音感的発想の矛盾である。





長3度と減4度は同じ鍵盤

「ドーミ」は「ドレミ」と全音が3つ分だから長3度という。

では「 ド」 の代わりに 「シ♯」を使って「シ♯ーミ」と書くとどうなるか?
ピアノには「シ」の ♯ たるべき黒鍵がないので「シ♯」は白鍵の「ド」になる.
「ド」と「シ♯」は 異名同音である。
従って「ドーミ」と「シ♯ーミ」はどちらも同じ音程だ。あくまで鍵盤上では。

実は「ドーミ」と「シ♯ーミ」は、鍵盤上では同じ音程であっても、音楽理論上では異なるのだ。
「ドーミ」は長3度、「シ♯ーミ」は減4度である。長3度と減4度は鍵盤上では同じ鍵盤を弾くしかない。
しかし音楽理論上では異なる音程であるし、声楽やヴァイオリンなどは「ドーミ」と「シ♯ーミ」を異なる音程でもって弾き分けることができるのだ。

音楽理論上では、長3度は協和音程、減4度は不協和音程である。同じ音程なのに、一方は協和、他方は不協和。
このような音楽理論と鍵盤上の音の矛盾が存在する。

ここで「シ♯ーミ」の減4度を含むフーガを探してみると 《平均律クラヴィーア曲集》の第1巻4番、ハ短調フーガのテーマが思い浮かぶ。
減4度音程 「シ♯ーミ」を含むテーマは重苦しく、十字架を背負って喘ぎながら歩く姿などと考えられがちである。
しかし鍵盤楽器で弾くと、重苦しいはずの減4度が、同時に明るい長3度でもあるのだ。かくのごとき大きな矛盾が鍵盤楽器には存在する。

バッハが独自の調律法でもって 《平均律クラヴィーア曲集》を演奏したとき、このテーマの減
4度をどのような音程で演奏したのか興味深い。
因みに主要な音律における鍵盤楽器の長3度=減4度のセント値を以下に示す。

中全音律・・・386セント(純正)
キルンベルガー機ΑΑΑ386セント(純正)
ヴェルクマイスター掘ΑΑ390セント
12等分平均律・・・・400セント
ピュタゴラス・・・・408セント

バッハの独自の音程はどの音律に近いのだろうか。バッハの音程が純正に近くても遠くても「ドーミ」と「シ♯ーミ」が同じ鍵盤である以上、同じ音程であることにかわりはない。

鍵盤楽器の同じ音程をして、長3度は明るい、減4度は重苦しいなどと区別するのは甚だ滑稽である。
今日のピアノが12等分平均律だから滑稽なのではない。
不等分音律の場合においても、長3度と減4度の音程は同じである。不等分音律においても長3度と減4度の違いを右顧左眄することは滑稽である。同じ鍵盤を弾くからである。
声楽やヴァイオリンならば、長3度と減4度を区別することができるが、鍵盤楽器は調律法の如何にかかわらず、区別することは不可能である。



バッハの原体験

私は子供の頃、父とよくピアノ連弾をして遊んでいた。正確にいえばピアノソロ曲を2人で弾いて遊んでいたというべきだろう。本来一人のピアニストが弾くべきピアノ曲を2人で弾いていたのである。ピアノの楽譜は2段楽譜なので、父は上段を、私は下段という具合に分担して弾くという方法である。2人合わせれば立派な曲になるのだった。この方法なら結構難しい曲もラクに弾けた。
ブルグミュラー、ソナチネ、ソナタ、インヴェンション、シンフォニアなどのピアノレッスン用の曲や、いろいろな作曲家のピアノピースなどを父との分担奏で楽しんだ。時間の経つのも忘れて興じていたが、中でも特にバッハのフーガは楽しかった。

父は技術開発の研究者で、楽譜は読めたが、ピアノはほとんど独学だった。父は大学と大学院で学生オーケストラに所属しクラリネットを吹いていた。当時、学生オーケストラの指揮者はあの朝比奈隆である。朝比奈隆は京大の学生オーケストラからプロになった異色の指揮者で、大阪フィルハーモニーを設立し、大阪音楽大学で教鞭をとり、ブルックナーの指揮者として世界中に名を馳せた。92歳まで現役の指揮者として活躍し、音楽界では初めての文化勲章受賞者になった。父は朝比奈隆の後輩にあたり、毎年のOB演奏会には喜々として出かけていた。また父は、仕事で海外に行くことが多かったので、町々のオーケストラを聴いて回り、その様子を家で話してくれたものである。

このように音楽好きの父との連弾で最も楽しかったのはバッハのフーガであった。子供だった私には、なぜバッハにそれほど心を奪われるのか、その理由はわからなかった。音楽理論も何も知らない子供と、音楽家ではない父とのたわいもない連弾であったにもかかわらず、バッハのフーガは格別の響きがして恍惚となるのだった。バッハのフーガだけは、曲の終わりまで弾いてくるとまた曲の頭から繰り返したくなるのである。それは本能的な要求だった。バッハの音響にいつまでも浸っていたいような、法悦、至福といった感覚だった。バッハだけは何度繰り返しても飽きるどころか、何度でも永遠に繰り返したくなるのであった。

シュヴァイツァーの言葉に「バッハのフーガを練習したことのある子供は、その際どんなに機械的に行われたにせよ、声部進行を目のあたりに学び取るのであり、この直感はもう2度と消し去られることはないであろう。そのような子供はどんな曲にも同様な音響の線による尊厳な動きを本能的に求めるようになり、その欠如を貧しさと感ずるであろう」というのがある。
子供のの頃、私はまさにこのシュヴァイツァーの言葉と全く同じことを感じていたのだ。
この直感が、私の原体験である。私はこの厳かで高貴なハーモニーがどこから来るのか、バッハが語り書けてくるものを虚心に受け止めたいと思った。それがバッハ研究の原動力になっている。








音楽の本源

サンマリノ共和国の特命全権大使をしているマンリオ・カデロ氏が天皇皇后両陛下とのご陪食の際、耳にされた音楽についての話である。
カデロ氏はある日の昼12時から約3時間、天皇皇后両陛下と食事を共にされた。(以下原文通り)

食事が始まると、陛下が皇太子時代にサンマリノ共和国にいらしたことがあるとおっしゃってくださいました。私の故郷のことを  〜   〜 おかげであっという間の3時間でした。

楽しく過ごさせていただきましたが、その間、部屋の中にはずっと静かに心地よい音楽が流れていました。私は音楽が大好きです。日本のオーディオはさすがに素晴らしいと思い、不躾にも陛下に質問をしました。

「この部屋に流れている音楽はとても素晴らしく感動しました。どのようなアンプとスピーカーを使われていらっしゃいますか。恐れ入りますが拝見させていただけないでしょうか」

すると陛下はにっこり微笑まれて、カーテンを開けてくださいました。するとそこには小さなオーケストラがいたのです。こんな素敵はおもてなしはあるでしょうか。私は感動して思わず拍手をしてしまいました。同席した他の大使も同様です。

他国の王室でも生演奏でもてなすことはありますが、オーケストラを隠すようなことはせず、むしろ客人に見せるようにするでしょう。もしかすると陛下は、オーケストラが見えると、私たちが演奏の終わるたびに拍手をしなければいけないからと気遣ってくださったのではないでしょうか。(以上)


カデロ氏は、カーテンに隠れての生演奏という陛下のお心遣いに感動された。普通の演奏会ならば、オーケストラは客より一段高いステージで、スポットライトを浴び、客からの拍手も要求する。たとえ食事のBGMとしてのオーケストラでも、カーテンに隠れて弾くようなことはまずないだろう。一般常識では考えられないような、おもてなしに感動されたカデロ氏の感性は素晴らしいと思う。そして何より天皇皇后両陛下が素晴らしい。

天皇皇后両陛下と同じような心遣いを音楽に示した作曲家にサティー(Satie 1866~1925)がいる。
彼は「家具の音楽」や「壁紙の音楽」を主張し「音楽界の異端児、変わり者」と呼ばれた。しかし、ドビュッシーもラヴェルも 「サティーによって作曲技法が決定づけられた 」 と公言して憚らないほど音楽家達に多大な影響を与えた。

例えばサティーは 《ヴェクサシオン》 という曲の冒頭に 「このモチーフを連続して 840 回繰り返し演奏するためには、あらかじめ心の準備が必要であろう。最も深い沈黙と真摯な不動性によって」 と記した。
《ヴェクサシオン》 のモチーフは、4分と8分音符の6小節分ほどであるが、勿論小節線などはない。これを 840 回繰り返すと 18 時間はゆうにかかる。これだけ無限に繰り返せば、ちっぽけな演奏表現や個人的な感情や思想などはどこかにふっとんでしまう。無色透明のフィルムを映すスクリーンのように、時間空間を超越する。ただ白い光だけの世界になっていくだろう。

サティーの影響を受けた作品には

演奏時間 639 年・・・ジョン・ ケージ 《ASLSP》

”       336 年・・・ シュトックハウゼン《336年》

”      102 年・・・ ノールハイム《Poly-Poly》

”      5 年・・・・ 小杉武久《革命のための音楽》

”      12 日・・・ ヤング《12日間のブルース》

”      28 時間・・・ シュトックハウゼンのオペラ《光》

等があり、いずれもサティーの 《ヴェクサシオン》 の演奏時間より長い。
特にジョン・ケージの 《ASLSP》 は演奏終了まで 639 年もかかる曲だが、現在演奏が進行中。2001年に演奏が開始された。
この曲が終わるまで聞き届けることは不可能だ。肉体は朽ちるが生き続ける何かが確実にある。音楽が終わらないように。

”永遠の命” というテーマはサティーから新たに始まったわけではない。
バッハはフーガの中で ”永遠の命” を表現した。
バッハのフーガは最後まで弾くと曲頭に戻ってまた弾きたくなるという不思議な曲である。何度繰り返しても、いつまでも終わらない曲である。
バッハは無限に繰り返すことを、曲の内面から要求してくるのだ。”永遠の命” がバッハのフーガに内在しているのである。

またバッハのフーガは小節線があっても実質的には無いに等しい。なぜならフーガの同一のテーマが或る時は1拍目から、或る時は3拍目から出てくるという具合に拍節と無関係だからである。小節線を無視した形で
テーマが現われる。またテーマが拡大されたり縮小されたりすことでも小節線は無視される。

バッハは、ジョン・ケージの《 639 年 》よりもずっと長い無限というものを表現するといえないだろうか。




《平均律クラヴィーア曲集》の意味

《平均律クラヴィーア曲集》はバッハの代表作の一つで鍵盤作品の聖書ともいわれるが、何とも変わった表題である。
バッハはこの曲の表紙に古い独語で 「Das Wohltemperirte Clavier」と記した。これを英訳すると 「The Well-Tempered Clavier」となる。直訳すると「良い調律のクラヴィーア」 である。良い調律とは?クラヴィーアとは?
バッハはどのような意味でこれを書いたのか、そして、なぜ日本では「良い調律」ではなく「平均律」と訳されたのか? 疑問だらけである。

クラヴィーアとはラテン語のクラヴィス(鍵)から派生したもので鍵盤楽器全般を指す。従って《平均律クラヴィーア曲集》は鍵盤楽器の曲集であることがわかる。
鍵盤楽器といえば、オルガン、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノなどがある。とはいえ、《平均律クラヴィーア曲集》第1巻が成立した時点(1722年)ではクラヴィコードやフォルテピアノは楽器としてそれほど発達した段階にはなかった。
バッハは鍵盤作品を書くとき、オルガン曲を別にして楽器の名前を記すことはあまりなかった。《平均律クラヴィーア曲集》 《パルティータ》 《フランス組曲》 《イギリス組曲》 《インヴェンションとシンフォニア》 など特に楽器指定をしていない。
というわけで《平均律クラヴィーア曲集》のクラヴィーアがどの楽器を具体的に指すのかという解釈や選択は多様であり、演奏者に任されている。今日の鍵盤楽器奏者はピアノを選ぶものが最も多く、次にチェンバロである。珍しい例としてはロバート・レヴィンや野平一郎がいる。彼らは《平均律クラヴィーア曲集》を、オルガン、チェンバロ、クラヴィコードなどの楽器を使い分ける。それぞれの曲に最も相応しい楽器を選んで弾くのである。そうかと思えばルイ・ティリーのように、《平均律クラヴィーア曲集》の全曲をオルガンだけで、レジストレーションを変えることによって多彩な表現を可能にした演奏もある。

《平均律クラヴィーア曲集》 という表題の 「曲集」と言う意味は、1曲ではなく、1巻に24曲、2巻に24曲、合計48曲からならる。これらは理論上考えられるすべての調を網羅した記念碑的曲集である。なぜなら、バッハの時代は♯♭3個ぐらいの調しか使われなかったからである。

「クラヴィーア」と「曲集」の意味はこれで分かった。次は「平均律」という調律法の意味に進もう。


実は《平均律クラヴィーア曲集》というのが誤訳であるといわれるようになって久しい。つまり英訳や仏訳のように《良い調律のクラヴィーア曲集》と訳すべきで《平均律クラヴィーア曲集》と訳すのは間違っているという説である。今日、「平均律」と言えば「12等分平均律」を意味するが、バッハは「12等分平均律」を意図してなかったから《平均律クラヴィーア曲集》と訳すのは誤りだというのである。もしバッハが「12等分平均律」を意図していたならば「gleich schwebende Temperatur (同じように唸る)」 か 「zwolfstufige  Temperatur (12等分平均律) 」と書いたはずであるが、そのように書かなかったのは、「不等分音律」を意図していたからである。バッハが意図したのは「上手く調律された不等分な調律」であって決して今日にいう「平均律」ではないする説である。

以上が誤訳説の根拠とするところであるが、一概に誤訳と決めつけられるほど、事態は単純ではない。
バッハの時代は中全音律が主流であった。もしバッハが当時存在しなかった「12等分平均律」という言葉を知らなかったとしたらどうだろう。バッハは24すべての調の演奏を可能にする調律に対して単に「良い調律」と書いた可能性もあるだろう。
バッハがこの曲集において24のすべての調を演奏可能にするほどよい調律を意図したことは確かだ。
当時一般的だった中全音律では♯♭の多い調は極端な響きになってしまうので使い物にならない。だから24すべての調を演奏可能にする「良い調律」とは必然的に12等平均律に近づくことになる。厳密な12等分平均律ではないにしても、バッハは24すべての調が弾ける調律を意図したはずである。その調律に対してバッハは 「gleich schwebende Temperatur (同じように唸る)」や「zwolfstufige  Temperatur (12等分平均律)」という言葉を耳にしたことが無かった故に、表題として書けなかったかもしれぬ。
使用できる調が限られていた中全音律に対して、24すべての調が演奏可能な「一種の平均的に上手く調律された音律」という意味で「良い調律」と記した可能性もある。


当時すでに存在していたヴェルクマイスター音律は不等分音律でありながら24の調が演奏可能である。これも「一種の平均的に上手く調律された音律」という意味で「平均的調整律」という言葉が用いられていた。

つまり我々が「平均律」という言葉を使うとき、現代では「12等分平均律」の意味である。しかし24の調が演奏可能でしかも不等分な音律も存在するのである。微妙に不等分な「平均的調整律」は無数に考えられ、バッハの独自の調律も一種の「平均的調整律」である。

というわけで、「等分」にも 「不等分」にも 24の調が演奏可能な調律法は存在することがわかった。「等分」も「不等分」も24の調が演奏可能である限り、その調律法は非常に似てくるので、耳で聞いても大差はない。同じ不等分音律でも中全音律は、演奏可能な調が限られているので耳で聞いて大差がある。
24の調が演奏可能な音律と不可能な音律では大きな違いがあるのである。


《平均律クラヴィーア曲集》の表題において、バッハの意図した調律が等分か不等分かという問題については昔から議論が続いている。
バッハの死後すぐにマールプルクが、バッハの意図した調律は「等分」だと主張した。この意見がシュピッタに引き継がれ、シュヴァイツァーも「等分」を主張し、長い間、「等分」 が常識となっていた。
が、1947年にバーバーが「不等分」を主張した。バーバーの主張は、バッハは意図的に 「gleich schwebende Temperatur (同じように唸る)」 を避けて書いたのであり、バッハの調律は不等分であったというものである。以後、「不等分」説がにわかに有力になり、日本における誤訳説が少しづつ浸透していった。
ところが 1985年にラッシュの研究によって 「不等分」説が覆され、「等分」説がまた返り咲いた。
最近では1999年にシュパルシューが《平均律クラヴィーア曲集》のタイトルページ上部に書かれた螺旋渦巻き模様にバッハの調律の秘密が隠されていると言う説を唱えた。この螺旋渦巻き模様説は「不等分」であるから、またしてもひっくり返ったのである。

バッハが表題に書いた 「Wohltemperirte (良い調律)」律が 「等分」 か 「不等分」か、どちらに解釈してもよいと思うが、はっきりしていることは24すべての調が演奏可能な調律であることだ。それは必然的に「等分」か、さもなくば「等分」に非常に近い「不等分」ということになる。
どちらにしても、耳で聞いて大差はないだろう。大差のある「不等分」調律は、24のすべての調を演奏することができないからである。

ピアノレッスン

高校の音楽の授業で忘れられないことがある。普通高校の選択科目として取った音楽の授業である。
それは音楽の先生が黒板に5度圏の図を書かれた授業。

先生曰く 「 5度圏は5度づつ上がっていって12回目で元に戻る環だ。時計回りにC→G→Dと5度づつ上がっていく。5度上がる度に調号の♯が一個増える。つまりCから5度上がると、調号には♯が1個付いてG長調だ。また5度上がると♯が2個付いてとD長調だ。
今度は時計を反対回りすると5度づつ下がる。5度下がる度に調号の♭が一個増える。Cから5度下がると♭が1個のF長調だ。また5度下がると♭が2個のB長調だ。
この5度圏さえ知っていればすべてわかるんだ。凄いだろう」

短調に関する説明は無かったように記憶するが、先生はまるで5度圏を自分の大発見であるかのような口調で熱っぽく語られたのが印象的だった。しかし忘れられない音楽の授業はこの次に起こった。

5度圏の絵は時計の6時のところだけ2つの調が書いてあった。
F♯ と G♭が同じところに書いてあった。
ピアノを習っていた私は、鍵盤を思い浮かべて F♯ と G♭は同じ音だから2つ書いてあるのだと直ぐに解った。
ふむふむ、確かに調号の♯が増える度に5度上がるのだなと、今まで何となく見ていた調号にはこんな法則があったのか、便利なものだなとその時思った。長年ピアノを習っていたが、5度圏は初めて見る図だった。

しばらくして先生が一つの質問をされた。
「♯が9個ついたら理論的には何調になると思うか?」
実際には♯9個の調号など使われないが理論的には考えられるはずだ。

私は頭の中で鍵盤を思い浮かべながら考えを巡らせた。
高校生の頭で考えたことは、♯が6個でF♯長調なのだから、そこから5度上がると・・・ファソラシド・・C♯長調・・・♯7個だ。♯8個はまた5度上がるから、ドレミファソ・・・・G♯長調・・・・・と考えている最中に、 A君がサッと手を上げて 「D♯」と答えた。正解だった。

A君はピアノを習ったこともなく、楽譜も読めないはずだ。しかし現役で東大に合格した頭脳明晰な男子だった。
私はといえば物心つく頃からずっとピアノを習っていた。中学受験の時も高校受験の時も、ピアノは好きで休まなかった。
それなのにA君はたった1時間の音楽の授業で5度圏を理解し、私より先に答えを出してしまった。

一般的なピアノのレッスンでは将来の進路として音大受験を決めてから、音大受験対策の楽典のレッスンを始める。楽典のレッスンで5度圏を知ることになるが、その時私はまだ音大受験を考えてなかった。
もし楽典のレッスンを受けていたら、A君よりも先に簡単に応えられただろう。

一般的にピアノのレッスンは楽譜を鍵盤に移し替えるだけの作業が主体になりがちである。
ピアノ教師は音符を正確に読み、スピードを上げて迫力ある演奏をできるように一生懸命指導する。
5度圏などの基礎的音楽理論を知らなくても、上手に弾ける生徒は多い。
話せないのにドイツ語を話しているようなものである。
調号に♯♭がついていれば、音符に♯♭がついてなくても半音上げたり下げたりして弾くというルールだけ教えておけば事足りる。たったそれだけの知識でバッハもベートーヴェンもショパンの楽譜も取りあえずは弾ける。

ただ機械的に楽譜を鍵盤に移し替えるだけというレッスンは音大に入っても基本的には変わらない。
音楽理論や作曲よりも、上手にバリバリ弾くという技術偏重のためである。
ここでハンガリーの作曲家、民族音楽学者、教育家、言語学者、哲学者のコダーイ(Zoltan Kodaly 1882〜1967)の音楽大学に対する考察を引用したい。

「音楽アカデミーはポンポンとピアノを鳴り響かせるだけの、高貴なお嬢さんを入学させることを、目指すわけにはいきません。そんなお嬢さんたちは、以前は《乙女の祈り》を弾き、今日ならバルトークの《アレグロ・バルバロ》を弾くことでしょうが、それが音楽とは全く関係のない人達であることは、今も昔も変わりがないのです。卒業証書の名目上の価値と、実際の価値との間のギャップはますます大きくなっていきました。学校が卒業証書を出すことによって、それを受け取った人の能力を、はるかに超えた力量を証明したからです」

力量をはるかに超えた卒業証書をもらうのに、昨今は何千万円も必要である。
一般的な私立音大の場合、入学金、寄付金、設備費、学費、下宿代、生活費などの仕送りの他に入学前の入試対策として志望校の教授のレッスンも受けなければならない。有名教授の高いレッスン代、交通費、ホテル代などの出費、またそこに至るまでの10年以上の間、ピアノの月謝を払い続けねばならない。
これほどの出費で音大を卒業しても、決して元はとれない。

一方、A君は高額の所得を得ていることだろう。









絶対音感は非絶対音感

『絶対音感』 という本が出版されたのは1998年だった。当時に比べると多少、絶対音感崇拝の熱狂が静まった感があるが、それでもまだ「絶対音感はプロの必須条件」と思っている人もいるようだ。
そこで絶対音感がプロにとって必要か必要でないかを問う前に、絶対の音感というものが本当に存在するのかということを問いたい。

世の中には様々な標準ピッチが存在するから、絶対音感は非絶対音感だと言うのは簡単だ。当たり前過ぎるほどの正論だ。
しかしこれから述べようとすることは、たとえ、標準ピッチが時と場所を超えて 440Hz に固定されても、尚、非絶対だという話である。

絶対音感は12等分平均律の産物であり、この調律法ができるまでは絶対音感という言葉は存在しなかった。世界が12等分平均律に移行する1850 年〜1900年 以降にできてきた言葉である。従って絶対音感を知るには12等分平均律を知る必要がある。

それでは12等分平均律を知るための基本を簡単に説明しよう。
ドレミファソラシド ♪ は ド から シ まで7個の音があり、その次の8個目はまた ド に戻る。この1サイクルをオクターヴという。オクターヴを繰り返す度にどんどん音が高くなる。ちなみにピアノには ド が8個あり、右に行くほど高い ド になる。

男と女が一緒に歌を歌えば、大人の場合自然に、男声と女声は1オクターヴ離して歌うが、そのことをあまり気にしない。なぜなら1オクターヴ離して歌うと音が一致しているかのように聞こえるからだ。もし1オクターヴ以外の間隔で離して歌うと男声と女声は明らかに違って聞こえる。
ピアノでいうと、オクターヴの間隔で2つの音を弾けば一つの音のように聞こえ、ドとファ などオクターヴ以外の間隔で2つの音を弾けば明らかに違いがわかるということである。
このようにオクターヴはうっかりすると同じ音に聞こえるくらい最も澄んだハーモニーである。

ではなぜオクターヴが澄んだハーモニーといえるのだろうか?
少し科学的に説明をしなくてはならないが、小学生の掛け算程度で理解できる範囲で説明しよう。

音は空気の振動である。振動が細かいほど音が高くなる。音の高さは1秒間の振動数で表すことになっており、それを周波数という。周波数の数が多いほど高音である。周波数の単位はHz (ヘルツ)である。
例えば ラ=440Hz といえば、 ラ の音は1秒間に 440 振動すると言う意味である。

ラ =440Hz の場合、ラより低い方の ド=262Hzである。
高い方の ド=524Hzである。
ここで ドード のオクターヴが丁度2倍の周波数であることに気付く。
262:524=1:2 という整数比である。
12等分平均律とは 262Hz から 524Hz までのオクターヴを等しい比率で12等分したものであり、これが今日我々が弾いているピアノの調律法である。

ピアノのオクターブ内には、白鍵7個、黒鍵5個が含まれる。黒鍵とは左右にある白鍵の丁度中間の音である。例えば ド と レ の白鍵の間にある黒鍵は ド♯ あるいは レ♭ と呼ばれる。ド♯ は ド より少し高く、
レ より少し低い音である。白鍵黒鍵合わせて12個の音がすべて等しい比率で周波数の増す調律を12等分平均律という。

さあこれから本題に入る。

ド=262 から 高いド=524 までを等比率で分けるにはどうすればよいだろうか?
それは 262 に何かの公数を12回掛けて 524 になればよいのだ。
従って公数は2の12乗根になる。この計算は省略して答えを言うと
1.0594  である。
ド=262 に1.0594 を12回掛けると オクターヴ高いド=524 になる。
例えば ド♯ は ド×1.0594=262×1.0594=278である。
レは ド♯×1.0594=278×1.0594=295である。同様にして12回の掛け算をすると524 になる。 
ド=262、ド♯=278、レ=295、レ♯=313、ミ=332 ・・・・・・・・・高いド=524 である。

ド=262ならば、263, 265, 267, 268・・・・・は何と言えばよいのだろうか?
ド とも言えないし、 ド♯ とも言えない。1Hzだけ高い263Hz は ド と言えないのかという問題が起こる。
アバウトに 262 の周辺の周波数を ド というのか?
それなら ド と ド♯ の丁度中間の270Hz は ド なのか、ド♯ なのかという問題も起こってくる。

262Hzの近辺をアバウトに ド だというのであれば、絶対音感は曖昧音感である。
絶対音感が絶対ではない理由はここにある。絶対音感は非絶対音感である。

ピアノの鍵盤は針が次に進んだ瞬間に数字が変わるデジタル時計のようなものだ。
デジタル時計はアナログ時計の秒針の動きを無視する。
つまりピアノの鍵盤は ド から ド♯ の間に至る秒針の動きを無視せざるを得ないつくりである。
音のデジタル化は鍵盤楽器と一部の楽器だけの現象であるから、絶対音感という言葉を、ピアノに限定された絶対"鍵感"というなら多少わかるが、絶対音感というのは疑問だ。

長年、絶対音感の牙城であった桐朋学園『子供のためのハーモニー聴音』による影響で絶対音感教育が日本中津々浦々まで盛んであった。しかし桐朋の室長であった別宮貞夫氏は「われわれは皆絶対音感を持っていなかったので、それがすばらしいと思ってしまったんだね。私は絶対音感訓練の加熱が原因で教室をやめたのです」と述べている。
また、桐朋の教室の生徒であったピアニストの青柳いずみこ氏は「思ってしまうのは勝手だが、それで集団訓練された子供の身にもなってほしい。古典やロマン派の音楽を演奏する際にはむしろ障害になっていると思う」と述べている。
青柳いずみこ氏は集団訓練で440Hzの12等分平均律の音感だけを身につけてしまった。しかし実際の音楽の現場では標準ピッチや音律の多様性があって、身につけた”絶対音感”なるものと一致しない場合があるから困るという意味であろう。
また「障害になっている」というのは古典派やロマン派の調性音楽は相対音感的に理解するものなので、”絶対音感”的な音の把握では、音楽の理解の障害になるという意味である。
このようにかつての憧れだった”絶対音感”なるものは非常に問題が多いのである。




謎のカノン

《音楽の捧げもの》( Musikalisches Opfer) BWV 1079 は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ晩年の作品で、1つの主題に基づく曲集である。
その中にはリチェルカーレ2曲とトリオソナタ、ならびに種々のカノンが含まれる。主題はフリードリヒ大王がバッハに与えたとされている。ハ短調、8小節、王者の威厳にふさわしい主題である。
この作品はバッハがフリードリヒ大王に捧げたもので、とりわけ高度な対位法技巧が駆使されており、種々のカノンは謎に満ちている。

カノン (canon) とは、同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する 様式の曲を指す。
一般に輪唱と訳されるが、輪唱は 全く同じ旋律を追唱する(同度カノン)。
これに対してこの曲集では、開始音の異なるものが含まれる(5度カノン、2度カノン、etc.)。


今回は謎のカノンの中から《蟹のカノン》および《螺旋カノン》と呼ばれるものを取り上げる。

まず《蟹のカノン》について。
これは蟹の横歩きのようなイメージからの通称だろうが、バッハは「2声の逆行カノン」とだけ書いた。
1つの旋律を頭と尻尾から同時に演奏すると、2つの旋律が互いに主題となり対旋律となって美しい響きを織りなす。
蟹行というのは頭から読んでも後ろから読んでも同じというあれとは意味が違う。
例えば「しんぶんし」はどちらから読んでも「しんぶんし」だが、これを頭と尻尾から同時に演奏しても単なる斉唱(ユニゾン)である。ハーモニーを紡ぐことはできない。
バッハの「蟹のカノン」は他の追随を許さない高度な技法である。


次に《螺旋カノン》について。
これは王の主題を装飾変形して定旋律としている。そこに美しい対旋律が寄り添う。しかもその対旋律は5度上で1小節遅れで模倣される。つまり3声である。主題、対旋律、5度上の1小節遅れの対旋律、合計3つである。

主題が途中で1全音上に昇り、その調のまま、2回目の王の主題に突入するというパターンを繰り返すカノンである。かくて王の主題は繰り返される度にハ短調→ニ短調→ホ短調→嬰へ短調→変イ短調→変ロ短調→ハ短調と7回目にもとの調に復帰する。これが「螺旋」と言われる由縁である。
バッハはこの楽譜に「調が上昇するように王の栄光も高まらんことを」と添え書きした。

マッテゾンの調性格に従えば、王の主題をハ短調で奏すれば「並はずれて愛らしい」、ニ短調で奏すれば「信仰深く穏やか」、ホ短調で奏すれば「悄然とし悲しげな状態」、嬰へ短調で奏すれば「ひどい憂鬱」、変イ短調は「記述なし」、変ロ短調も「記述なし」となる。「記述なし」とは当時の調律法では極端な響きになるためにほとんど用いられなかった調である。
《螺旋カノン》をマッテゾン流に解釈すれば、調が上昇していくにしたがって、王の栄光が高まるどころか悲しく憂鬱に沈み込んでいき、最後は王の栄光の崩壊ということになる。

バッハがもし調性格というものにこだわっていたならば、調性格に従って王の栄光が徐々に高まるように全く違う配列を考えたかもしれぬ。しかしバッハは調性格に全く配慮せずに調の配列を選んだ。もしバッハが調性格にこだわっていたならば、ハ短調で与えられた主題を他の調で書くことすらできなかっただろう。なぜなら調の変化によって主題の性格が変わってしまうなら、王の栄光は揺らいでしまうからだ。どの調でも主題の性格が不変であると考えたからこそ、バッハは調の上昇とともに王の栄光も高まると考えたのだろう。


「調が上昇するように王の栄光も高まらんことを」とバッハが書いた根底に、調性格の否定を読み取ることができる。

またバッハはこのカノンの記譜法において、調号としてのシャープ、フラットを使わず、曲の最初から最後まですべての音を臨時記号で表している。これはバッハのフーガの書き方にも通ずる。

バッハのフーガは冒頭の主題が主調で提示され、その直ぐ後に5度上の調で、また直ぐ後に元の主調で、またまた直ぐ後に5度上の調で主題が提示される。
一つのの調にとどまる時間が極短に短い。
もし調が変われば調性格も変わるという考え方ならば、フーガは1曲が終わるまでに、いくつもの性格が目まぐるしく変わることになる。
しかし実際は調が複雑に変化し一つの調に長くとどまらないと言う意味で転調がないと言った方が妥当である。
バッハのフーガは調性格の否定が根底にあり、それはイコール式の考え方に通じるものである。

バッハ礼讃会

1か月ほど前に開催したバッハ礼讃会は大好評、盛会のうちに無事終了することができました。
バッハ礼讃会というのはバッハの曲でバッハを礼讃する独自の音楽会です。いわゆる演奏会のようなものとは違います。またピアノ発表会とも違います。バッハ礼讃会は宗教的、哲学的音楽会です。同時にバッハ慰霊祭でもあります。
バッハは江戸の中期、我が国が鎖国している間にドイツで活躍し、1750年7月28日に亡くなりました。私はバッハの祥月命日に拘りまして7月28日に一番近い日曜日にバッハ礼讃会を開催させていただきました。今年はなんとバッハの264回忌ということになります。バッハの命日は単に一作曲家の亡くなった日ではありません。バッハの死はいろいろな意味で西洋音楽の分水嶺をなす音楽史上最も重要な日なのです。

バッハ礼讃会はプロテスタント教会の礼拝堂で行いました。
礼拝堂の正面右側にはバッハの肖像画を飾りました。バッハの会に参加しておられる画家が描いてくださった油絵です。
正面の左側にはスクリーンを用意しました。曲にマッチした言葉や、バッハの生涯などを書いて映し出しました。音楽を聴きながら字幕を読んでいただく仕掛けです。


演奏曲は、平均律クラヴィーア曲集、G線上のアリア、主よ人の望みの喜びよ、ブランデンブルク協奏曲、ミサ曲ロ短調のバスのアリア、フランス組曲、目覚めよとわれらに呼ばわる物見らの声、etc

珍しい演奏としては法衣をまとった臨済宗の僧侶の出演です。《ブランデンブルク協奏曲》に合わせて複雑なリズムを木魚で叩かれました。その瞑想的な雰囲気の中に音楽の生命がイキイキと立ち上ってくるようでした。
同じようなものとしては紋付き袴姿で鼓を打ってくださったプログラムもありました。《G線上のアリア》に合わせて「イヨー、ポン」と盛り上がっていき、会場は不思議な幽玄の世界に包まれました。
神様は変幻自在です。このような変幻自在なコラボが可能なのはバッハだけでありまして、モーツァルトやショパンでは不可能なのです。変幻自在のバッハは神様の音楽であることの一つ証明であります。

メインはフーガBWV 578 の合奏です。ピアノ教師、主婦、元小学校の校長先生などによる7台のキーボードの合奏です。バッハのフーガがなぜ難しいかと言うとソプラノ、アルト、テナー、バスの4パートを一人で全部弾かなければならないからです。それを7人で手分けして演奏すれば、とても簡単です。その上、♯♭を最小限にして簡単に弾き易く移調した楽譜を使うのですから、誰にでもできるのです。ふつうならバッハなどとても弾けないという人もこういう形なら、気軽にバッハに触れることができます。
 
難曲をお弾きになった方はバッハに造詣が深く、ドイツ的な超一流の演奏家や、旧態依然とした頑ななバッハ解釈から抜けられないご様子で、最初は出演を躊躇しておられました。私が「上手に弾こうとせず、般若心経を読むようなつもりで弾いてください」と申し上げると納得して出演してくださいました。猛スピードでミスなく綺麗に弾くだけなら、高度に進化したコンピューターの方がはるかに有能です。そうではなくてバッハの音楽の中に息づく生命の実相を感じることが最も大切なのです。そうすることによって心が調律されるのです。潜在意識が浄化されるのです。彼は文字通り般若心経を読むようにお弾きになりました。後で彼は次のような感想を述べてくださいました。「これまでバッハが書いた音符が多くの人の目に触れ、多くの人によって音にされて来た。その中の一人がこの私なんですね。多くの人がバッハの音楽の中に包まれてきた。これって、ある意味で、バッハは今こうして弾いている私のために書いてくれたとも言えるんですね。バッハ礼讃会の全体がそんな雰囲気でした」と、自らの出演を通して言葉にならないバッハの真髄を観じ取っていただけようでございます。

やわらかなバッハの会
第1日曜日 輪奏会17:00 PM
第2金曜日 輪読会10:00 AM
第4土曜日 輪奏会10:00 AM

バッハ・イン・ザ・サブウェイズ
2018.3.21(水・祝)

第5回バッハ礼讃音楽会
2018.7.29(日)

お問い合わせはこちら

<プロフィール>
やわらかなバッハの会 代表
新しい鍵盤楽器記譜法「イコール式」の創始者

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取り
バッハのとりこになった。
これまで約400人のピアノレッスンを通じて、バッハのフーガを弾くことの重要性を認識し、初級者でもバッハ演奏を楽む方法を提案。

2007年 世界で初めての楽譜《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》カワイ出版 

2009年 音楽書『やわらかなバッハ』春秋社

2013年「やわらかなバッハの会」設立

2014年 バッハ礼讃音楽会 (於 旧県会議事堂) 毎年開催

2016年 バッハ・イン・ザ・サブウェイズ (於 新山口駅南北自由通路 )毎年開催

2017年 Bach Network UK 対話会議研究発表 (於 ケンブリッジ大学)

Prof.Yo Yomita (富田庸) 講演会「バッハを嗜む」主催 (於 山口大学)

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも調性格の恣意性を指摘しています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の中の難しい調を簡単な調に移調してまず親しむことが大切です。初級者は更にそれをアンサンブルで楽しむことが大切です。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。


世界唯一! 平均律クラヴィーア曲集の移調
音楽の構造が良く解る










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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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