やわらかなバッハの会 The Society of Soft Bach

先入観念にとらわれることなく、バッハの音楽に親しむ会です。
イコール式音楽研究所  所長  橋本絹代
Equal Method Music Institute President Kinuyo Hashimoto

相対音感ピアノ教授法

今日のピアノ教授法は絶対音感に基づいた固定ド読みで行われるのが一般的です。絶対音感という概念は19世紀終わり頃にできたものですから、それ以前のバッハ、モーツァルト、ベートーベン、ショパン、ブラームスなどの音楽を絶対音感という概念で捕らえることは甚だ疑問です。絶対音感という概念が生まれる以前の調性音楽は相対音感に基づく移動ド読みをしなければ音楽の構造が理解できないはずです。今日私たちが弾くピアノ曲の大半は調性音楽ですから、相対音感に基づく移動ド読みの方がが適しています。

にもかかわらず、鍵盤楽器の世界を見ると現状は断然、絶対音感に基づく固定ド読み教授法が優勢です。しかも信じがたいことですが、絶対音感を持たない生徒に対してまで絶対音感教授法が行われています。これは英語が全く分らない日本人に英語で聞かせ、話させるのと同じぐらい無茶苦茶な話です。このような無謀な教授法は1オクターヴ内12個の音が固定されている鍵盤楽器に特に顕著に見られる傾向です。音程を作りながら演奏する弦楽器や声楽、移調楽器である管の世界ではむしろ相対音感の方を大切にしています。

バッハの時代には絶対音感という概念はありませんでした。従ってバッハは相対音感でもって作曲しました。バッハは「平均律クラヴィーア曲集」を編集する際に、簡単な調の草稿を難しい調に移調するということをしています。また、カンタータはピッチの高いオルガンとピッチの低い管弦楽や合唱をそろえるために、オルガンパートは1音低く移調して書きました。また、バッハは管弦楽のピッチより1音あるいは短3度高いオルガンでも見事な即興演奏を繰り広げることができました。もし、バッハが音楽を絶対音感で捉えていたら、これらの事は出来なかったでしょう。

そもそも絶対音感という言葉は、平均律のピアノが一般家庭に普及し始めた19世紀中頃以降に出来上がってきたものです。従って絶対音感は1オクターヴを等しい12の半音で頭ごなしに振り分けた音律である平均律に基づいています。バッハの時代に使われた音律は不等分音律でしたから今日の平均律に基づく絶対音感という考え方はありませんでした。バッハは相対音感でもって不朽の名作を書いたのです。

イコール式は絶対音感に基づく鍵盤楽器教授法に警鐘を鳴らし、相対音感に基づく鍵盤楽器教授法を提案するものです。イコール式は相対音感に基づく移動ド読みを楽にする目的でハ長調とイ短調に限定して移調しました。移動ド読みは絶対音感を持たない人には問題なく受け入れられますが、絶対音感を持つ人にとっては耳に抵抗があります。例えばト長調の移動ド読みで「ドミソ」となる主音が、絶対音感を持つ人には「ソシレ」としか聞こえないので厄介です。絶対音感を持つ人にも持たない人にも適用できるのが前述の2つの調、すなわちハ長調とイ短調だけなのです。「イコール式 バッハ平均律クラヴィーア曲集」は48のプレリュードとフーガをハ長調とイ短調に移調しました。まず、最初にハ長調とイ短調で全曲弾くことが大切であると考えます。しかるのちに移調して原調や全調で弾くのも良いでしょう。しかし、これは非常にレベルの高い人にしかできないことですので、一般的にはハ長調とイ短調で十分です。「平均律クラヴィーア曲集」は聴くためのものではありません。自ら弾くためのものです。イコール式によって多くの方が「平均律クラヴィーア曲集」を弾いて至福の時を味わってくださることを望みます。

ウィーンの移調譜

「平均律クラヴィーア曲集」はバッハの死後約50年を経て1801年に初めて出版されました。その約50年の間に「平均律クラヴィーア曲集」の音楽的価値を疑わない息子や多くの弟子たちによって手書きで伝承された。これらの資料が膨大であることは、この曲集が人々から愛されて口コミで面々と伝わっていたことを物語るものです。

そのような筆写譜の一つにウィーンで書かれた「平均律フーガ集」があります。ウィーンの筆写譜については世界的なバッハ研究者である富田庸の「1780年代ウィーンと平均律クラヴィーア曲集第2巻」に詳しく書かれています。

ウィーンの筆写譜はオーストリア公使としてベルリンに派遣されていたスヴィーテン男爵がウィーンに持ち帰った資料が元になっています。スヴィーテン男爵はバッハ自筆譜の初期の編集段階のものをバッハの息子か弟子のキルンベルガー経由の筆写譜でウィーンに持ち込みました。それをウィーンの有名なオルガニストであったアルブレヒツベルガーが1780年頃に筆写しました。アルブレヒツベルガー(1736生)はウィーンのモーツァルトやハイドンと親しく交わり、宗教曲を多数作曲し、音楽理論書を著し、シュテファン大聖堂の楽長として没したオルガニストです。

アルブレヒツベルガーは「平均律クラヴィーア曲集 第2巻」の中から、18曲のフーガと厳密な対位法で書かれたイ短調のプレリュードを含んだ「平均律フーガ集」を編集しました。このフーガ集に収められた曲のうち4曲はアルブレヒツベルガーによって移調されました。それらはロ長調→ハ長調、嬰へ長調→ヘ長調、変イ長調→ト長調、変ロ短調→イ短調に移調されています。移調のルールは#♭が多く難しい調を半音上げるか下げるかしてより簡単な調にするというものです。彼の移調は馴染みのない難しい調をよく使う簡単な調に移調して、原調とのずれを半音以内に収めるというものでした。

ウィーンの移調譜に対して、イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集は半音上げたり下げたりするのではなく、ハ長調とイ短調に限定して移調したものです。従ってアルブレヒツベルガーとは異なる目的を持っています。イコール式の目的は、単に簡単な調に移調することではなく、相対音感で音楽の構造を分り易く理解することです。ハ長調とイ短調に限定したのは、この2つの調だけが、絶対音感保持者の耳に混乱を与えないで済むからです。例えば簡単な調のヘ長調で移調ド読みする場合、ピッチとしては「ファ」である音を「ド」と歌わなくてはならないという混乱が起こってしまいます。またその前提として「ファ」を「ド」と読み替える移動ド読みの煩わしさもあります。イコール式の名前の由来はハ長調とイ短調が「移動ド読み=イコール=固定ド読み」であるということです。イコール式は相対音感育成の目的を持つもので、いわゆる移動ド読みとは違います。何故ならバッハのフーガなど複雑な曲ほど頻繁な転調や復調のために移動ド読みが困難になるからです。
現在のピアノ教授法は移動ド読みが困難であるか、あるいは不可能という理由で調性音楽も無調の音楽もありとあらゆる音楽を固定ド読みで指導するのが一般的です。幸か不幸か、自ら音程を作らなくてもキーを叩けば即座に目的の音が出るというピアノの特性が固定ド読み鍵盤楽器教授法を支援する要因の一つとなってきました。現在の教授法は生徒が絶対音感を持っていても持っていなくても、そんなことはおかまいなし、押しなべて固定ド読みで行われることが多いのです。
イコール式はこれに警鐘をならし、相対音感によるハ長調とイ短調限定の鍵盤楽器教授法によって音楽の構造を理解することが最初の近道であることを提唱するものです。

ピアニスト

1737年、バッハ52歳の時、進歩的な音楽雑誌の最新号はバッハを猛攻撃する記事を掲載しました。それはバッハ批判で有名な新進の音楽評論家シャイベが書いたものでした。シャイベは、バッハの手の込んだバロック風な作風を古臭い音楽として排斥し、もっと単純で分りやすい音楽を求める若い世代の美学を代表する音楽雑誌の編集者でもありました。彼がバッハのことを皮肉を込めて「優れた楽士」と書いたのです。音楽雑誌に書かれたバッハ批判の中で、バッハにとって最も侮辱的だたのは「楽士」という言葉でした。

この「楽士」という言葉に対してバッハ擁護派のライプツッヒ大学講師ビルンバウムが猛反撃に出ました。その内容についてはバッハ・アルヒーフ所長そしてハーヴァード大学教授のヴォルフの著書から引用させていただくとビルンバウムの反撃はおよそ次のようなものでした。「楽士と言う語は一般に、専ら音楽の実践と言う一形態しか主要な業績がない人々に用いられる語であり、そういう人々は他の人々が書いた作品を楽器によって音にするという目的のために雇われる。実際、この種の人々すべてに使われることすらなく、通常最も身分の低い人々だけがこう呼ばれる。従って、楽士は酒場のヴァイオリン弾きと大差がないのである」

ビルンバウムはバッハが「他の人々が書いたものを楽器によって音にする」ところの楽士ではなく、自ら作曲する音楽学者であると同時に最も偉大なオルガン奏者であり、クラヴィーア奏者であると言いたかったのです。
この音楽雑誌から分るように、バッハの時代は自ら作曲しない器楽奏者を楽士という侮辱的な言葉で呼んでいました。現在はどうでしょうか?ピアニストは主として他人が作曲した名曲を演奏するばかりで、自作の曲を演奏することは非常に稀なことです。今ではピアニストの殆どが楽士のようになってしまったかに見えます。これを画家の世界に置き換えるとどうなるでしょうか。他人が描いた絵を寸分違わず上手に写す行為は贋作ということになります。どんなに本物らしく描いてもそこにある感情や意図は原作者のものであって、贋作者のものではありません。ピアニストも全く同じことです。

シャイベをはじめ若い音楽家たちを中心とする時代の風潮が、もっと分りやすい旋律的なものに向かっている時代にバッハはフーガを書き続けました。バッハがいっさいの音楽の最初にして最後であるということを世の人々が知るのはずっと後になってからのことです。フーガ芸術が古臭いと考えられて新しい音楽の道を歩み始めた時、フーガの楽匠は存在しなくなり、どのようにフーガを語ろうとももはやフーガの教師でしかなくなったのです。そしてその道はやがて指の故障でピアノが弾けなくなったシューマンの時代から作曲家と演奏家という二つの道に別れ、それはもう後戻りできない音楽の終焉に向かう道となったのです。

富田 庸

英国クィーンズ大学音楽学部の富田庸はバッハに関する気鋭の研究者です。
彼は英国リーズ大学で「平均律クラヴィーア曲集第2巻」の論文によって博士号を取得しました。
また、ヘンレ版「平均律クラヴィーア曲集第2巻」の最新の校訂者として世界中の音楽家から注目されている研究者です。

富田庸は論文の中で、バッハが「平均律クラヴィーア曲集」を編集する際に移調したと思われる曲が幾つかあると述べています。バッハ全集 第12巻 (P.77)

富田庸は「ロンドン自筆譜の記譜中に同時に移調を試みたと考えられる根拠が修正箇所に見られるもの」として第2巻だけで8つのプレリュードやフーガを上げています。
バッハが移調したと見られる曲は編集第2段階の遠隔調に多く存在します。

2巻No.3 Cis: Fuga (C:の初期稿から移調)
  No.7 Es: Fuga (D:から)
  No.8 dis: Praeludium (e:から)
  No.8 dis: Fuga (d:から)
No.13 Fis: Fuga(F:から)
  No.17 As: Fuga (F:から)
  No.22 b: Praeludium (a:から)
  No.23 H: Fuga (C:から)
      
バッハは《平均律クラヴィーア曲集》を順番通り一気に完成させたのではありません。
草稿を発展拡張して編集し、それを浄書しながらも更なる改訂の手を何度も加えるという過程を経て書かれたものです。
更に出来上がった曲を弟子に教える時にもまた改訂の手を加え、それを弟子が写して持ってきた楽譜に書き込みました。
都合の悪いことにバッハは、レッスン中の改訂を、家に帰って自筆譜に書き改めることを怠っていました。
そのためいくつかの改訂稿が存在します。
バッハは生涯にわたって、文章を推敲するように、機会あるごとに改訂の手を加え続けたのです。
このように複雑な成立過程を経る中で、バッハは草稿を移調するという改訂も行いました。
バッハの手になる移調は、当時ほとんど使われなかった難しい調つまり遠隔調を作る一つの手段であったことが、富田庸の研究から明らかになったわけです。

ここで平均律クラヴィーア曲集第2巻の3番 嬰ハ長調フーガを例にとって考えてみましょう。
このフーガは初期ヴァージョンでは、一番基礎的なハ長調で書かれており、わずか19小節しかありませんでした。(  《平均律クラヴィーア曲集第2巻》  ベーレンライター P358参照)
またアグリーコラの筆写譜では、同じくハ長調ですが、30小節に増えています(同P352参照)
通常私たちが演奏しているものは、さらに増えて35小節です。これは32分音符の挿入により曲の終わりに向かって緊張感のあるものに作り変えたものです。小節数もさることながら、最も大きな改訂は半音上げて嬰ハ長調に移調したことです。

嬰ハ長調はシャープが7個もつく遠隔調であり、バッハの全作品の中でも《平均律クラヴィーア曲集》でしか使われていません。当時嬰ハ長調はよく知られておらず、バッハも最初から嬰ハ長調で作曲したとは考え難いのです。作曲家に聞けば先にハ長調で作曲してから移調したに違いないと言うことでしょう。

今私たちが嬰ハ長調フーガをハ長調で弾いたらバッハは何と言うでしょうか。
「半音低くて気持ち悪い」と今日の絶対音感者のようなことをバッハが言うでしょうか。
否、バッハは、調やピッチが変わっても音楽の生命は変わらないと言うことでしょう。
何故ならバッハ自身がハ長調で演奏した証拠の早期稿が現存するからです。

バッハの時代は絶対音感という概念が無く、楽譜に書かれている音とピッチの関係は絶対的なものではありませんでした。
例えばバッハはコーアトーンより、かなり高いピッチで調律されたオルガンでも見事に弾きこなしました。
もし、バッハが絶対音感で音楽を捕らえていたらピッチの違うオルガンで演奏することはできなかったはずです。

またバッハはカンタータ演奏の際、管弦楽や合唱と高すぎるオルガンのピッチをそろえるために、オルガンパートだけ低い調に移調しました。
もし、バッハが調性格にこだわっていたなら、オルガンパートを移調することはできなかったでしょう。
なぜなら、当時のオルガンは非平均律であり、調を変えれば、主和音の響きも何もかも変わってしまうのですから。

バッハの時代のピッチは町によってさまざまでしたし、一般に現在のピッチより約半音低かったとされています。
それならば、現在の半音高いピッチで弾くハ長調は、丁度バッハの時代の嬰ハ長調と同じピッチになるわけです。

このように調やピッチといったものは誠に不確実なものです。イコール式は不確実なものにこだわる愚を排します。ハ長調とイ短調の基本調に移調して音楽を正しく理解することの方がよほど大切です。イコール式音楽研究所はすべての調を絶対音感式固定ドで読む今日の鍵盤楽器教授法に警鐘を鳴らし、相対音感を大切にする教授法のひとつとしてハ長調とイ短調に限定したイコール式を提唱しています。
 



     

自筆譜

「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」の自筆譜はベルリン国立図書館に大切に保管されていますが、紙やインクの腐食のため存続の危機に瀕していました。ゲッティンゲンのバッハ研究所から小林義武が自筆譜の調査に出向いた時、穴だらけの資料を渡され開いてみると記入箇所がさらにこぼれ落ちそうになったため、即座に返却し修復の措置を取るように図書館側に伝えたことが何度かあったそうです。修復方法は紙面の表面と裏面をはがし、その間に新しい紙を1枚挿入して再び張り合わせるという方法です。この方法によって「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」の自筆譜は紙が厚くなり強化修復されました。

「平均律クラヴィーア曲集第2巻」の自筆譜は祖国を離れロンドン大英博物館所有となっており、保存の状態はかなり良好ですが、不完全な形で残されています。このロンドン自筆譜は24曲中、3曲のプレリュードとフーガ(嬰ハ短調、ニ長調、ヘ短調)が欠けており表紙も消失しています。
従って正確に言うと「平均律クラヴィーア曲集第2巻」という表題はバッハがつけたものではないことになります。現存する筆写譜の中にバッハの弟子で娘婿でもあるアルトニコルの手によるものがあります。これは研究者たちがバッハの意図も反映しており最終稿に相応しいと見なしているものですが、その表紙に「平均律クラヴィーア曲集第2巻、すべての全音と半音を用いたプレリュードとフーガ集。ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家、楽長、ライプツィヒ合唱音楽隊監督ヨハン・セバスティアン・バッハがこれを作曲す」とあります。これによって私たちは「平均律クラヴィーア曲集第2巻」と呼ぶことになったのです。第2巻はバッハの肩書きや「全音と半音」という表現が第1巻のそれとは異なっています。

第2巻は第1巻のように完全な形の自筆浄書譜が残っていません。欠けた3曲は信頼のおける弟子たちが書き写した「もう一つの失われた自筆譜」によって完成しています。弟子のアルトニコルやキルンバルガーの筆写本にはバッハが更に改訂の手を加えているので信頼できる資料と言えるのです。第2巻の自筆譜は次の3つのグループを成しています。第1のグループは調号が4つまでで比較的簡単な調が12曲入ったもの、第2のグループは調号の多い難しい調が7曲入ったもの、第3のグループはハ長調と変イ長調の2曲、そして最後に欠けている3曲です。
        

出版譜

「平均律クラヴィーア曲集」の出版譜が世に出たのはバッハの死後50年を経た1901年のことでした。出版譜が出るまでは自筆譜をはじめとする手書きの筆写譜によって伝承されてきました。最初の出版譜は時期を同じくしてライプツィヒのフォルケル校訂、ボンのシュヴェンケ校訂、チューリヒのネーゲリ校訂による3種類でした。これらの出版譜は死後世間から忘れ去られていたバッハの復興運動を起こす導火線の役目も果たしました。

1829年はメンデルスゾーン(1809生)によってマタイ受難曲の復活上演がバッハ縁の地ライプツッヒで行われ、それが大センセーションを巻き起こした年です。この時以後バッハの音楽の偉大さが広く再認識されることになり、1837年にはチェルニーの校訂による解釈付き「平均律クラヴィーア曲集」が出版されました。
1850年にはバッハ没後100年を記念してバッハ協会が設立され、バッハの全作品の校訂が始まることになります。何度も改訂の手を加えた自筆譜や沢山ある筆写譜を校訂する作業は半世紀もの年月を要し、バッハ全集の最終巻が出版されたのは1900年のことでした。このバッハ全集の中にあるクロル校訂の「平均律クラヴィーア曲集」は当時としては最も権威のあるものでした。ビショッフ、ブゾーニ等の校訂者にも多大な影響を与え、多くの校訂版が出版されました。

当時としては画期的だったバッハ全集も第2次世界大戦を経て1950年には絶版になっていました。再版も可能でしたが、これを機会に新バッハ全集を作ろうという声が上がり、新バッハ協会が設立されました。旧バッハ全集が主に音楽的見地から校訂されているのに対して、新バッハ全集は文献的な見地から校訂されています。文献的とは現存するすべての資料を調査し、資料間の親子関係を明らかにし、その家系図を作り、さらに資料批判をするという緻密な作業で、今回もまた半世紀の年月を要しました。ゲッティンゲンのバッハ研究所で編纂されたデュル校訂の「平均律クラヴィーア曲集」が出版されたのは1997年、最終巻の出版完了が伝えられたのは極最近のことで2007年6月13日でした。

新バッハ全集の校訂進行中に、イルマー校訂版、デーンハルト校訂版、トーヴィ校訂版などが相次いで出版されたことによって、従来の解釈的校訂版に替わって原典版ブームが起こり、通称ヘンレ版は音大生必携原典版になりました。しかし1出版社の1校訂者が世界中に散らばった資料の大捜査や資料批判をすることは個人の仕事としては限界を超えています。このことはゲッティンゲンのバッハ研究所でバッハ全集の編纂に携わった小林義武氏は「すべての資料のレチェンジオ(資料批判)を行って原典を探る仕事は、収益とは無関係に、国家の文化政策の一環としてのみ実現されるものである」と述べていることからも明らかです。新バッハ全集をもとにベーレンライター社から出版されたデュル校訂の「平均律クラヴィーア曲集」も、ベーレンライター社に出版のみを委託したに過ぎません。
デュル校訂版は通称ベーレンライター版と言われていますが、本当は出版社名を言うのではなく、ゲッティンゲンのバッハ研究所編纂による新バッハ全集のデュル校訂版「平均律クラヴィーア曲集」です。
原典版の主流であったヘンレ社はベーレンライター社に負けじと2007年に更に新しい校訂版を出版しました。最新版は「平均律クラヴィーア曲集 第2巻」に関する世界的権威である富田庸の校訂によるものです。

ピッチが半音低い時代

平均律クラヴィーア曲集第1巻から3番嬰ハ長調プレリュードを取り上げます。キラキラと輝く2つ声部が位置を交換しながら輪舞する天使を思わせる佳曲です。バッハは、足が地に着かないほど高いシャープ調の嬰ハ長調を平均律クラヴィーア曲集で使用した以外には使っていません。

バッハが作曲した当時、最も一般的だったミ−ントーン音律における嬰ハ長調では、その主要3和音がすべて非常に極端な響きになります。当時の音楽理論家たちの耳に嬰ハ長調がどのように聴こえたのかケレタート著、竹内ふみ子訳「音律について」から探ることにしましょう。マッテゾン(1681生)は「その効果があまりまだ知られていない」、ゾルゲ(1703年)は「殆どどうしようもなく硬い」、シューバルト(1739生)は「やぶにらみのような調性、この調性にはただ珍しい性格と情緒しか託すことができない」、クラーマー(1752生)は「ただ不愉快感だけが残っている」と述べました。しかし、バッハが平均律クラヴィーア曲集で用いた嬰ハ長調は明るく輝く調性として捉えられており、マッテゾン等の捕らえ方と正反対のようでもあります。バッハが用いた音律は12等分平均律に近いものだったと考えられていますが、現在の私たちが使っている12等分平均律のピアノでは、すべての調が同一の調性格を持ちモノクロの世界が広がるだけです。

バッハが作曲した当時のピッチはどうだったでしょうか。
作曲された当時の楽器や奏法をオリジナル或いはピリオド楽器と言います。現代の楽器はモダン楽器と言います。オリジナル楽器のピッチはa’=415ぐらいであるのに対してモダン楽器はa’=442〜445 です。モダン楽器の方が約半音高いのです。つまり、オリジナル楽器で演奏する嬰ハ長調の曲はモダン楽器ではハ長調になってしまうわけです。

イコール式の「平均律クラヴィーア曲集」は嬰ハ長調の曲をハ長調で記譜しています。モダン楽器のピアノで演奏する場合には、嬰ハ長調の曲をハ長調に移調すると丁度バッハの時代のピッチになります。しかしイコール式が目的としていることは、古い時代のピッチを再現することではありません。古い時代のピッチに合わせるだけなら平均律クラヴィーア曲集をすべて半音づつ低く移調して記譜すれば良いのですがイコール式はすべての調をハ長調とイ短調に移調しました。それはイコール式の目的が古楽思考ではなく、相対音感による鍵盤楽器教授法だからです。ハ長調とイ短調だけは、絶対音感読みと相対音感読みがイコールになります。この二つの調に限定することによって、絶対音感を持つ生徒も、持たない生徒も耳に抵抗なく相対音感を身につけることができるのです。

イコール式が従来の移動ド読みと何処が違うかと言うことをご説明しましょう。ト長調のメヌエットを例にとると、固定ド読みの「レーソラシドレーソーソ」の移動ド読みは「ソードレミファソードード」となります。この時、絶対音感を持たない生徒は耳に抵抗を感じることはありませんが、絶対音感を持つ生徒は音の読み方とその音高が食い違っていることに抵抗を感じます。イコール式の楽譜の場合は記譜されている音符そのものもハ長調の「ソードレミファソードード」ですから、絶対音感を持っていても抵抗を感じなくてすみます。イコール式がハ長調とイ短調に限定しているのはこういった理由からです。

現状の鍵盤楽器教授法は固定ド読みが一般的です。固定ド読みは絶対音感を持つ生徒に抵抗がありませんが、絶対音感を持たない生徒にとって「レーソラシドレーソーソ」は耳に抵抗が生じます。このことは非常に危険なことでもあります。例えば、本番中に音を忘れた場合です。今弾いているところが何ページ目の何段目のあたりであるか分っており、音楽が頭の中で鳴ってはいるのですが、絶対音感を持たないためにその音名が分からず弾くべき鍵盤の見当がつかないのです。「レーソラシドレーソーソ」という固定ド読みで覚えてもそれは音楽理論的に意味を持たないメロディーですから、頭の中にある音程記憶の引き出しからこのメロディーを呼び出すことは不可能です。
しからば絶対音感さえあれば安心といえるでしょうか。絶対音感を持つ生徒は、このメヌエットを「レーソラシドレーソーソ」とソルフェージュすることは可能でしょう。しかし、それは弦楽器奏者などが作る正しい音程ではなく、12等分平均律のメロディーでしかないのです。音楽は相対音感で捉えた時に始めてメロディーが生命を持ち、その和声とともに理解できるのです。私の生徒の中にはピアノの鍵盤を無茶苦茶に10個以上同時に鳴らしてもそのすべてを言い当てる絶対音感の持ち主もおります。そういった生徒でもテレビから流れてくるメロディーをピアノでさぐり弾きする時や、作曲、編曲をする時は不思議なことに相対音感でやってしまうのです。

イコール式は絶対音感による鍵盤楽器教授法の危険性に警鐘を鳴らし、相対音感による教授法を提唱しています。バッハの時代には存在していた調による性格の違いも、モノクロの12等分平均律においては空理空論になってしまいました。また、時代と共にピッチが変化することによって調の絶対音高も定まりません。このことは同時に標準音a’=440の時の12等分平均律というものに基づく絶対音感も神話に過ぎないことを物語っています。こういった状況にある現在鍵盤楽器教授法において「平均律クラヴィーア曲集」を元の調のままで演奏することに何のメリットが望めると言うのでしょうか。実体のない調性格やピッチにこだわることよりも、相対音感による鍵盤楽器教授法によって、楽曲を深く理解することの方が音楽力を高める近道です。

バッハの転職

時は1720年のクリスマス前、ドイツのハンブルク聖ヤーコビ教会で起こった話です。
ケーテン宮廷楽長で35歳になっていたバッハは聖ヤーコビ教会オルガニストに志願しました。最も名高く最も偉大なオルガンの巨匠はハンブルグの最も大きなオルガンによって見事な演奏を聞かせ、絶賛を浴びました。老巨匠のラインケン(1623生)はバッハの演奏に「オルガン音楽はもう死滅したものと思っていたが、今君の演奏を聴いて未だその精神が受け継がれていることが良く分った」という賛辞を贈りました。

しかし、その採用試験には、他の無能なオルガン奏者とならんである金持ちの職人の息子も志願していました。彼は指で弾くよりも財産で弾く方が上手でした。そして、その彼がオルガニストに選ばれたのです。これにはほとんどすべての人が納得できませんでした。聖ヤーコビ教会の後任者を実力ではなく寄付金で決めたことに対する不満の意をヤーコブ教会牧師がその年のクリスマス説教で次のように述べました。
「たとえ、天使がこの教会のオルガニストを志望して天から舞い降り、神の様な演奏をしても、現金を持ち合わせていなければこの町では受け入れられないのだから、虚しく飛び去る以外にないであろう」

バッハが失望することはこのことの前、31歳の時にも起こりました。それはヴァイマル宮廷でのことです。高齢の宮廷楽長の後任になりうるという見通しで奉職していたバッハが、自分ではなく、高齢で亡くなった楽長の息子にその地位を奪われたことです。今まで認められてきたバッハの業績が軽視され、全く凡庸な息子の下に位置づけられるということは、バッハの正当な自負心を傷つけ、辞任を願うこと意外にありませんでした。そして、バッハは自ら望んだ転職によって、ヴァイマルでは得られなかった楽長の地位をケーテンで与えられ驚くほどの高額な俸給を約束されたのです。





第2巻 プレリュードとフーガ 変イ長調

バッハが自ら移調した曲のひとつである平均律クラヴィーア曲集第2巻17番 変イ長調を取り上げます。プレリュードとフゲッタ ヘ長調 BWV 901 プレリュードこの曲はヘ長調のプレリュードとフゲッタ BWV 901として作曲されたものをバッハ自身が変イ長調に移調し、大幅な改作を行った上で平均律クラヴィーア曲集に収録しました。
写真をクリックしてご覧いただくとプレリュードには「3点ハ」が4回出てきます。バッハの時代の楽器は今より鍵盤数が少なく「3点ハ」が最高音でした。このプレリュードを変イ長調に短3度上げると演奏不可能な音が出てくるためにバッハは新たにプレリュードを書きました。ヘ長調の前作は静かなパストラーレ風、変イ長調の新作はバッハ円熟期の卓越したプレリュードです。

フーガはフゲッタとして作曲されたものでもともと23小節で終わっていました。
バッハはその後に27小節も付け加え、その継ぎ目が誰にも気づかれないほど上手に前半と後半のまとまりをつけています。

バッハの時代に一般的であった中全音律における変イ長調は極端な調です。
主和音「変イーハー変ホ」にウルフの5度を含むからです。さらに凝戮力族察嵎僖蹇縞僖法璽悄廚鉢催戮力族察屮悄縞僖ぁ璽蓮廚盒肪爾紛舛です。属和音だけが純正です。音楽理論家のシューバルト(1739生)は変イ長調を「墓の調性であり、死、墓、朽ち果てること、審判、永遠がその範疇にある」と述べました。さらにシリング
(1805生)も「霊や魂がゆらゆら揺れながら天国へと到達するかに見える」と述べました。

ではバッハの変イ長調はどうでしょうか。バッハの全鍵盤曲の中で変イ長調は平均律クラヴィーア曲集にある2曲のみです。
平均律クラヴィーア曲集第1巻17番のプレリュードは合奏と独奏が交替する協奏曲形式ですがこの曲ほど音楽的解釈が分かれる曲は珍しいと言えるでしょう。暗く荘厳な解釈、威風堂々としたフォルテの解釈、穏やかで優美な解釈、軽いスケルツァンド風の解釈などです。フーガはまるで鐘のように反響する主題によって「大寺院フーガ」と呼ばれ、厳粛な宗教的情緒を感じさせます。
平均律クラヴィーア曲集第2巻17番のプッリュードは整然とした流暢な流れがナポリの7の和音に向けて強烈な終結的盛り上がりに達する威風堂々とした佳曲です。フーガは48曲中最も卓越していると言われ技巧的かつ変化に富んだ雄大なフーガです。

もしもバッハが、平均律クラヴィーア曲集を編集する際に調性格の確立を主たる目的にしていたとしたら、ヘ長調だった初稿を遠く離れた変イ長調に移調できなかったのではないでしょうか。バッハの主たる目的は24すべての調を網羅することでしたから、#♭の多い調は#♭の少ない調から移調することも平気でやったのでしょう。

イコール式は調性という不確実な神話に囚われることなく、音楽にとって最も大切なことを教授することを目指しています。それは従来の絶対音感による鍵盤楽器教授法を相対音感による教授法に変えることです。絶対音感による教授法は、絶対音感という概念が定着した20世紀末以降の音楽にこそ相応しいのです。それ以前の音楽は、相対音感で捉える方が分かりやすいのです。



無農薬ピアノ

現代人はピアノといえば平均律と思い込んでいる人が非常に多いものです。何の疑いもなく平均律のピアノを購入して定期的に調律師に調律してもらうのが当然のこととされています。ピアノのユーザーは自分で調律することができないので、調律師まかせの平均律と言うのが暗黙の了解で常識となっています。ユーザーは鍵盤の重さやタッチの不揃いについて調律師に注文をつけることはあっても、音律まで注文をつける人は滅多にいないのが実情です。

平均律のピアノが一般に普及したのはイギリスのブロードウッド社が等分平均律に調律したピアノを1842年に市販した頃からです。それ以前は調によって変化を伴う不等分音律が一般的でした。不等分音律は調によって多彩な表現があるからこそ、作曲家は各自の好みによって特定の調に特定の性格を与えることができたのです。
それなのに平均律はすべての調を単純でモノクロの音楽にしてしまいました。それは丁度ドビュッシーの頃、平均律ピアノが普及し始めた時期と重なります。不等分音律から平均律への移行は音楽史に大きな溝を作ることになりました。

不等分音律の消失とともに印象派、調性の崩壊、12音音楽、無調、微分音、トーンクラスター、電子音によるミュージック・コンクレート、視覚的要素に大きく依存するインターメディア、不確定性の音楽、空間音楽、コンピューター音楽等などの新しい音楽が生まれました。

しかし現在、私たちが平均律のピアノで演奏している音楽の大半は不等分音律の響きで作曲された調性音楽です。ピアノのレッスンで弾く曲の大半が調性音楽であるにもかかわらず、音楽教室や音楽大学には平均律のピアノしかありません。平均律のピアノで弾いてよいのはドビュッシー以後の作曲家なのです。平均律のピアノでベートーベンやショパンを弾いても、その作曲家が意図した響きではありません。

無農薬野菜を食する人の舌は、農薬がかかった野菜を苦く感じ、野菜本来の味が損なわれていることを知っています。ピアノも全く同じことです。無農薬ピアノを弾く人の耳は、平均律で弾く調性音楽をモノクロに感じ、作曲者が意図した本来の美しい響きではないことを知っています。無農薬ピアノ、それは作曲された当時と同じ不等分音律で調律されたピアノのことです。私たちの耳は無農薬ピアノを弾くことによって初めて、今まで何の疑いもなく弾いてきた平均律が単純でモノクロであることを聞き分ける耳ができるのです。平均律は作曲家が選んだ調で弾いた時も、移調して弾いた時も、旋律や和声に何の変化もなくモノクロです。

イコール式は平均律を逆手にとった鍵盤楽器教授法と言えます。移調することによって、移動ドに読み替える手間を省きました。そしてすべての曲をハ長調とイ短調で記譜することによって、絶対音感を持つ人も、持たない人も、音楽を相対音感で捉えることを可能にしました。相対音感がもたらす音楽的成長は計り知れないほど大きなものです。



やわらかなバッハの会
〒753-0072 山口県山口市大手町
3−6 大手町ビル4F
毎週土曜日18:00 PM
毎週金曜日10:00 AM
毎月1回   対話集会18:00 PM
都合により日時を変更する場合もありますので初めての方は事前にご連絡ください

お問い合わせはこちら

マンスリーバッハ (第2日曜日)
午後4時〜6〜時
場所:新山口駅構内

バッハ・イン・ザ・サブウェイズ
2019年3月21日
場所:新山口駅構内

<プロフィール>
やわらかなバッハの会 
会長 橋本絹代
新しい鍵盤楽器記譜法「イコール式」の創始者

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取り
バッハのとりこになった。
初級者でもバッハのフーガを楽む方法を提案している。

2007年 世界で初めての楽譜《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》カワイ出版 

2009 音楽書『やわらかなバッハ』春秋社

2013「やわらかなバッハの会」設立

2014 バッハ礼讃音楽祭 (於 旧県会議事堂) 毎年開催

2016 バッハ・イン・ザ・サブウェイズ (於 新山口駅構内)毎年開催

2017 Bach Network UK 対話会議研究発表 (於 ケンブリッジ大学)

2017 Prof.Yo Yomita (富田庸) 講演会「バッハを嗜む」主催(於山口大学)

2018 Thomas Cressy 明治150年記念「日本の明治時代におけるバッハ受容」

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも「どんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりすることはできない」と述べています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の中の難しい調を簡単な調に移調してまず親しむことが大切です。初級者は更にそれをアンサンブルで楽しむことが大切です。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。


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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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