やわらかなバッハの会

先入観念にとらわれることなく、自由にバッハの音楽を楽しむ会です。
イコール式音楽研究所

修道院の歌

古来より修道院では毎日グレゴリオ聖歌を歌ってきました。グレゴリオ聖歌は単旋律、無伴奏の歌です。或る時、修道院でグレゴリオ聖歌を歌うことを禁じたところ、修道士たちがみるみる元気を無くし、体調を崩す者が続出しました。再び歌うことが許されると、修道士たちは直ぐに元気になり、グレゴリオ聖歌とともに生活のリズムを取り戻すことができたということです。音楽は見えざる栄養素となって、人間の心と体に多大な影響を及ぼす一例といえるでしょう。
また音楽は人間だけでなく、植物やすべての物にも影響を及ぼします。次に音楽と植物の成長速度を調べた興味深い実験結果をご紹介しましょう。

3つの部屋を作り、そこに植物を置き次の3つの音楽を聴かせたのです。

1、ロックンロールのような騒がしい音楽の部屋
2、何の音もない部屋
3、神をたたえる音楽の部屋

植物の成長速度を比較してみました。結果は…

1,ロックンロールの部屋で育った植物は、約36cm.、根は弱く、茎はスピーカーと反対の方向に曲がっていました。
2.何の音もない部屋で育った植物は、40cm.。そして根は長く、毛も多く、茎も太く育ちました。
3、神をたたえる音楽が流れる部屋で育った植物は、なんと51cm。
根や茎は非常に丈夫に育ち、植物はスピーカーに向かい更に音楽を聴こうと、その方向に茎を傾けていたのです。

代表的なロックのスターたち115人の死亡原因を調べてみると、彼らの大部分は、20代、30代の若さで麻薬中毒、アルコール中毒、自殺等で死んでいたことがわかりました。
このように、私たちがよく聞いたり、歌ったりする歌は、私たちの人生に深いところで影響をもたらします。
感謝と賛美の音楽は私たちを健康にし、世俗的な歌はその人を病にし、滅ぼしてしまうのです。


感謝と賛美の歌が元気の元であった修道士たちは古来よりピュタゴラス音階で歌っています。ピュタゴラス音階の音程比が天体の運動と連動しており人体に影響を与えると考えられてきたからです。勿論無伴奏です。もしグレゴリオ聖歌を、12等分平均律のピアノ伴奏に合わせて、12等分平均律の音階で歌ったらどうなるでしょうか。
12等分平均律はどの音程も等しく非純正で、中立的、画一的で無彩色な音律ですから、その歌は当然不純になります。ハウプトマン(1792-1868)は12等分平均律について次のように述べました。
「諸音はもはやそれ自体で変化する力があったり、力の遊びの中で生き生きとているものではなく、12音に固定されて死んだ像として存在する」と述べました。

ピュタゴラス音階で歌うとメロディーが長3度跳躍する場合、その幅は408セントで、12等分平均律より相当広くなります。12等分平均律の長3度は400セント、純正の長3度は386セントですから、ピュタゴラス音階は12等分平均律よりももっと幅が広いです。長3度でハモると最も美しいのは純正の386セント、最も極端な響きになるのがピュタゴラス音階の408ということになります。しかしグレゴリオ聖歌は単旋律であり、長3度でハモることは皆無ですから、ピュタゴラス音階の単旋律は非常に美しく響くのです。

現代のピアノ調律

今日のピアノは1オクターヴを12に等分した平均律という調律法で調律します。12等分平均律の理論は古くからありましたが、実用化され、一般的になったのは1850年頃のことです。1850年といえば、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーンは既に昇天しており、短命のショパンも1849年に亡くなりました。1850年に活躍していた作曲家といえば ベルリオーズ、シューマン、リスト、ヴァーグナー、、ブラームスたちであり、ドビュッシーは活躍どころか生まれてもいません。

1850年という年をピアノの12等分平均律への転換点とすると、バッハの 《平均律クラヴィーア曲集》 も ベートーヴェンの 《ピアノソナタ》 も 12等分平均律ピアノを前提に作曲されたものではないことが分かります。バッハが演奏した鍵盤楽器は独自の調律を自分の手で行ったもので、その音律は不等分でした。ベートーヴェンはバッハの弟子であったキルンベルガーが考案したキルンベルガー音律を好みました。この音律も不等分です。ベートーヴェンは調ごとの微妙な変化のある不等分音律で、深い味わいを作曲に反映しました。

ベートーヴェンは、12等分平均律を嫌って次のような言葉を残しました。

「指の滑らかな動きによって、こうした人々からは知性と感性が流れ去ってしまってしまうのである。しかし、12等分平均律の音程の単純さは、時折、肉体的な限界まで能力を競うテンポの決定に重大な影響を及ぼしたに違いない」
ベートーヴェンの言葉の意味を要約すると、「もし、ピアノソナタ、キルンベルガー音律で弾くならば、ハーモニーの微妙な変化をゆっくりと味わいながら、知性と感性を研ぎ澄ますことが可能である。ところが、どの調の「ドミソ」も皆同じの単調な12等分平均律では、調ごとのハーモニーの変化を味わうことができない。12等分平均律においては何調も皆同じである。だからピアニストはハーモニーよりも、鍵盤上を素早く華麗に走り回ることに専念するようになる。ピアノ演奏は肉体的な限界までテンポの速さを競うスポーツになり果てる。そしてこうした人々からは知性と感性が流れ去ってしまう」ということです。

12等分平均律の実用化に貢献したのはエリス(1814-90)ですが、最初に平均律を算定したのは中国の「何承天」と言われています。続いて中国の朱載育が1596年に、フランスのメルセンヌが1636年に12平均律の理論を確立しました。メルセンヌより少し遅れて日本の和算家、中根元圭も1692年に「律原発揮」を著し平均律の算出法を紹介しました。しかし、まだどれも理論だけにとどまり、鍵盤楽器を12平均律で調律することはできませんでした。ただし、ギター、リュートなどのフレット楽器は12等分平均律の実用化が早くから行われていました。

12等分平均律の鍵盤楽器への実用化は、ヘルムホルツ(1821-94)が音の周波数を示し、エリス(1814-90)がセント値の定義と計算法を確立するに至って可能となりました。1850年ごろから起こったピアノの大量生産に伴って12等分平均律のピアノはあっと言う間に世界中を席巻し、今日に至ります。今日では調律といえば12平均律です。ピアノの調律師が仕事を始める前に「どの音律にしますか」などと尋ねられることはありません。もし尋ねられるとすればそれは「440 か 441か」などと言う標準ピッチだけです。現代の調律はすべて12平均律と決まっており、誰も疑わないのです。
現代の12等分平均律のピアノで弾くバッハやベートーヴェンと、昔の人々が耳にしたバッハやベートーヴェンとは全く別物だということを認識したいものです。

長3度の問題

長3度 (ドーミ、レーファ♯、ミーソ♯・・・・・等)は平均律では400セントの幅である。ところが、調律法を変えると幅が違ってくる。以下に様々な長3度を示す。

中全音律・・・386セント(純正)
キルンベルガー機ΑΑΑ386セント(純正)
ヴェルクマイスター掘ΑΑ390セント
12等分平均律・・・・400セント
ピュタゴラス・・・・408セント

最も綺麗にハモるのは純正の386セントである。その他はみな不順な音程である。現在世界の標準となっている12等分平均律も400セントと純正より音程幅が広く不純である。われわれの耳は不純な長3度に慣らされてしまったのか、自然な音感が麻痺してしまったのか、12等分平均律を平気で聞いているようだ。

しかし耳の良い音楽家たちは平均律の長3度を聞いて次のような言葉を述べた
「平均律の3度はあまりに耳障りである。これは杓子定規の音律に由来する」(ゾルゲ)
「平均律は非音楽的な人の耳をも汚すような3度の叫び」(ツァング)
「平均律の三和音のひどい響きは事実上きたない平均律3度のせいである」(ヘルムホルツ)

長3度、例えば「ドーミ」 は 「シ♯ーミ」 と記譜することもできる。この場合「ドーミ」は長3度、「シ♯ーミ」は減4度である。音楽理論上は異なる音程なのに、鍵盤上では同じになってしまう。同じ鍵盤を弾くのに、一方は協和音、他方は不協和音という矛盾。
鍵盤楽器以外(例えばヴァイオリン)なら、長3度と減4度を弾き分けることができるが、鍵盤楽器はどんな名手でも音程に関してはお手上げ状態である。鍵盤楽器奏者は自ら音程を作れない。ピアノ調律の時に作ってもらった音程を演奏するしかない。他の楽器のように、自分で音程の微調整をしながら演奏することはできない。

 《平均律クラヴィーア曲集》の第1巻4番、ハ短調フーガのテーマに減4度音程 「シ♯ーミ」がある。このテーマは重苦しく、十字架を背負って喘ぎながら歩く姿を減4度音程で示しているといわれる。しかし重苦しいはずの減4度=不協和音程は、楽譜の上だけのことであって、鍵盤上では、明るい長3度でもあるのだ。かくのごとき大きな矛盾が鍵盤楽器には存在する。鍵盤楽器は減4度、長3度どちらも妥協の音程である。どちらも不純な音程で、正しい長3度でもなく、減4度でもない。そして鍵盤上では同じ鍵盤、同じ音程である。

鍵盤楽器の同じ鍵盤を弾いて、長3度は明るい、減4度は重苦しいなどと区別するのは甚だ滑稽であることがわかる。
鍵盤楽器は長3度と減4度を弾き分けられず、両方とも同じ音程になってしまう。
このこと1つだけでも、鍵盤楽器に調性格のないことが理解できるだろう。

バッハ生誕祝い8時間演奏

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バッハの誕生日3月21日の9時から17時までの8時間、誕生を祝ってバッハの音楽を道行く人々に届けました。
場所は新幹線「新山口駅」の自由通路。垂直に植えられた自然の緑の壁が美しい駅通路で、電子ピアノ、リュート、ギター、二胡、クラリネット、ピアニカ、ヴォーカルによる、オールバッハプログラム。曲目は、《平均律クラヴィーア曲集》《G線上のアリア》《トッカータとフーガ ニ短調》《フーガ ト短調》《チェロ組曲》《目覚めよとわれらに呼ばわる物見らの声》《フーガの技法より》《われはここ飼葉桶のかたえに立ち》《リュート組曲》《チェンバロ協奏曲5番より》《われらが神は堅き砦》《インヴェンション》・・・・etc.・・・最後は演奏者全員で《主よ人の望みの喜びよ》を歌いました。

演奏者はピアノ教師、デモンストレーター、大学教授、医師、画家、牧師、ピアノ調律師、公務員、会社社長、主婦など、「やわらかなバッハの会」のメンバーが中心。

今回の企画は数年前、ニューヨークの地下鉄で始まった「バッハ・イン・ザ・サブウェイ」を山口県で初めて試みたものです。「バッハ・イン・ザ・サブウェイ」は一人のチェリストが、バッハの誕生を祝って、クラシック音楽を次世代に繋ぐために、一日中バッハの音楽を奏でたことから、世界中に広がったイベントです。世界の150都市以上、国内では10都市ほどがイベントに参加しました。

新山口駅の通路で、「やわらかなバッハの会」のメンバーや、応援のスタッフや聴衆が見守る中、ソロやアンサンブルでバッハの演奏が繰り広げられました。時ならぬ珍しい状況の通路は、急ぎ足の乗り換え客、足を留めてしばし耳を傾ける通行人、ベンチに腰掛けてゆっくりとバッハに浸る新幹線待ちの旅行者などで賑わいました。自然の緑の壁と、太陽の光、風が一体となって駅の通路は、やわらかな癒しの空間となりました。

新聞記者たちもいろいろ質問をしたり、演奏者の写真を撮ったりして、記事を書いてくれました。
読売新聞、中国新聞、山口新聞の3誌に写真入りで掲載されました。

通行人へのインタビューは「生で音楽を聴く機会が少ないのですごくいい。バッハの音楽が心にしみた」
「バッハの音楽はオルガンで演奏するイメージがあるけど、ピアノの音色で聞くと、違った柔らかい印象ですね」
と紙面に掲載されました。

また演奏者の一人は「私のような素人でもバッハを楽しんでいる。その雰囲気が伝われば」と話したと紙面にありました。

主催者への取材はかなり長かったのですが、要約されて次のように書かれていました。

「バッハの音楽は難しいと思われているが、工夫すれば誰でも楽しめる。美しい旋律を多くの人に届けられたら。今後も同様の催しを開いていく」(読売新聞)

「バッハの音楽は個人の感情を超えた世界を表現していて心が落ち着く。一方で演奏が難しく、とっつきにくいと思われがちなため、ソプラノやバスなどパートごとにピアノの楽譜を分け、複数で演奏する方法を日頃から実践しているという」(中国新聞)

「青空や緑が広がる場所なのでバッハの音楽とマッチし、癒しの空間になった」(山口新聞)

今回はバッハの音楽や 「バッハ・イン・ザ・サブウェイ」 を多数の方に知っていただく良い機会になりましたことを感謝申し上げます。
演奏者にとっては8時間が短く感じられるほど楽しい一日となりました。
ご協力いただいた演奏者、スタッフ、聴衆の皆様に心より御礼申し上げます。

バッハのテンポ

バッハ平均律クラヴィーア曲集のテンポはアーティストによってかなり違っている。
例として平均律クラヴィーア曲集第1巻24番プレリュード、歩き続けるバスの上を2つの声部が対位法的に進行する夢のような美しいトリオソナタ。

速いテンポはグスタフ・レオンハルト(1928-2012)である。彼はオランダに生まれ、ウィーンやアムステルダムで活躍したチェンバロ奏者で、ピリオド楽器による古楽演奏の先駆けを作った。彼はこの曲を ♩=100  で演奏している。

遅いテンポはフリードリッヒ・グルダ(1930-2000)である。彼はウィーン生まれのピアニスト、広いレパートリーに加えて、ジャズにも興味を示すなど、新しい音楽の可能性を探る挑戦者だった。彼は♩=48 で演奏している。前述のレオンハルトと比べると、ほぼ2倍の遅さである。2人とも同世代の音楽家であるが、これほどまでにテンポは違う。

《平均律クラヴィーア曲集》といえば必ず名盤として名が上がるのは、 エドゥイン・フィッシャー(1886-1960)である。彼はスイスに生まれたピアニストで、少し古い時代に活躍した。テンポ は♩=66 とややグルダに近いが中庸のテンポである。

同じく名盤として名高い スヴャトスラフ・リヒテル(1915-79) はソビエト連邦のピアニストで、レオンハルト、グルダとほぼ同世代である。彼も ♩=52 でかなりゆっくり弾く。グルダに近い。

独特の解釈で人気の グレングールド(1932-82) はカナダのピアニストで奇異な行動で知られる。彼は ♩=88 でやや速めだが、レオンハルトの速さにはかなわない。

上記の5人を遅いテンポから順に並べてみると、グルダ・・・リヒテル・・・フィッシャー・・・グールド・・・レオンハルト となる。いったいどのテンポが正しいと言えるのだろうか?

古楽の第一人者アーノンクール(1929〜)はバッハの演奏について次のように述べている。「もはやすべてを定められたものとして受け入れることはない。不遜や誤解にみちた伝統によって築かれた解釈の不確実性は、関心を抱くものの探求によって揺らいでいる」

バッハの解釈は変遷し続けてきたし、これからも変遷するだろう。しかしバッハの音楽はどのように演奏しようとも、音楽の生命を損なうことがない。様々な演奏法で、様々な素晴らしさを発揮する。どのように演奏してもバッハになるところが、他の作曲家と違う。バッハは変幻自在の音楽といえるだろう。

調性格は長調短調の2種類だけ

全調が弾ける12等分平均律が世界の標準になって、せいぜい150年ほどである。昔は不等分音律だった。一口に不等分音律といっても全調が弾ける不等分と、限られた調しか弾けない不等分がある。

全調が弾けるということは、極端な響きになる調がないということである。どの調も同じように支障なく弾けるということは、どの調もほとんど等しいということであり、不等分音律といっても12等分平均律に限りなく近いということである。12等分平均律における調とは音高が異なるだけである。12種の長調は名こそ違えど、音階構造はどれも全く同じで、調性格はすべて「長調は明るい」といえるだけだ。同様に12種の短調もすべて「短調は淋しい」」といえるだけだ。つまり12等分平均律の調性格は長調と短調の2種類しかない。ハ長調、ニ長調、イ長調など名前はいろいろあるが、調性格までいろいろあるのではない。ある長調を他の長調に移調するということは、移高という方が適格である。

「確かに12等分平均律においては調性格は2種類だけだ」 と理解はできるが、しかし 「芸術家のイマジネーションの中には、しっかりと調性格が存在している」と感じる人も多いのではないだろうか。

そこで、不等分音律の時代に盛んに論じられた調性格について少し調べてみよう。不等分音律は調によって音階構造がそれぞれ違う。、12等分平均律は何調でも全く同じ音階構造である。従って調性格の違いを論ずるには、音階構造の異なる不等分音律によらなければならない。
例として、昔の調律法、つまり不等分音律における「ト短調」の調性格について調べてみよう。

・マッテゾンは『新管弦楽法』1713年において 「ト短調は最も美しい調性、優美さ、憧れ、満足」と最大級のプラスイメージを述べた。

・シューバルトは『音楽美学の理念』1789年において 「ト短調は不機嫌、不愉快、恨み」と最低のマイナスイメージを述べた。

・ミースは『調の性格ー試論』1948年において 「ト短調に確固たる性格はない」と中立の立場をとった。

調によってはある程度共通した性格が述べられる場合もあることを断っておくが、正反対の性格が述べられるとは不可解である。また、ブルーメが「ト短調は激しい悲劇、憧憬の甘美さ」と言ったように、どっちかわからないような意見を述べる論者もいる。

それでは、ここで調性格の代表格と言えるマッテゾンの意見に耳を傾けてみよう。
マッテゾンは、
「調の性格について何か確実なものを定めようとすればするだけ、おそらく、意見の違いも表面化してくるように思われる。この問題をめぐる見解はほとんど数えきれないほどあるからである。その理由としてただ一つ考えられるのは、人間の体液の組織が一人一人非常に異なっていると言うことである。それゆえ、例えばある調を多血質の人は楽しげで快活に感じ、一方、粘着質の人は、ものうく、嘆き、悄然としているように感じたとしてもまったく不思議はないのである」

マッテゾンの見解によると調性格は人それぞれの感じ方があり、恣意的ということになる。

またマッテゾンは『完全なる楽長』1739年 において 「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならば、どんな調もそれ自体では、その逆を作曲しえないほど悲しかったり楽しかったりすることはできないからである」とも述べている。

つまり、マッテゾンは、「絶対的な調性格は無い」と言っているのである。マッテゾンは不等分音律においてさえこのように言うのである。

ある曲の曲想が楽しかったり悲しかったりするのは、調性格に由来するのではなく、実は曲そのものに原因がある。曲そのものが、楽しい曲であったり悲しい曲であったりするだけだ。だから移調して調を変えても曲想は変わらないのである。楽しい曲を弾けば、それは何調で演奏しても楽しいのである。私たちは、ピアノ以外において、このことを極自然に受け入れているのに、ピアノに向かえば調性格に捉われてしまうのだろうか。

・私たちはカラオケに行って、ピッチを上げ下げ、つまり移調して歌っている。
・吹奏楽は移調楽器が多いので移調はごく当たり前にやっていることである。
・マッテゾンの時代のパオプオルガンは町によってピッチが違っていたので、オルガンも移調楽器だった。
・シューベルトの歌曲集は、低声用と高声用に移調された楽譜が出版されている。
・マッテゾンの時代と現代のピッチは約半音違うので、昔のト短調は現代の嬰ヘ短調である。
・バッハは24の調を網羅する《平均律クラヴィーア曲集》を簡単な調からの移調を試みて完成させた。
・《平均律クラヴィーア曲集》 は同一調に同一の格があるとは言えない。
論文017
論文018
 例えばニ短調を比較すると1巻と2巻のプレリュードは性格が違う。1巻のニ短調は瞑想的、内省的な落ち着きが感じられ、2巻のニ短調は生き生きと波たつ力に満ちている。

バッハは時代に先駆けて24すべての調が使用可能な調律法を見出したが、それは同時に、調による差異がほとんど消えることを意味する。バッハは調性格が恣意的だと理解したからこそ、自ら移調を試みたのではないだろうか。

ケラー(Hermann Keller 1885〜1967) はバッハの鍵盤音楽に関する著書や楽譜校訂で知られるドイツの音楽学者であるが、彼はこう述べた。
「平均律クラヴィーア曲集以来ようやく、調の性格と言う問題が純粋に精神的なもの、作曲者と演奏者のなかにのみ存する問題となったのであった」

ゾルゲ(Georg Andress Sorge 1703〜78)はバッハの息子の世代にあたるドイツの作曲家、オルガニストである。彼はマッテゾンが『新管弦楽法』で述べたところの調性格論に対して、「調のアフェクト(情念)を述べる場合は、長調は楽しく愉快な感情に適し、短調は悲しく憧れに満ちた感情に適していると言えるだけである」と調性格を嘲笑した。嘲笑されたマッテゾンも後になって「調性格について絶対的なことは言えない」と言ったことは前に述べた通りである。

ウィーン古典派の血液

バッハ亡きあと、バッハの作品は全世界にとって標準的なウィーン古典派の学匠たちの中へ浸透していった。バッハは生前、自分の作品を世間にあまり認めさせることができなかったのに反して、バッハの作品はウィーン古典派の血液として,識者やドイツのオルガニストによって伝承された。その流れの延長線上に、フォルケル(1749-1818)の『バッハの生涯、芸術および作品について』が史上初めて登場し、ドイツ愛国主義と共にバッハを狭いサークルから担ぎ出した。バッハの理解者の一人、ロホリッツ(1769-1842) も、彼の指導で創刊された 「一般音楽新聞」 にバッハについて数多くの記事を書きバッハの音楽が一般に広く理解されることに大きな貢献をした。
それまで主としてバッハのクラーヴィーア曲とオルガン曲が伝承がされてきたが、メンデルスゾーンは新しいバッハ伝承に貢献した。メンデルスゾーン(1809-47)
はマタイ受難曲を復活上演し、100年の眠りから目覚めさせのである。その後シューマン(1810-56)らがバッハ協会を設立し、バッハ全集の刊行が始まった。

バッハ伝承の初期の段階ではスヴィーテン男爵(Gottfried van Swieten 1734 - 1803)によるところが大きい。彼はオーストリア帝国政府の要人であり、大使としてベルリン滞在中にバッハの価値をいち早く認め、その作品を収集した。また彼は、ウィーン楽友協会の前身である音楽協会を設立した。スヴィーテン男爵はバッハのほかにヘンデルとバッハの息子達の作品も加えたバロック音楽のコレクションを作り上げ、ウィーン古典派の陰の指導者となった。

学校の音楽室にズラリと掲げてある音楽家の肖像画はバッハが一番左端である。次がウィーン古典派と呼ばれるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンである。
 
モーツァルト(1756-91)は、バッハ没後6年目に生まれたが、ウィーンに移り住んで間もない頃、スヴィーテン男爵のサロンに顔を出した。モーツァルトの手紙には「毎日曜日、12時にスヴィーテン男爵家へ行きます。そこではヘンデルとバッハしか演奏されません」とある。彼がバッハやヘンデルの作品のを知ったのは男爵のお陰だった。男爵はモーツァルトが亡くなった1791年12月5日には、茫然自失の妻コンスタンツェに代わって葬儀を取り仕切った。また1793年1月のレクイエムの初演に尽力したのもスヴィーテン男爵だった。

モーツァルトは旅の途中、ライプツィヒに立ち寄り、バッハのモテットを聴くやいなや「ここにはまだ学び取るものがある」と叫び、それを書き取ったという逸話も残っている。バッハに触れその真価を見抜きバッハを模範としていくつかのフーガを書いたり、《平均律クラヴィーア曲集》のいくつかを弦楽四重奏に編曲したりした。
モーツァルトが夭折しなければマタイ受難曲の蘇演を聴くこともできたであろう。

モーツァルトより先に生まれ、モーツァルトより後に亡くなったハイドン(1732-1809)は、バッハが亡くなったとき18歳だったことになる。ハイドンもスヴィーテン男爵のサロンでバッハとヘンデルの作品を知ったのである。ハイドンはモーツァルトよりいっそう深く男爵のサロンに入りこんでいた。代表作の《天地創造》と《四季》の台本をドイツ語に訳したのは男爵である。ハイドンは《平均律クラヴィーア曲集》の1801年の初版本を所有しており、当時としては珍しかった《ミサ曲ロ短調》も持っていた。ハイドンはバッハの息子エマーヌエルから教えを受け、父ゼバスティアン・バッハの精神上の弟子となったのである。対位法についての。

ベートーヴェン(1770-1827)はバッハ没後20年目に生まれた。彼は師のネーフェを通じて《平均律クラヴィーア曲集》を知った。それを早くも13歳で「すでにきわめて完璧に」弾いたという。ベートーヴェンもスヴィーテン男爵のサロンに出入りし、皆の前でバッハのフーガの演奏を引き受けていた。ベートーヴェンは《平均律クラヴィーア曲集》から生涯離れることはなかった。バッハの作品を印刷するようにブライトコップフ社に繰り返し手紙を出したり、出版予定のすべての作品を前もって予約したり、ホフマイスター社から予告されたクラヴィーアとオルガンのための作品全集に熱烈な賛辞を送ったりした。1800年にロホリッツがバッハの娘の生活を支えるための募金を呼びかけたとき、まっさきに寄付金を送った一人でもあった。さらに、彼のスケッチ帳にはBACHによる序曲の計画が書き込まれておりバッハへの崇拝の念は相当深かった。バッハのことを「ハーモニーの生みの親」と称賛したベートーヴェンの思いは、同時代の心ある作曲家と共にマタイ受難曲の蘇演となって結実するが、それをベートーヴェンは見るこを得ず亡くなった。
ウィーン古典派の血液となって体のすみずみまで浸透したバッハの音楽は、続くロマン派の作曲家にも深い影響を与えた。

富田庸教授のセッション

2015年11月14〜15日に第66会日本音楽学会全国大会が開催された。
学会発表の中から英国クィーンズ大学、富田庸教授の発表を紹介する。
 「J.S.バッハの作曲過程と演奏へのヒントを八分音符の連桁から読み解く」 という大変興味深いセッションである。

富田先生はバッハの自筆譜の八分音符には、2種類の連桁があるという全く新しい視点を示された。改めて自筆譜ファクシミリを丁寧に見てみると確かに2種類ある。
例えば4分の4拍子の同一曲の中に、八分音符が2連桁の形と4連桁の形が混在している。ピアノで弾けばどちらでも結果は同じであるが、バッハは何らかの意図をもって2種類の連桁を使い分けたのではないだろうか。

一例を紹介する。曲は《平均律クラヴィーア曲集 第1巻24番 ロ短調フーガ》である。
フーガの主題は19個の八分音符が続き、やがて二分音符にたどり着くが、19個の八分音符の連桁が曲中に2通りあるのだ。
24番フーガ分析
完全な形で提示される主題は太字、断片や不完全な呈示は灰色+[]で示した。
八分音符の2連桁は薄い灰色で、それ以上の長い連桁は濃い灰色で示した。

完全な形で提示される13回の主題のうち、八分音符2個づつの連桁が全く入ってないのが3か所あり、それらは曲の最初の方に集中している。曲の終わりの方になると八分音符2個づつの連桁が増える傾向にある。

連桁を市販の楽譜で確認するのは難しい。なぜならバッハの書いた連桁を正確に反映してないからである。弾けば結果は同じであっても、連桁の在り様を正しく確認するには自筆譜ファクシミリを参照しなくはならない。自筆ファクシミリの無い場合は、《自筆譜によるオリジナルクレフ版 Urtext Edition in original Clefs from the autograph Manuscript, edited by David Aijon Bruno》 にバッハの自筆譜通り打ち込んだ楽譜があるので便利だ。

富田先生の推察によると、バッハが2種類の八分音符の連桁を使用した理由は以下の4つである。

1、音楽的に注意を払う
  長い連桁は水平的(旋律的関心)、2個の連桁は垂直的(和声的関心)を示す
  
2、音楽的素材の使い分け
  モチーフには長い連桁、終止形の音型には2個の連桁を使用する

3、書体
  音の薄い箇所では長い連桁、音の厚い箇所、密集箇所では2個の連桁を使用する

4、曲中のポジション
  曲の始めの部分は長い連桁、曲の終わりの部分は2個の連桁を使用する

性格的な連桁が使用された2種類のタイプとしては以下の説明があった。

1、跳躍する音程が連合する八分音符群で、活発な演奏やスタッカートのアーティキュレーションを示唆するも  の(平均律第1巻3番嬰ハ短調 フーガの主題など)

2、同音上の繰り返し、音階の順次進行する八分音符群でゆったりとした速度とムードを示唆するもの(平均   律第1巻12番へ短調 プレリュードなど)

富田先生は、外国での研究生活が長く、英語や独語の論文が多いからだろうか、日本語に苦労するとおっしゃるが、日本語での研究発表を多くの研究者が待っていると思う。「J.S.バッハの作曲過程と演奏へのヒントを八分音符の連桁から読み解く」という新しい課題は、今後の発展が大いに期待されるところである。尚、この研究はオックスフォードジャーナル EARLY MUSIC に掲載されるということである。
同誌には、富田先生の Report や Book Review が過去にいくつもあるので興味のある方は参照されたい。

バッハにとっての「作品」とは

 《マタイ受難曲 BWV 244》 といえば、これはバッハの作品である。バッハの「作品」という表現はわれわれにとって自明のことである。しかしバッハ自身にとって「作品」という概念はどうであったかを考えてみたい。

BWV はバッハの作品番号を示すもので、 Bach(バッハ) Werk(作品) Verzeichnis(目録) の略である。これはバッハ没後200年ほど経って、フランクフルト大学図書館に勤務するシュミーダー(1901~1990)がバッハの全作品をジャンル別に整理したものである。だからシュミーダー番号とも言われている。この目録が国際的標準になり今日に至っている。というわけで、バッハは BWV に全く関与せずである。われわれは後世の「作品」観をバッハに当てはめているにすぎない。

われわれの概念からすれば、「作品」とは作者が自分の名前を永遠に刻むべく自ら制作するものである。独創的なもの、出来上がったもの、他者が勝手に手を加えることのできないものを誰々の「作品」という。しかし、礒山雅氏によると、バッハの手紙や序文、推薦状などに Werk (作品)という言葉は無く、バッハの文章の中で頻繁にあらわれるのは、Arbeit(仕事、作業、研究)だという。したがってバッハの手紙や序文は「この作品をお収めください」ではなく「この仕事をお収めください」という言い方をしていることになるという。バッハにとっての音楽は完成された「作品」ではなく、作業を意味する。それは現在進行形の「音楽」への意識である。「〇〇という作品を書いた作曲家」という発想はバッハにはないのである。バッハは常に現在進行形の音楽実践能力を示し続けることが重要だと考えていたのである。


音楽を「作品」ではなく、現在進行形の作業と考えるバッハにとって、作曲と演奏は不可分である。当時の楽曲は永久保存的なものではなく、1回限りの機会のために作られることが多かった。即興演奏も言うまでもなく1回限りのものである。たとえ楽譜に書かれた曲でも演奏の度に姿を変えた。
バッハはフリードリッヒ大王に招かれ、王が提示したテーマで見事な即興演奏を披露した。そしてライプチッヒに戻ったバッハは、王のテーマによる、3声と6声のリチェルカーレ、トリオソナタ、さまざまなカノンの楽譜を王に捧げた。これが《音楽の捧げもの BWV 1079》であるが、王の前で演奏したものと、楽譜に書いたものは、当然異なっていただろう。

われわれは《平均律クラヴィーア曲集》 と言うが、これもバッハは 《Das Wohltemperierte Clavier》 としか書いてない。《巧みに調律されたクラヴィーア》 という意味が書かれてあるのみで、「曲集」に当たる言葉は無い。われわれは後世の「作品」観をバッハに持ち込み、《平均律クラヴィーア曲集》も既に完成した作品として過去を向いた捉え方をしているようである。バッハにとっては、上手く調律されたクラヴィーアを使用する作業というほどの意味だった。 《平均律クラヴィーア曲集》は バッハが演奏する度に、生徒にレッスンする度に改訂の手が加えられ、姿を変え続けた。それでよいとバッハは考えていた。

バッハの教育用クラーヴィーア曲はすべて歌うような奏法の習得に加えて、作曲に関する充分な基礎感覚を養うことが求めらている。演奏と作曲は一体のものであり、演奏を学ぶことは作曲を学ぶことだった。
当時の作曲作業は定旋律の新たな発見や結合であると理解されていた。バッハにおいても当然のことながら音楽とは機会の度に生み出される新たな結合であり、ひとたび出来上がれば、再び新たな結合に委ねられるものである。
カンタータなども演奏の機会ごとにその条件に対応するように作り変えられることが多かった。例えば結婚式のカンタータ 《満ち足れるプライセの都よ BWV 216 》 の第3曲は 《われはおのがうちに満ち足れり BWV 204》 からの転用である。同じく第7曲は《破れ、砕け、壊て BWV 205》 からの転用である。

礒山氏によると バッハは Werk(作品)という言葉を使わなったということである。この言葉がバッハに関して初めて現われるのは、バッハの没後まもなくである。息子のC.P.E.バッハが 父の大作《フーガの技法》 を出版する際に Werk((作品) という言葉を使って、《フーガの技法》 の販売広告を出したのが最初である。
またバッハの最晩年における《ミサ曲ロ短調》は演奏の機会が存在しない状況下であるにもかかわらず、死後に残すことを意識して完成させたと思われる。この発想はWerk(作品)という言葉こそ使わなかったが、近代的な意味での「作品」という観念がバッハの意識の中に芽生えていたとみることもできるだろう。

バッハが自身の手で移調した作品

《G線上のアリア》 は 《管弦楽組曲第3番 ニ長調》 の中の一曲を、ヴァイオリンとピアノ用に編曲して広く知られるところとなった。編曲にあたってニ長調の管弦楽組曲をハ長調に移調した。このような後世の音楽家によるバッハ作品の移調や編曲は枚挙に暇がない。
しかし、今回は、後世の音楽家によるものではなく、バッハ本人が自身の手で移調した作品だけを挙げる。

BWV 232 《ミサ曲 ロ短調》 の第17曲「十字架につけられ」 ・・・・・ へ短調 → ホ短調
  カンタータ 12番 「泣き、嘆き、憂い、怯え」の第2曲 からミサ曲ロ短調の「十字架につけられ」に転用する  際にバッハはへ短調からホ短調に移調した。

BWV 243  《マニフィカト ニ長調》 ・・・・・・・ 変ホ長調 → ニ長調
  クリスマス礼拝用に最初は変ホ長調で作られたが、他の祝日にも演奏できるものに作りる際に、トランペッ  トがよく響くニ長調に移調した。変ホ長調は♭3個、ニ長調は♯2個、この2つは非常に隔たった調であるが、  バッハは移調した。

BVW 515 《パイプにおいしいタバコを詰めて》 ニ短調 → ト短調
  息子のハインリヒが作ったニ短調の旋律(BWV 515a)を母親のアンナ・マグダレーナが筆写し、バッハがバ  スを加筆する際にト短調に移調した。

BWV 594 《オルガン協奏曲 ハ長調》 ニ長調 → ハ長調
  ヴィヴァルディの《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調》 を編曲する際にハ長調に移調した

BWV 831 《フランス様式による序曲 ロ短調》・・・・・ハ短調→ロ短調
  この曲は 《イタリア協奏曲 》 BWV 971 とともに 「クラヴィーア練習曲集第2部」を構成する作品。ヘ長調の   《イタリア協奏曲》と三全音の関係におかれているが、これは両者の対立を強調するための、出版時の工夫  と思われる。なぜなら、アンナ・マグダレーナの手で書かれたハ短調の筆写譜があるからだ。
  
BWV 846 〜 893 《平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第2巻》
  全曲が一度に書き下ろされたものではなく改訂の手を加えて編纂されたものである。曲集を編纂するにあ   たり、移調して収録された曲もみられる。主として遠隔調の曲がそうである。先に簡単な調で作曲したものを  半音上げるか下げるかの移調を試みたものが多い。

BWV 946 《フーガ ハ長調》 ・・・・・・・変ロ長調 → ハ長調
  主題はアルビノーニのトリオ・ソナタ 変ロ長調からとられた。

BWV 976 《協奏曲 ハ長調》・・・・・・・・ホ長調 → ハ長調
  ヴィヴァルディの 《調和の霊感 第12番》、ヴァイオリン協奏曲とチェンバロとオルガン用に編曲した。その  際バッハがハ長調に移調した。

BWV 978 《協奏曲 ヘ長調》 ・・・・・ト長調 → ヘ長調
  同じく 《調和の霊感》からの編曲

BVW 1030 《オブリガート・チェンバロとフルートのためのソナタ ロ短調 》 ・・・・・ト短調 → ロ短調
  移調の際と思われる3度音程の書き間違えが自筆総譜に散見されることから、もとはオーボエ用としてト短  調で書かれていた可能性が高い。 

BWV 1053  《1台のチェンバロのための協奏曲 第2番 ホ長調》 ・・・・・変ホ長調 → ホ長調
  バッハは 1726年に 《オーボエ協奏曲 変ホ長調》 を一端、ホ長調のオルガン協奏曲に編曲し、更に加   筆修正してチェンバロ協奏曲として完成させた。

BWV 1056 《チェンバロ協奏曲 第5番 へ短調》 ・・・・ト短調 → へ短調
  2楽章の有名な美しいラルゴはへ短調の平行調の変イ長調である。この協奏曲は2つの協奏曲からの組み  合わせで成立したものである。両端の速い楽章はおそらくヴァイマル時代に書かれたト短調のヴァイオリン  協奏曲にさかのぼる。これに対して2楽章のラルゴ変イ長調はカンタータ 156 番 「わが片足すでに墓穴に  入りぬ」の第1曲「シンフォニア ヘ長調」のオーボエのソロに豊かな装飾を加えてチェンバロ協奏曲に転用  した。その際ヘ長調から変イ長調に移調した

BWV 1057 《チェンバロ協奏曲 第6番 ヘ長調》・・・・・ト長調 → ヘ長調
  この曲は《ブランデンブルク協奏曲 第4番 ト長調》 のヴァイオリンパートをチェンバロに書き換えたもので  あるが、その際ト長調からヘ長調に移調した

BWV 1060 《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調》 ・・・・・ニ短調 → ハ短調
  原曲は 《オーボエとチェンバロのための協奏曲 ニ短調》である 



<バッハ自身の手による移調が疑われるもの>

BWV 539  《前奏曲とフーガ ニ短調》・・・・・ト短調 → ニ短調
  BWV 1001《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第1番》のフーガの編曲に、手鍵盤のみによるプレリュードを加え  た

<アンナ・マグダレーナ・バッハ の手による移調>

 BWV 82  《カンタータ 82番 われは満ち足れり》 ・・・・ハ短調 → ホ短調
    レチタティーヴォ 「Ich habe genug!」はハ短調をホ短調に移調して 《アンナ・マグダレーナ・バッハの     ためのクラヴィーア曲集》に収めた。
    同じく アリア 「Schlummert ein,ihr matten Augen」 は変ホ長調からト長調に移調して同曲集に収め     た
以上
バッハ定例会
第1日曜日 15:00 PM
第2金曜日 10:00 AM
第4土曜日 10:00 AM

第4回バッハ礼讃音楽会
日時:2017年7月30日(日)
場所:山口県旧県会議事堂

富田庸講演会&公開レッスン
日時:2017年9月9日〜10日
場所:山口大学大学会館1階大ホール
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<プロフィール>
鍵盤楽器の
新しい記譜法
「イコール式」を提唱

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取った。爾来バッハの鍵盤作品の
とりこになった。

延べ400人の生徒のレッスンを通して、バッハのフーガを弾くことが音楽力を向上させる最も有効な手段であることを再認識した。
移調によって難易度を下げることで、ピアノの初心者も《平均律クラヴィーア曲集》に親しむことができる。

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも調性格の恣意性を指摘しています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の元調にこだわる必要は無くなります。簡単な調に移調して、まず親しむ方が大切なことです。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。
橋本絹代 著  『やわらかなバッハ』 春秋社
橋本絹代 編著 《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》


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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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