やわらかなバッハの会

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所

バッハ生誕祝い8時間演奏

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バッハの誕生日3月21日の9時から17時までの8時間、誕生を祝ってバッハの音楽を道行く人々に届けました。
場所は新幹線「新山口駅」の自由通路。垂直に植えられた自然の緑の壁が美しい駅通路で、電子ピアノ、リュート、ギター、二胡、クラリネット、ピアニカ、ヴォーカルによる、オールバッハプログラム。曲目は、《平均律クラヴィーア曲集》《G線上のアリア》《トッカータとフーガ ニ短調》《フーガ ト短調》《チェロ組曲》《目覚めよとわれらに呼ばわる物見らの声》《フーガの技法より》《われはここ飼葉桶のかたえに立ち》《リュート組曲》《チェンバロ協奏曲5番より》《われらが神は堅き砦》《インヴェンション》・・・・etc.・・・最後は演奏者全員で《主よ人の望みの喜びよ》を歌いました。

演奏者はピアノ教師、デモンストレーター、大学教授、医師、画家、牧師、ピアノ調律師、公務員、会社社長、主婦など、「やわらかなバッハの会」のメンバーが中心。

今回の企画は数年前、ニューヨークの地下鉄で始まった「バッハ・イン・ザ・サブウェイ」を山口県で初めて試みたものです。「バッハ・イン・ザ・サブウェイ」は一人のチェリストが、バッハの誕生を祝って、クラシック音楽を次世代に繋ぐために、一日中バッハの音楽を奏でたことから、世界中に広がったイベントです。世界の150都市以上、国内では10都市ほどがイベントに参加しました。

新山口駅の通路で、「やわらかなバッハの会」のメンバーや、応援のスタッフや聴衆が見守る中、ソロやアンサンブルでバッハの演奏が繰り広げられました。時ならぬ珍しい状況の通路は、急ぎ足の乗り換え客、足を留めてしばし耳を傾ける通行人、ベンチに腰掛けてゆっくりとバッハに浸る新幹線待ちの旅行者などで賑わいました。自然の緑の壁と、太陽の光、風が一体となって駅の通路は、やわらかな癒しの空間となりました。

新聞記者たちもいろいろ質問をしたり、演奏者の写真を撮ったりして、記事を書いてくれました。
読売新聞、中国新聞、山口新聞の3誌に写真入りで掲載されました。

通行人へのインタビューは「生で音楽を聴く機会が少ないのですごくいい。バッハの音楽が心にしみた」
「バッハの音楽はオルガンで演奏するイメージがあるけど、ピアノの音色で聞くと、違った柔らかい印象ですね」
と紙面に掲載されました。

また演奏者の一人は「私のような素人でもバッハを楽しんでいる。その雰囲気が伝われば」と話したと紙面にありました。

主催者への取材はかなり長かったのですが、要約されて次のように書かれていました。

「バッハの音楽は難しいと思われているが、工夫すれば誰でも楽しめる。美しい旋律を多くの人に届けられたら。今後も同様の催しを開いていく」(読売新聞)

「バッハの音楽は個人の感情を超えた世界を表現していて心が落ち着く。一方で演奏が難しく、とっつきにくいと思われがちなため、ソプラノやバスなどパートごとにピアノの楽譜を分け、複数で演奏する方法を日頃から実践しているという」(中国新聞)

「青空や緑が広がる場所なのでバッハの音楽とマッチし、癒しの空間になった」(山口新聞)

今回はバッハの音楽や 「バッハ・イン・ザ・サブウェイ」 を多数の方に知っていただく良い機会になりましたことを感謝申し上げます。
演奏者にとっては8時間が短く感じられるほど楽しい一日となりました。
ご協力いただいた演奏者、スタッフ、聴衆の皆様に心より御礼申し上げます。

バッハのテンポ

バッハ平均律クラヴィーア曲集のテンポはアーティストによってかなり違っている。
例として平均律クラヴィーア曲集第1巻24番プレリュード、歩き続けるバスの上を2つの声部が対位法的に進行する夢のような美しいトリオソナタ。

速いテンポはグスタフ・レオンハルト(1928-2012)である。彼はオランダに生まれ、ウィーンやアムステルダムで活躍したチェンバロ奏者で、ピリオド楽器による古楽演奏の先駆けを作った。彼はこの曲を ♩=100  で演奏している。

遅いテンポはフリードリッヒ・グルダ(1930-2000)である。彼はウィーン生まれのピアニスト、広いレパートリーに加えて、ジャズにも興味を示すなど、新しい音楽の可能性を探る挑戦者だった。彼は♩=48 で演奏している。前述のレオンハルトと比べると、ほぼ2倍の遅さである。2人とも同世代の音楽家であるが、これほどまでにテンポは違う。

《平均律クラヴィーア曲集》といえば必ず名盤として名が上がるのは、 エドゥイン・フィッシャー(1886-1960)である。彼はスイスに生まれたピアニストで、少し古い時代に活躍した。テンポ は♩=66 とややグルダに近いが中庸のテンポである。

同じく名盤として名高い スヴャトスラフ・リヒテル(1915-79) はソビエト連邦のピアニストで、レオンハルト、グルダとほぼ同世代である。彼も ♩=52 でかなりゆっくり弾く。グルダに近い。

独特の解釈で人気の グレングールド(1932-82) はカナダのピアニストで奇異な行動で知られる。彼は ♩=88 でやや速めだが、レオンハルトの速さにはかなわない。

上記の5人を遅いテンポから順に並べてみると、グルダ・・・リヒテル・・・フィッシャー・・・グールド・・・レオンハルト となる。いったいどのテンポが正しいと言えるのだろうか?

古楽の第一人者アーノンクール(1929〜)はバッハの演奏について次のように述べている。「もはやすべてを定められたものとして受け入れることはない。不遜や誤解にみちた伝統によって築かれた解釈の不確実性は、関心を抱くものの探求によって揺らいでいる」

バッハの解釈は変遷し続けてきたし、これからも変遷するだろう。しかしバッハの音楽はどのように演奏しようとも、音楽の生命を損なうことがない。様々な演奏法で、様々な素晴らしさを発揮する。どのように演奏してもバッハになるところが、他の作曲家と違う。バッハは変幻自在の音楽といえるだろう。

調性格は長調短調の2種類だけ

全調が弾ける12等分平均律が世界の標準になって、せいぜい150年ほどである。昔は不等分音律だった。一口に不等分音律といっても全調が弾ける不等分と、限られた調しか弾けない不等分がある。

全調が弾けるということは、極端な響きになる調がないということである。どの調も同じように支障なく弾けるということは、どの調もほとんど等しいということであり、不等分音律といっても12等分平均律に限りなく近いということである。12等分平均律における調とは音高が異なるだけである。12種の長調は名こそ違えど、音階構造はどれも全く同じで、調性格はすべて「長調は明るい」といえるだけだ。同様に12種の短調もすべて「短調は淋しい」」といえるだけだ。つまり12等分平均律の調性格は長調と短調の2種類しかない。ハ長調、ニ長調、イ長調など名前はいろいろあるが、調性格までいろいろあるのではない。ある長調を他の長調に移調するということは、移高という方が適格である。

「確かに12等分平均律においては調性格は2種類だけだ」 と理解はできるが、しかし 「芸術家のイマジネーションの中には、しっかりと調性格が存在している」と感じる人も多いのではないだろうか。

そこで、不等分音律の時代に盛んに論じられた調性格について少し調べてみよう。不等分音律は調によって音階構造がそれぞれ違う。、12等分平均律は何調でも全く同じ音階構造である。従って調性格の違いを論ずるには、音階構造の異なる不等分音律によらなければならない。
例として、昔の調律法、つまり不等分音律における「ト短調」の調性格について調べてみよう。

・マッテゾンは『新管弦楽法』1713年において 「ト短調は最も美しい調性、優美さ、憧れ、満足」と最大級のプラスイメージを述べた。

・シューバルトは『音楽美学の理念』1789年において 「ト短調は不機嫌、不愉快、恨み」と最低のマイナスイメージを述べた。

・ミースは『調の性格ー試論』1948年において 「ト短調に確固たる性格はない」と中立の立場をとった。

調によってはある程度共通した性格が述べられる場合もあることを断っておくが、正反対の性格が述べられるとは不可解である。また、ブルーメが「ト短調は激しい悲劇、憧憬の甘美さ」と言ったように、どっちかわからないような意見を述べる論者もいる。

それでは、ここで調性格の代表格と言えるマッテゾンの意見に耳を傾けてみよう。
マッテゾンは、
「調の性格について何か確実なものを定めようとすればするだけ、おそらく、意見の違いも表面化してくるように思われる。この問題をめぐる見解はほとんど数えきれないほどあるからである。その理由としてただ一つ考えられるのは、人間の体液の組織が一人一人非常に異なっていると言うことである。それゆえ、例えばある調を多血質の人は楽しげで快活に感じ、一方、粘着質の人は、ものうく、嘆き、悄然としているように感じたとしてもまったく不思議はないのである」

マッテゾンの見解によると調性格は人それぞれの感じ方があり、恣意的ということになる。

またマッテゾンは『完全なる楽長』1739年 において 「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならば、どんな調もそれ自体では、その逆を作曲しえないほど悲しかったり楽しかったりすることはできないからである」とも述べている。

つまり、マッテゾンは、「絶対的な調性格は無い」と言っているのである。マッテゾンは不等分音律においてさえこのように言うのである。

ある曲の曲想が楽しかったり悲しかったりするのは、調性格に由来するのではなく、実は曲そのものに原因がある。曲そのものが、楽しい曲であったり悲しい曲であったりするだけだ。だから移調して調を変えても曲想は変わらないのである。楽しい曲を弾けば、それは何調で演奏しても楽しいのである。私たちは、ピアノ以外において、このことを極自然に受け入れているのに、ピアノに向かえば調性格に捉われてしまうのだろうか。

・私たちはカラオケに行って、ピッチを上げ下げ、つまり移調して歌っている。
・吹奏楽は移調楽器が多いので移調はごく当たり前にやっていることである。
・マッテゾンの時代のパオプオルガンは町によってピッチが違っていたので、オルガンも移調楽器だった。
・シューベルトの歌曲集は、低声用と高声用に移調された楽譜が出版されている。
・マッテゾンの時代と現代のピッチは約半音違うので、昔のト短調は現代の嬰ヘ短調である。
・バッハは24の調を網羅する《平均律クラヴィーア曲集》を簡単な調からの移調を試みて完成させた。
・《平均律クラヴィーア曲集》 は同一調に同一の格があるとは言えない。
論文017
論文018
 例えばニ短調を比較すると1巻と2巻のプレリュードは性格が違う。1巻のニ短調は瞑想的、内省的な落ち着きが感じられ、2巻のニ短調は生き生きと波たつ力に満ちている。

バッハは時代に先駆けて24すべての調が使用可能な調律法を見出したが、それは同時に、調による差異がほとんど消えることを意味する。バッハは調性格が恣意的だと理解したからこそ、自ら移調を試みたのではないだろうか。

ケラー(Hermann Keller 1885〜1967) はバッハの鍵盤音楽に関する著書や楽譜校訂で知られるドイツの音楽学者であるが、彼はこう述べた。
「平均律クラヴィーア曲集以来ようやく、調の性格と言う問題が純粋に精神的なもの、作曲者と演奏者のなかにのみ存する問題となったのであった」

ゾルゲ(Georg Andress Sorge 1703〜78)はバッハの息子の世代にあたるドイツの作曲家、オルガニストである。彼はマッテゾンが『新管弦楽法』で述べたところの調性格論に対して、「調のアフェクト(情念)を述べる場合は、長調は楽しく愉快な感情に適し、短調は悲しく憧れに満ちた感情に適していると言えるだけである」と調性格を嘲笑した。嘲笑されたマッテゾンも後になって「調性格について絶対的なことは言えない」と言ったことは前に述べた通りである。

ウィーン古典派の血液

バッハ亡きあと、バッハの作品は全世界にとって標準的なウィーン古典派の学匠たちの中へ浸透していった。バッハは生前、自分の作品を世間にあまり認めさせることができなかったのに反して、バッハの作品はウィーン古典派の血液として,識者やドイツのオルガニストによって伝承された。その流れの延長線上に、フォルケル(1749-1818)の『バッハの生涯、芸術および作品について』が史上初めて登場し、ドイツ愛国主義と共にバッハを狭いサークルから担ぎ出した。バッハの理解者の一人、ロホリッツ(1769-1842) も、彼の指導で創刊された 「一般音楽新聞」 にバッハについて数多くの記事を書きバッハの音楽が一般に広く理解されることに大きな貢献をした。
それまで主としてバッハのクラーヴィーア曲とオルガン曲が伝承がされてきたが、メンデルスゾーンは新しいバッハ伝承に貢献した。メンデルスゾーン(1809-47)
はマタイ受難曲を復活上演し、100年の眠りから目覚めさせのである。その後シューマン(1810-56)らがバッハ協会を設立し、バッハ全集の刊行が始まった。

バッハ伝承の初期の段階ではスヴィーテン男爵(Gottfried van Swieten 1734 - 1803)によるところが大きい。彼はオーストリア帝国政府の要人であり、大使としてベルリン滞在中にバッハの価値をいち早く認め、その作品を収集した。また彼は、ウィーン楽友協会の前身である音楽協会を設立した。スヴィーテン男爵はバッハのほかにヘンデルとバッハの息子達の作品も加えたバロック音楽のコレクションを作り上げ、ウィーン古典派の陰の指導者となった。

学校の音楽室にズラリと掲げてある音楽家の肖像画はバッハが一番左端である。次がウィーン古典派と呼ばれるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンである。
 
モーツァルト(1756-91)は、バッハ没後6年目に生まれたが、ウィーンに移り住んで間もない頃、スヴィーテン男爵のサロンに顔を出した。モーツァルトの手紙には「毎日曜日、12時にスヴィーテン男爵家へ行きます。そこではヘンデルとバッハしか演奏されません」とある。彼がバッハやヘンデルの作品のを知ったのは男爵のお陰だった。男爵はモーツァルトが亡くなった1791年12月5日には、茫然自失の妻コンスタンツェに代わって葬儀を取り仕切った。また1793年1月のレクイエムの初演に尽力したのもスヴィーテン男爵だった。

モーツァルトは旅の途中、ライプツィヒに立ち寄り、バッハのモテットを聴くやいなや「ここにはまだ学び取るものがある」と叫び、それを書き取ったという逸話も残っている。バッハに触れその真価を見抜きバッハを模範としていくつかのフーガを書いたり、《平均律クラヴィーア曲集》のいくつかを弦楽四重奏に編曲したりした。
モーツァルトが夭折しなければマタイ受難曲の蘇演を聴くこともできたであろう。

モーツァルトより先に生まれ、モーツァルトより後に亡くなったハイドン(1732-1809)は、バッハが亡くなったとき18歳だったことになる。ハイドンもスヴィーテン男爵のサロンでバッハとヘンデルの作品を知ったのである。ハイドンはモーツァルトよりいっそう深く男爵のサロンに入りこんでいた。代表作の《天地創造》と《四季》の台本をドイツ語に訳したのは男爵である。ハイドンは《平均律クラヴィーア曲集》の1801年の初版本を所有しており、当時としては珍しかった《ミサ曲ロ短調》も持っていた。ハイドンはバッハの息子エマーヌエルから教えを受け、父ゼバスティアン・バッハの精神上の弟子となったのである。対位法についての。

ベートーヴェン(1770-1827)はバッハ没後20年目に生まれた。彼は師のネーフェを通じて《平均律クラヴィーア曲集》を知った。それを早くも13歳で「すでにきわめて完璧に」弾いたという。ベートーヴェンもスヴィーテン男爵のサロンに出入りし、皆の前でバッハのフーガの演奏を引き受けていた。ベートーヴェンは《平均律クラヴィーア曲集》から生涯離れることはなかった。バッハの作品を印刷するようにブライトコップフ社に繰り返し手紙を出したり、出版予定のすべての作品を前もって予約したり、ホフマイスター社から予告されたクラヴィーアとオルガンのための作品全集に熱烈な賛辞を送ったりした。1800年にロホリッツがバッハの娘の生活を支えるための募金を呼びかけたとき、まっさきに寄付金を送った一人でもあった。さらに、彼のスケッチ帳にはBACHによる序曲の計画が書き込まれておりバッハへの崇拝の念は相当深かった。バッハのことを「ハーモニーの生みの親」と称賛したベートーヴェンの思いは、同時代の心ある作曲家と共にマタイ受難曲の蘇演となって結実するが、それをベートーヴェンは見るこを得ず亡くなった。
ウィーン古典派の血液となって体のすみずみまで浸透したバッハの音楽は、続くロマン派の作曲家にも深い影響を与えた。

富田庸教授のセッション

2015年11月14〜15日に第66会日本音楽学会全国大会が開催された。
学会発表の中から英国クィーンズ大学、富田庸教授の発表を紹介する。
 「J.S.バッハの作曲過程と演奏へのヒントを八分音符の連桁から読み解く」 という大変興味深いセッションである。

富田先生はバッハの自筆譜の八分音符には、2種類の連桁があるという全く新しい視点を示された。改めて自筆譜ファクシミリを丁寧に見てみると確かに2種類ある。
例えば4分の4拍子の同一曲の中に、八分音符が2連桁の形と4連桁の形が混在している。ピアノで弾けばどちらでも結果は同じであるが、バッハは何らかの意図をもって2種類の連桁を使い分けたのではないだろうか。

一例を紹介する。曲は《平均律クラヴィーア曲集 第1巻24番 ロ短調フーガ》である。
フーガの主題は19個の八分音符が続き、やがて二分音符にたどり着くが、19個の八分音符の連桁が曲中に2通りあるのだ。
24番フーガ分析
完全な形で提示される主題は太字、断片や不完全な呈示は灰色+[]で示した。
八分音符の2連桁は薄い灰色で、それ以上の長い連桁は濃い灰色で示した。

完全な形で提示される13回の主題のうち、八分音符2個づつの連桁が全く入ってないのが3か所あり、それらは曲の最初の方に集中している。曲の終わりの方になると八分音符2個づつの連桁が増える傾向にある。

連桁を市販の楽譜で確認するのは難しい。なぜならバッハの書いた連桁を正確に反映してないからである。弾けば結果は同じであっても、連桁の在り様を正しく確認するには自筆譜ファクシミリを参照しなくはならない。自筆ファクシミリの無い場合は、《自筆譜によるオリジナルクレフ版 Urtext Edition in original Clefs from the autograph Manuscript, edited by David Aijon Bruno》 にバッハの自筆譜通り打ち込んだ楽譜があるので便利だ。

富田先生の推察によると、バッハが2種類の八分音符の連桁を使用した理由は以下の4つである。

1、音楽的に注意を払う
  長い連桁は水平的(旋律的関心)、2個の連桁は垂直的(和声的関心)を示す
  
2、音楽的素材の使い分け
  モチーフには長い連桁、終止形の音型には2個の連桁を使用する

3、書体
  音の薄い箇所では長い連桁、音の厚い箇所、密集箇所では2個の連桁を使用する

4、曲中のポジション
  曲の始めの部分は長い連桁、曲の終わりの部分は2個の連桁を使用する

性格的な連桁が使用された2種類のタイプとしては以下の説明があった。

1、跳躍する音程が連合する八分音符群で、活発な演奏やスタッカートのアーティキュレーションを示唆するも  の(平均律第1巻3番嬰ハ短調 フーガの主題など)

2、同音上の繰り返し、音階の順次進行する八分音符群でゆったりとした速度とムードを示唆するもの(平均   律第1巻12番へ短調 プレリュードなど)

富田先生は、外国での研究生活が長く、英語や独語の論文が多いからだろうか、日本語に苦労するとおっしゃるが、日本語での研究発表を多くの研究者が待っていると思う。「J.S.バッハの作曲過程と演奏へのヒントを八分音符の連桁から読み解く」という新しい課題は、今後の発展が大いに期待されるところである。尚、この研究はオックスフォードジャーナル EARLY MUSIC に掲載されるということである。

バッハにとっての「作品」とは

 《マタイ受難曲 BWV 244》 といえば、これはバッハの作品である。バッハの「作品」という表現はわれわれにとって自明のことである。しかしバッハ自身にとって「作品」という概念はどうであったかを考えてみたい。

BWV はバッハの作品番号を示すもので、 Bach(バッハ) Werk(作品) Verzeichnis(目録) の略である。これはバッハ没後200年ほど経って、フランクフルト大学図書館に勤務するシュミーダー(1901~1990)がバッハの全作品をジャンル別に整理したものである。だからシュミーダー番号とも言われている。この目録が国際的標準になり今日に至っている。というわけで、バッハは BWV に全く関与せずである。われわれは後世の「作品」観をバッハに当てはめているにすぎない。

われわれの概念からすれば、「作品」とは作者が自分の名前を永遠に刻むべく自ら制作するものである。独創的なもの、出来上がったもの、他者が勝手に手を加えることのできないものを誰々の「作品」という。しかし、礒山雅氏によると、バッハの手紙や序文、推薦状などに Werk (作品)という言葉は無く、バッハの文章の中で頻繁にあらわれるのは、Arbeit(仕事、作業、研究)だという。したがってバッハの手紙や序文は「この作品をお収めください」ではなく「この仕事をお収めください」という言い方をしていることになるという。バッハにとっての音楽は完成された「作品」ではなく、作業を意味する。それは現在進行形の「音楽」への意識である。「〇〇という作品を書いた作曲家」という発想はバッハにはないのである。バッハは常に現在進行形の音楽実践能力を示し続けることが重要だと考えていたのである。


音楽を「作品」ではなく、現在進行形の作業と考えるバッハにとって、作曲と演奏は不可分である。当時の楽曲は永久保存的なものではなく、1回限りの機会のために作られることが多かった。即興演奏も言うまでもなく1回限りのものである。たとえ楽譜に書かれた曲でも演奏の度に姿を変えた。
バッハはフリードリッヒ大王に招かれ、王が提示したテーマで見事な即興演奏を披露した。そしてライプチッヒに戻ったバッハは、王のテーマによる、3声と6声のリチェルカーレ、トリオソナタ、さまざまなカノンの楽譜を王に捧げた。これが《音楽の捧げもの BWV 1079》であるが、王の前で演奏したものと、楽譜に書いたものは、当然異なっていただろう。

われわれは《平均律クラヴィーア曲集》 と言うが、これもバッハは 《Das Wohltemperierte Clavier》 としか書いてない。《巧みに調律されたクラヴィーア》 という意味が書かれてあるのみで、「曲集」に当たる言葉は無い。われわれは後世の「作品」観をバッハに持ち込み、《平均律クラヴィーア曲集》も既に完成した作品として過去を向いた捉え方をしているようである。バッハにとっては、上手く調律されたクラヴィーアを使用する作業というほどの意味だった。 《平均律クラヴィーア曲集》は バッハが演奏する度に、生徒にレッスンする度に改訂の手が加えられ、姿を変え続けた。それでよいとバッハは考えていた。

バッハの教育用クラーヴィーア曲はすべて歌うような奏法の習得に加えて、作曲に関する充分な基礎感覚を養うことが求めらている。演奏と作曲は一体のものであり、演奏を学ぶことは作曲を学ぶことだった。
当時の作曲作業は定旋律の新たな発見や結合であると理解されていた。バッハにおいても当然のことながら音楽とは機会の度に生み出される新たな結合であり、ひとたび出来上がれば、再び新たな結合に委ねられるものである。
カンタータなども演奏の機会ごとにその条件に対応するように作り変えられることが多かった。例えば結婚式のカンタータ 《満ち足れるプライセの都よ BWV 216 》 の第3曲は 《われはおのがうちに満ち足れり BWV 204》 からの転用である。同じく第7曲は《破れ、砕け、壊て BWV 205》 からの転用である。

礒山氏によると バッハは Werk(作品)という言葉を使わなったということである。この言葉がバッハに関して初めて現われるのは、バッハの没後まもなくである。息子のC.P.E.バッハが 父の大作《フーガの技法》 を出版する際に Werk((作品) という言葉を使って、《フーガの技法》 の販売広告を出したのが最初である。
またバッハの最晩年における《ミサ曲ロ短調》は演奏の機会が存在しない状況下であるにもかかわらず、死後に残すことを意識して完成させたと思われる。この発想はWerk(作品)という言葉こそ使わなかったが、近代的な意味での「作品」という観念がバッハの意識の中に芽生えていたとみることもできるだろう。

バッハが自身の手で移調した作品

《G線上のアリア》 は 《管弦楽組曲第3番 ニ長調》 の中の一曲を、ヴァイオリンとピアノ用に編曲して広く知られるところとなった。編曲にあたってニ長調の管弦楽組曲をハ長調に移調した。このような後世の音楽家によるバッハ作品の移調や編曲は枚挙に暇がない。
しかし、今回は、後世の音楽家によるものではなく、バッハ本人が自身の手で移調した作品だけを挙げる。

BWV 232 《ミサ曲 ロ短調》 の第17曲「十字架につけられ」 ・・・・・ へ短調 → ホ短調
  カンタータ 12番 「泣き、嘆き、憂い、怯え」の第2曲 からミサ曲ロ短調の「十字架につけられ」に転用する  際にバッハはへ短調からホ短調に移調した。

BWV 243  《マニフィカト ニ長調》 ・・・・・・・ 変ホ長調 → ニ長調
  クリスマス礼拝用に最初は変ホ長調で作られたが、他の祝日にも演奏できるものに作りる際に、トランペッ  トがよく響くニ長調に移調した。変ホ長調は♭3個、ニ長調は♯2個、この2つは非常に隔たった調であるが、  バッハは移調した。

BVW 515 《パイプにおいしいタバコを詰めて》 ニ短調 → ト短調
  息子のハインリヒが作ったニ短調の旋律(BWV 515a)を母親のアンナ・マグダレーナが筆写し、バッハがバ  スを加筆する際にト短調に移調した。

BWV 594 《オルガン協奏曲 ハ長調》 ニ長調 → ハ長調
  ヴィヴァルディの《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調》 を編曲する際にハ長調に移調した

BWV 831 《フランス様式による序曲 ロ短調》・・・・・ハ短調→ロ短調
  この曲は 《イタリア協奏曲 》 BWV 971 とともに 「クラヴィーア練習曲集第2部」を構成する作品。ヘ長調の   《イタリア協奏曲》と三全音の関係におかれているが、これは両者の対立を強調するための、出版時の工夫  と思われる。なぜなら、アンナ・マグダレーナの手で書かれたハ短調の筆写譜があるからだ。
  
BWV 846 〜 893 《平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第2巻》
  全曲が一度に書き下ろされたものではなく改訂の手を加えて編纂されたものである。曲集を編纂するにあ   たり、移調して収録された曲もみられる。主として遠隔調の曲がそうである。先に簡単な調で作曲したものを  半音上げるか下げるかの移調を試みたものが多い。

BWV 946 《フーガ ハ長調》 ・・・・・・・変ロ長調 → ハ長調
  主題はアルビノーニのトリオ・ソナタ 変ロ長調からとられた。

BWV 976 《協奏曲 ハ長調》・・・・・・・・ホ長調 → ハ長調
  ヴィヴァルディの 《調和の霊感 第12番》、ヴァイオリン協奏曲とチェンバロとオルガン用に編曲した。その  際バッハがハ長調に移調した。

BWV 978 《協奏曲 ヘ長調》 ・・・・・ト長調 → ヘ長調
  同じく 《調和の霊感》からの編曲

BVW 1030 《オブリガート・チェンバロとフルートのためのソナタ ロ短調 》 ・・・・・ト短調 → ロ短調
  移調の際と思われる3度音程の書き間違えが自筆総譜に散見されることから、もとはオーボエ用としてト短  調で書かれていた可能性が高い。 

BWV 1053  《1台のチェンバロのための協奏曲 第2番 ホ長調》 ・・・・・変ホ長調 → ホ長調
  バッハは 1726年に 《オーボエ協奏曲 変ホ長調》 を一端、ホ長調のオルガン協奏曲に編曲し、更に加   筆修正してチェンバロ協奏曲として完成させた。

BWV 1056 《チェンバロ協奏曲 第5番 へ短調》 ・・・・ト短調 → へ短調
  2楽章の有名な美しいラルゴはへ短調の平行調の変イ長調である。この協奏曲は2つの協奏曲からの組み  合わせで成立したものである。両端の速い楽章はおそらくヴァイマル時代に書かれたト短調のヴァイオリン  協奏曲にさかのぼる。これに対して2楽章のラルゴ変イ長調はカンタータ 156 番 「わが片足すでに墓穴に  入りぬ」の第1曲「シンフォニア ヘ長調」のオーボエのソロに豊かな装飾を加えてチェンバロ協奏曲に転用  した。その際ヘ長調から変イ長調に移調した

BWV 1057 《チェンバロ協奏曲 第6番 ヘ長調》・・・・・ト長調 → ヘ長調
  この曲は《ブランデンブルク協奏曲 第4番 ト長調》 のヴァイオリンパートをチェンバロに書き換えたもので  あるが、その際ト長調からヘ長調に移調した

BWV 1060 《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調》 ・・・・・ニ短調 → ハ短調
  原曲は 《オーボエとチェンバロのための協奏曲 ニ短調》である 



<バッハ自身の手による移調が疑われるもの>

BWV 539  《前奏曲とフーガ ニ短調》・・・・・ト短調 → ニ短調
  BWV 1001《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第1番》のフーガの編曲に、手鍵盤のみによるプレリュードを加え  た

<アンナ・マグダレーナ・バッハ の手による移調>

 BWV 82  《カンタータ 82番 われは満ち足れり》 ・・・・ハ短調 → ホ短調
    レチタティーヴォ 「Ich habe genug!」はハ短調をホ短調に移調して 《アンナ・マグダレーナ・バッハの     ためのクラヴィーア曲集》に収めた。
    同じく アリア 「Schlummert ein,ihr matten Augen」 は変ホ長調からト長調に移調して同曲集に収め     た
以上

ミサ曲ロ短調

鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)は今年創設25周年を迎えた。2013年にはバッハの《教会カンタータ》全曲録音を完成させるなど世界的な高い評価を受けている。

2015年7月28日バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)は第45回サントリー音楽賞受賞記念コンサートにおいて《ミサ曲ロ短調》を演奏した。この7月28日は後で述べるが重要な日である。

鈴木は言う。「ミサ曲ロ短調はバッハの作品群の集大成である。その理由は緻密な対位法を駆使していること、もう一つはラテン語の歌詞を使ったこと」

「ラテン語の歌詞を使ったこと」とはどういう意味か。
バッハはルター派教会に属し、プロテスタント信仰を持っていた。プロテスタント教会ではルターによるドイツ語聖書が用いられ、膨大な曲数の「教会カンタータ」はすべてドイツ語の歌詞である。一方カトリック教会ではラテン語典礼文に基づくミサが演奏され、すべてラテン語の歌詞である。プロテスタント信者としてのバッハが、ラテン語の歌詞を書く必要は全くないばかりか、むしろプロテスタントらしからぬ、よくないことになるのではないだろうか。
にもかかわらず、バッハは39歳から65歳で没する間際まで断続的にラテン語の歌詞を書き進めた。
ラテン語の歌詞を使うことがバッハの作品群の集大成なのか?
生前に《ミサ曲ロ短調》全曲が演奏された形跡もなく、作曲の目的に関する謎が深まるばかりである。

この点について鈴木は次のように主張する。
「バッハがラテン語の歌詞を使ったのは、カトリックとプロテスタントの垣根を超える共通語を意識したからだ。普遍的なものへの希求を最も感じさせる音楽」と。

私は拙著《やわらかなバッハ》 (2009年 春秋社)の”あとがき”として、この点について述べている。
「死を覚悟した時にバッハが書いたのは、《ミサ曲ロ短調》のクレド以降の部分だった。ドイツ語ルター派の会衆には、ラテン語のミサ曲は理解できないにもかかわらずである。バッハはカトリックに改宗したのではなく、プロテスタントとカトリックの融合、超時代性、超地域性をミサ曲というジャンルで集大成しようとしたのである。《ミサ曲ロ短調》は異なった宗教観を克服した世界平和へのバッハの最後の祈りと言うことができるだろう」

バッハ・コレギウム・ジャパンによる 《ミサ曲ロ短調》 の公演が行われたのが7月28日、この日がバッハの命日であることをうたっての演奏会であった。バッハの命日が一般に意識され始めたことは、私には喜ばしいことに思えた。

何故なら、わがイコール式音楽研究所は、2年前の2013年からバッハの命日を記念してバッハ礼讃音楽会を開催しているからだ。この音楽会はバッハの命日を意識して7月28日に一番近い日曜日と決めた。バッハが亡くなった日 1750年7月28日は、西洋音楽の分水嶺をなす日であり、1作曲家が亡くなった日というにとどまらないのではないか。バッハの誕生日を記念して世界中でバッハが演奏される 「バッハ・イン・ザ・サブウェイ」 の運動にも通じるのではないだろうか。

バッハ・イン・ザ・サブウェイ

バッハ・イン・ザ・サブウェイとは、NYのチェリストから始まった世界的ムーブメントで、J.S.バッハの誕生日3月21日に、プロアマ問わず街中でライブを繰り広げ、多くの方にバッハの音楽をお届けする運動です。

この運動は2010年3月21日、すなわち5年前のJ. S. バッハの誕生日、 チェロ奏者デール・ヘンダーソンが、ニューヨークの地下鉄ホームでひとりバッハの 《 無伴奏チェロ組曲 》 を弾き始めたことから起こりました。

地下鉄が走る喧騒の中にあってさえも、その音は道行く人の心を自然ととらえ、多くの人が足を止め、ほぼ初めて身近で聴く生のチェロの音色に感動を覚えたのです。地下鉄で偶然デール・ヘンダーソンが奏でるチェロの音色を聴いた多くの人は、300年前のバッハの音楽がときに鮮烈でときに温かく響き、たった一台のチェロからまるでオーケストラのように音が流れ重なっていくことに驚きました。

居合わせた人々は彼にチップを払おうとしますが、彼はそれを受け取らず、 かわりにポストカードを配りました。 そこにはこう書いてありました。

「偉大なる”音楽の父”ヨハン・ゼバスティアン・バッハの誕生日を祝って、今日は一日中バッハの音楽を奏でます。
音楽に対する愛と敬意を街ゆく人々と分かち合い、クラシック音楽を育む次世代につないでいくために」



たった一人のチェロ奏者から始まったこの運動は2015年の誕生日には世界50都市以上に広がりました。
来年は更に増えることでしょう。

調性格はお伽話

バッハの時代の調律法はミーントーンが一般的だった。
この調律においては、調号にシャープやフラットが沢山付く遠隔調は、極端な響きになり、使用することが難しかった。使えるのはシャープ、フラット3個ぐらいまでの調に限られていた。

ところが、バッハが理論上考えらるすべての調に挑戦し、《平均律クラヴィーア曲集》という歴史的金字塔を完成した。この時代はバッハだけではなく、同じようなことを試みた作曲家もあった。例えば

.泪奪謄哨鵝Johonn Mattheson 1681〜1764)
《規範的オルガニストの試験》:Exemplarische organisten-Prove 1719

▲肇薀ぅ弌次Johann Philipp Treiber1675〜1727)
《一風変わったインヴェンション:全ての音、和音、拍子記を用いた一つのメロディーによるアリア》
        :Sonderbare Invention : eine Arie in einzigen Melodey aus allen Tonen und Accorden         auch jederley Tocten zu componiren 1702

《通奏低音における正確なオルガニスト》 Der accurate Organist im General-Bass 1704

キルヒホフ(Gottfried Kirchhoff 1685〜1746)
《ABCムジカル:全ての調によるプレリュードとフーガ》 :L’ABC musical : Plaeludia und Fugen aus allen                                     Tonen (消失)


ミーントーン調律と違って、24すべての調が演奏可能な調律においては、美しく響く調と、極端に響く調という差異が薄れ、必然的にどの調も似たりよったりとならざるを得ない。その結果、何調という音階終止音による違いは薄れ、長調か短調かという違いのみになる。

ケラー(Hermann Keller 1885〜1967) は「平均律クラヴィーア曲集以来ようやく、調の性格と言う問l題が純粋に精神的なもの、作曲者と演奏者のなかにのみ存する問題となったのであった」と述べた。

前述のマッテゾンは後に、「どんな調もそれ自体ではその逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりする事はない」と述べ、『新管弦楽法』で述べた調性格論を後になって自ら取り下げている

ゾルゲ(Georg Andress Sorge 1703〜78)はマッテゾンが『新管弦楽法』で述べた調性格論に対して、「調のアフェクト(情念)を述べる場合は、長調は楽しく愉快な感情に適し、短調は悲しく憧れに満ちた感情に適していると言えるだけである」と嘲笑した。

理論上考えられる24すべての調が自由に弾ける調律を、今、我々は使っている。したがって、調による性格の違いはお伽話の域を出ないのである。
どの調も同じという意味で”イコール式”と名付けた鍵盤楽器教授法は新しい教育法である。
やわらかなバッハの会
第1日曜日 輪奏会17:00 PM
第2金曜日 輪読会10:00 AM
第4土曜日 輪奏会10:00 AM

バッハ・イン・ザ・サブウェイズ
2018.3.21(水・祝)

第5回バッハ礼讃音楽会
2018.7.29(日)

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<プロフィール>
やわらかなバッハの会 代表
新しい鍵盤楽器記譜法「イコール式」の創始者

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取り
バッハのとりこになった。
これまで約400人のピアノレッスンを通じて、バッハのフーガを弾くことの重要性を認識し、初級者でもバッハ演奏を楽む方法を提案。

2007年 世界で初めての楽譜《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》カワイ出版 

2009年 音楽書『やわらかなバッハ』春秋社

2013年「やわらかなバッハの会」設立

2014年 バッハ礼讃音楽会 (於 旧県会議事堂) 毎年開催

2016年 バッハ・イン・ザ・サブウェイズ (於 新山口駅南北自由通路 )毎年開催

2017年 Bach Network UK 対話会議研究発表 (於 ケンブリッジ大学)

Prof.Yo Yomita (富田庸) 講演会「バッハを嗜む」主催 (於 山口大学)

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも調性格の恣意性を指摘しています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の中の難しい調を簡単な調に移調してまず親しむことが大切です。初級者は更にそれをアンサンブルで楽しむことが大切です。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。


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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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