やわらかなバッハの会

先入観念にとらわれることなく、自由にバッハの音楽を楽しむ会です。
イコール式音楽研究所

バッハ時代の感覚

ブゾーニ (Busoni 1866〜1924) は ピアノのヴィルトゥオーソとして名を成し、作曲家としても多数の曲を書いた。編曲も多く、中でもバッハ作品のピアノ用編曲は有名である。ブゾーニは、19世紀末のロマン派音楽は動脈硬化を起こし、もはや袋小路に入ったとしてロマン派音楽の終焉を予見し、「バッハへの回帰」を呼びかけた。

ブゾーニは言う。
「バッハの作品は幾世代にも先んじ、時代を超える巨大な姿を呈している。ハイドンとモーツァルトのピアノ曲は実をいうとバッハ以上にわれわれから遠く離れて位置し、彼らの時代の枠に完全に適合している。ハイドンとモーツァルトはどのようにしても現代のピアノ様式には適合せず、ただ原曲のみがそれらの表現内容に相応しい」
ハイドンやモーツァルトはバッハより新しい。しかしブゾーニはバッハの方が、実は新しいという。ハイドンやモーツァルトは古典派という音楽史の時代区分の枠にはまっているが、バッハはバロックという時代区分の枠を超えて巨大な姿を呈しているというわけである。

この言葉はブゾーニ校訂版 「適正律クラヴィーア曲集」の序文にある。「適正律」とは聞きなれない言葉だと思うが、バッハの書いたドイツ語を正しく翻訳するとこうなる。我が国では長年「平均律クラヴィーア曲集」と呼ばれているが、これが誤訳であることが一般的にも知られるようになってきた。表題の翻訳に関しては拙著『やわらかなバッハ』で詳しく述べているのでここでは触れないが、そろそろ「適正律平均律クラヴィーア曲集」と呼んでも通用する時代になってきたと思うので、このブログでも「適正律クラヴィーア曲集」と呼ぶことにする。

ブゾーニは10年の歳月を費やして「適正律クラヴィーア曲集」を研究し、ブゾーニ版を出版した。ブゾーニ版の特徴の一つは、プレリュードとフーガのペアを差し替えたことである。彼は1巻変ホ長調プレリュードの後に2巻変ホ長調のフーガを持ってきた。1巻と2巻のフーガを差し替えたのである。何の目的だろうか?

それを考えるには、まずそれぞれの曲の性格を調べる必要があるだろう。

1巻7番変ホ長調プレリュード・・・・のびのびと奏されるプレアンブレムに続いて自由なフゲッタとフーガ。大きな構成の真摯な曲。力強さ、男性的

1巻7番変ホ長調フーガ・・・無邪気な明るさ、軽快、優美な貴婦人の振る舞い

2巻7番変ホ長調プレリュード・・・・薄い響きの草書体、繊細、ゆるやかに流れる、明るさと陰りが同居

2巻7番変ホ長調フーガ・・・重々しく身を固めた男性的な
コラールフーガ、情熱、活気あふれる楷書体

この4曲がすべて変ホ長調であるとはとうてい考えられないほど多様である。否むしろ対照的という方が当たっているかもしれない。男性的対女性的、草書体対楷書体など。
ブゾーニは多分、1巻の男性的なプレリュードに、2巻の男性的な楷書体のフーガをペアにすることによって性格の統一を図ったのであろう。同様に、2巻の女性的なプレリュードには1巻の女性的な草書体フーガが似合うと考えたのであろう。

もし調によって一定の調性格があるとしたら、変ホ長調は男性的なのか女性的なのか、どっちかと問いたくなる。それでは調性格論で有名なマッテゾンとシューバルトに変ホ長調の性格を聞いてみることにしよう。
マッテゾンは変ホ長調の性格を「非常に悲愴、官能的な豊かさを嫌う」と述べている。シューバルトは「愛、敬虔、神とのくつろいだ対話、3つのフラットをもって三位一体を表す」と述べた。

この2人も変ホ長調に対する感性に共通点は見られない。マッテゾンもシューバルも、そして「適正律クラヴィーア曲集」も、変ホ長調の性格はばらばらである。マッテゾンは後に 「調性格は恣意的である」として、自らの調性格論を否定したが、それもむべなるかなである。

話をブゾーニも戻そう。ブゾーニは、「適正律クラヴィーア曲集」の研究に10年を費やしたというだけあって、24の調に、それぞれの調性格など存在しないことを理解していたのであろう。変ホ長調を一つは男性的なペアで、他方は女性的なペアでまとめ、変ホ長調に対照的な調性格のあることを証明してみせたのである。

変ホ長調のプレリュードとフーガを差し替えたことに対して、トーヴィー(1875〜1940 音楽学者)は反対意見を表明した。賛成、反対など歴史的に有名なピアニストや音楽学者の意見は色々である。
また2巻変ホ長調フーガについては、ニ長調版が早期バ―ジョンとして残っている。バーレンライター版の354ページに ニ長調で書かれたフーガが掲載されている。

多様な見解があり何を信じたら良いのかわからない。だから大事なことは、固定観念にとらわれず、権威主義に陥らず、バッハの意図を自分の頭で考えることしかないようである、。

バッハの時代はまだ教会旋法の感覚が生きており、われわれの感覚とは大きく違っていた。われわれはバッハ以前の音楽=教会旋法をほとんど耳にすることがない。そして、バッハの時代には知る由もなかったモーツァルト、ベートーヴェン、、ドビュッシー、シェーンベルクの音楽と比較してバッハの音楽を聴くのである。われわれの感覚は最初に長調と短調ありきであり、近代和声学が音楽の文法であり、調が音楽の文脈であり、調の拡大と崩壊を経験した。バッハ以前は教会旋法ありきであり、対位法が音楽の文法であった。バッハはまさにその分水嶺である。

バッハは 「適正律クラヴィーア曲集」 の扉に次のように書いた。「長3度 ドレミ に関して、或いは短3度 レミファ に該当するすべての全音と半音によるプレリュードとフーガ」

もしバッハがこの曲集を長調と短調で書いたのなら、「短3度 ラシド」 となるはずである。ところがバッハは「短3度レミファ」と書いており、基本的にドリア旋法が頭の中にあったと想像できる。
「長3度 ドレミ」はイオニア旋法に当たる。

ではここで旋法の特有なアフェクトをプリンツ(Prinz 1641〜1717)に尋ねてみよう。
プリンツによるとイオニア旋法は「陽気で活発」、ドリア旋法は「温和、敬虔」と記述されている。
教会旋法は終止音が「ハ」であるところのハ調イオニアも、ニ調イオニア、も何調でも等しく「陽気で活発」なのである。
イオニア旋法は後に「長調」、ドリア旋法は後に「短調」へと収斂される。「適正律クラヴィーア曲集」にはこの2つの旋法の性格があるのみである。音階終止音が12個あり、それぞれに長調と短調があるから合計24の調性格があると考えるのは間違いである。

「適正律クラヴィーア曲集」は、イオニア旋法(=長調)と、ドリア旋法(=短調) の、全音と半音のプレリュードとフーガということになるのである。

平均律クラヴィーア曲集の配列

平均律クラヴィーア曲集(以下 WTC と記載) は1巻24曲、2巻24曲、どちらも調の配列は同じである。1番ハ長調から半音階的に上昇し、24番ロ短調で終わる。長調と短調を交互に配し、理論上考えられる24すべての調を網羅している。
CDや、コンサートでも、1番から24番まで長調短調交互、半音階上昇順に演奏するのが常識となっている。
しかし、バッハは果たしてこの配列と曲の性格に何らかの音楽的意味を持たせて作曲したのだろうか?

この問題を考える前提として押さえておかねばならないことがある。バッハの時代はミーントーン音律が一般的で、今日私たちがよく知っている12等分平均律の音律とは大きく違っていた。ミーントーンでは綺麗に響く調と極端な響きになる調があり、使用できる調は多くてせいぜいシャープフラット4個ぐらいまでである。バッハの全作品はほぼこの調の範囲に入る。24の調のうち、普通によく使用される調をシャープフラット3個までの長短調と限定すれば、14個の調になる。理論上考えられる24個の調の中で、残りの10個はシャープフラットの多い調=遠隔調である。遠隔調は当時ほとんど使用されないか、全く使用されない未知の調だった。

バッハと同時代に生きたマッテゾンの調性格論を開いて見ると、嬰ハ長調、嬰ハ短調、嬰ニ短調、嬰へ長調、変イ長調、嬰ト短調、変ロ短調は「記述なし」となっている。シャープフラットの少ない調、即ちミーントーンで演奏可能な調に対しては、事細かに調性格を記したマッテゾンであるが、当時よく知られてなかった遠隔調に対しては性格を書けなかったのであろう。もっともマッテゾンは後に、調性格を恣意的なものとして、自ら否定してしまうのであるが。

ミーントーンの時代にあって、バッハはWTCに24の調を網羅しようとした。ではどのようにして、当時よく知られてなかった調の曲を作ったのだろうか。バッハはまずシャープフラットの少ない調を完成させ、第2段階で遠隔調を完成させたようである。これはバッハに限らず当時の作曲家にとってごく自然な手順だったろう。
第2段階に取り掛かかったバッハは、あらかじめシャープフラットの少ない調で作曲し、それを半音上か下に移調するという方法をとったと考えられる。これも作曲家の方法としてはごく自然であろう。シャープフラットの多い嬰ハ長調や嬰へ長調の曲を作るのに、わざわざよく知られてない調で作曲する方が不自然というものである。

バッハ研究者として世界的に知られる富田庸氏の研究によると、嬰ハ長調はハ長調で作曲された後、バッハはそれを半音上げながら浄書したが、移調の間違いを修正した証拠が自筆譜に残っているという。富田氏は 「ロンドン自筆譜を記譜中に同時に移調を試みたと考えられる根拠が修正箇所に見られるもの」 として、WTC第2巻の中に7曲を指摘している。
(バッハ全集 第12巻 小学館 P.77)

バッハはシャープフラットの少ない調から先に作曲し、残った調は移調を試みて24すべての調を並べたらしい。ということは、バッハは移調によって曲の性格が変わるとは考えてなかったことになる。バッハはシャープフラットの多い調に新たな調性格を確立しようとしたのではなく、ただ単に24の調種を並べることが目的だったようである。もし24の調性格の確立が目的なら、調性格の変化をもたらす移調をしなかっただろう。ここでいう移調とは近代長短調における移調の意味であるが、移調についてはさらに深く考察したい。

WTC第1巻のタイトルページにバッハはこのように記している。「長3度ドレミ、短3度レミファに該当するすべての全音と半音によるプレリュードとフーガ」
長3度ドレミとはイオニア旋法、短3度レミファとはドリア旋法であり、この2つの旋法の全音と半音を音階開始音とするプレリュードとフーガという意味であろう。つまりイオニア旋法の12の音階開始音とドリア旋法の12の音階開始音を網羅した24のプレリュードとフーガの意味だと思われる。イオニア旋法はどの音階開始音でも性格は等しい。ドリア旋法も同様である。もし性格を変えたいなら ”移旋” しなければならない。、旋法の名前が変われば性格も変わるが、音階開始音が変わっても性格は変わらない。WTC はイオニア旋法とドリア旋法という2種類の旋法による24のプレリュードとフーガである。従って調性格は2種類しかない。イオニア旋法は長調、ドリア旋法は短調に相当するので WTC は長調と短調の2種類の性格があるのみだ。

WTC の成立過程を考慮した結果だろうか、バルトーク(1881-1945)は、WTC の配列を難易度順に並べ替えることを試みた。バルトーク版の WTC は第1巻1番がト長調(原典版は2巻15番)で始まる。2番はニ短調(原典版は1巻6番)、3番は変ロ長調(原典版は1巻21番)というふうに、半音階的上昇順も、長調短調交互の規則性もない。あくまで難易度順である。バルトークが最高難易度と判断した曲はロ長調(原典版は2巻23番)である。この曲が最後というには多少異論もあるかもしれないが、押しなべて難易度順に並んでいる。

WTCの24の調をすべて演奏可能にするには当時のミーントーン音律では無理だった。だからバッハはWTCをバッハ独自の調律法で演奏したと考えられる。バッハ独自の調律法はミーントーンに存在した調による響きの違いが、ほぼ消えた音律であろう。綺麗に響く調と極端な調が混在するミーントーンには調性格の違いがある。しかしバッハの調律は極端な調を無くすために、綺麗に響く調との譲り合いが必要であり、その結果としてどの調も似たものにならざるを得ない。ミーントーンにおける調の違いは人の感覚によりまちまちで恣意的であるとはいっても、調の違いは確かにある。しかし、24の調すべてが使用に耐えるバッハ独自の音律は、調による違いが理論的に微細なものになる。バッハをこのことを熟知しており、だからこそ調性格を確立するのは不可能と考えたのであろう。

WTCの1巻と2巻の同一調を比較すると同一性格を有してない場合が多い。例えばニ短調のプレリュードを1巻と2巻で比較すると、1巻の方は瞑想的、内省的で夢見るような性格であるのに対し、2巻は生き生きと波立つ力動感に満ちている性格である。バッハはニ短調に性格の違う曲を配している。もし、バッハがWTCにおいて調性格を確立したというならば、どちらのニ短調も同一性格の曲でなければならない。

以上がWTCの固定観念にとらわれない柔軟な解釈である。

バッハ・イン・ザ・サブウェイズ

バッハ・イン・ザ・サブウェイズはバッハの誕生日を祝ってバッハの音楽を道行く人々にお届する世界的イベントです。この運動はクラシック音楽を次世代に繋ぐ種まきを目的とするものです。ニューヨークの地下鉄で一人のチェリストが一日中バッハの音楽を演奏し、年を追うごとに参加する音楽家たちが増えてきました。バッハ・イン・ザ・サブウェイズは創始者のチェリスト、デール・ヘンダーソン氏が地下鉄で演奏したことから名付けたものです。彼はクラシック音楽がこの世から消えてしまわないためにバッハが最高の使者になってくれると考えました。また彼はこのイベントでは無料演奏、一切の金銭的な活動を排除することを義務付けました。この趣旨に賛同する音楽家たちが、プロアマ問わず、今では世界40か国、150以上の都市で、バッハの誕生日を祝ってバッハの音楽を演奏しています。山口県では「やわらかなバッハの会」が新山口駅の南北自由通路(緑の壁)で8時間のライブを繰り広げました。

スタートは朝9時、キーボードソロ で 《 イギリス組曲2番 BWV 807 》  
続いてご夫婦によるヴァイオリン&キーボード で 《 われは心より汝を愛す、おお主よBWV 340 》
一組15分間の演奏ですから、各組プログラムにない曲も幾つか演奏しました。
2台のキーボードで 《音楽の捧げもの 2声の蟹行カノン BWV 1079 》 
テナーソロ で 《 われらが神は堅き砦 BWV 302 》                   
リコーダーソロ による 《 無伴奏チェロ組曲1番 BWV 1007 》                            
トランペットで 《 主よ人の望みの喜びよ BWV 147 》
フルート&リコーダー&ヴァイオリンで 《音楽の捧げもの トリオソナタ BWV 1079 》
ヴァイオリンで 《無伴奏ヴァイオリンパルティータ  シャコンヌBWV 1004 》
ピアニカで 《 G線上のアリア 》
ジェンベ&ヴォーカルで 《 無伴奏チェロ組曲1番 BWV 1007 》
リュートで 《 リュート組曲 BWV 995 》
ヴォーカルのデュエットで 《 インヴェンション1番 BWV 772 》
ギターリ&コーダーで 《 フルートと通奏低音のためのソナタ BWV 1033 》
キーボードソロで 《羊は安らかに草を食み BWV 208 》

無伴奏チェロ組曲1番 BWV 1007 を歌ったり、リコーダーで演奏したりと新鮮な驚きもありました。
以下はプログラムに掲載された曲目のみ書いておきます。

平律クラヴィーア曲集1巻5番 BWV 850
おお人よ汝の大いなる罪を嘆け BWV 622
チェンバロ協奏曲5番 アリオーソ BWV 1056 
平均律クラヴィーア曲集1巻1番 BWV 846
われはここ飼葉桶のかたえに立ちて BWV469
天にまします我らの父よ BWV 636
プレリュードBWV 998  
平均律クラヴィーア曲集1巻3番 BWV 848
フーガ ト短調BWV 578
平均律クラヴィーア曲集1巻12番 BWV 857
フーガの技法》8度のカノン BWV1080
平均律クラヴィーア曲集1巻4番 BWV 849                             
目覚めよと呼ぶ声あり BWV 645
ゴルトベルク変奏曲 アリア BWV 988

上記以外に書ききれないほど沢山のバッハ作品でもって、一日中、駅の通路は満たされました。
バッハの誕生日を祝って。
日頃コンサートに行かない方も通りすがりにバッハの音楽を耳にしてくださったことと思います。また長時間立ったままで私たちの音楽に耳を傾けてくださった方も沢山おられました。心より御礼申し上げます。

やわらかな発想で臨む

私の音楽の原点は小学生の頃の体験にあって、それはシュヴァイツァーの言葉と同様な体験であった。
――「バッハのフーガを練習したことのある子供は(その際どんなに機械的に行われたにせよ)声部進行を目のあたりに学び取るのであり、この直感はもう二度と消し去られることは無いであろう。そのような子供はどんな曲にも同様な音響の線による尊厳な動きを本能的に求めるようになり、その欠如を貧しさと感ずるであろう」――シュヴァイツァー

(その際どんなに機械的に行われたにせよ)という部分は特に大事である。なぜなら、作法を間違えて弾くと壊れてしまう曲もあるが、バッハはどのように弾かれても壊れない、機械的に弾かれても壊れない、我流で弾かれても壊れないからだ。

子供の頃、ピアノの愛好家だった父と一緒にバッハの曲を連弾で楽しんでいた頃の体験は忘れがたく、今でもあの貴重な体験が私の中に息づいている。「やわらかなバッハ」とは、まさにその到達した心境に他ならない。音楽を学ぶ上で、既成観念に囚われない自由な精神をモットーとするものである。

バッハを愛してやまなかった作曲家、レーガー(1873〜1916)は 「バッハはアカデミックに弾かねばならぬというのが、お偉い先生がたの合言葉になっていますが、演奏の本質に思いを致す時、この言葉を聞いただけで、私はときどき激しい怒りに襲われるのです」と言う。

父は子供にあまり極端な音大受験教育をさせようとしなかったが、今になって思うと、それは父の大学オ−ケストラの先輩、朝比奈隆(1908〜2001)の影響が大きかったのではないかと思う。朝比奈隆は大学の学生オーケストラの指揮者からやがてプロになり、最後には世界最長老指揮者として世界各国で活躍した。これまでに西洋音楽関係で文化勲章をもらったのは、山田耕筰と朝比奈隆の2人だけである。

朝比奈隆は言う――「スポーツのように体を動かせば良いと思われるようなものでも、アタマを使わなかったら負けてしまう。音楽もアタマを使え。アタマを使うとは自分で考えよということである。先生の言うことを鵜呑みにせず、自分で考える習慣を身につけると本当の意味で音楽が理解できるようになるものである」

作曲家ブラームス(Johannes Brahms 1833〜97)は言うーー「良い音楽家になるためにはピアノを練習するのと同じだけの時間を読書に費やさねばならい」

古楽オーケストラを立ち上げるた指揮者、チェロ奏者のアーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929〜2016)は言う――「もはやすべてを定められたものとして受け入れることはない。不遜や誤解に満ちた伝統によって築かれた解釈の不確実性は、関心を抱くものの探求によって揺らいでいる」――

ウィーン三羽烏の一人、ピアニスト、音楽学者のパウル・バドゥーラ=スコダ(Paul Badura-Skoda 1927〜)は言う――「常識は幾つかの規則としてまとめられ、世界中の音楽学校で”標準の作法”として教えられています。しかしこのように普遍化された奏法がバロックの伝統に合致する保証は全くないばかりか、多くの奏法は粗雑な単純化がもたらした”思い込み”に過ぎないのです。正しい知識の断片や、資料の部分的な参照から導かれ、限定された事象にのみ適用可能な奏法が、その他すべてに通用するわけではありません。」

父は大学と大学院の間、学生オーケストラのクラリネット奏者として過ごし、社会人になっても仕事の合間に世界中のオーケストラを聴いて歩き、家庭ではピアノ演奏を楽しんでいた。父が時には我流でバッハの鍵盤曲を弾き込んだとしてもバッハの音楽は壊れない。バッハは弾き手の自由に答えてくれる。そして何度弾いてもまた最初から繰り返して弾きたくなる。バッハはそのような尽きせぬ魅力をもっている。バッハの音楽の魅力は、理屈抜きで子供にもわかる。大人の固定観念を刷り込まれる前にバッハと出会うことが大切ではないだろうか。




標準ピッチ

1523年に出たアーロン(Pietro Aaron 1480頃〜1550頃)の著作はハープシコードの調律法について、「最初のC音を任意のピッチに置いてよい」と教えた。また、1542年のガナッシ(Fontego Dal Ganassi 1492〜16世紀中頃)の著書は「弦楽器と声のピッチは作品や演奏能力に合わせて自由に変えて良い」と教えている。
つまりピッチは自由に変えてよいというのだ。楽譜に書かれた音符は音の動きを示してはいるが、実際の音の高さ=ピッチを示しているわけではなかった。ピッチというものは記譜された音と関係なく歌手の声域如何によってその都度決められていたのである。

ピッチと記譜された音符との関係に一種の標準ピッチが用いられるようになるのは16世紀末になってからである。とはいえ、当時の標準ピッチは教会ごとに、或いは街ごとに異なる多様なものだった。

19世紀になってもまだ多様な標準ピッチが共存しており、都市や演奏団体ごとに違っていた。1810年にパリのオペラ座の標準ピッチは a‘=423 であったが、やがて432にまで上昇した。歌手たちの反対運動がそれを426まで下げさせることに成功した。しかし、1830年にはまた元に戻ってしまい、その後さらに上昇を続けた。1859年にフランス政府の委員会は標準ピッチを a’=435 と結論し、これが法的効力を持つようになった。
ところが、ロンドンのコヴェントガーデンオペラでは、ピッチが450 にも上昇した。1895年のプロムナード・コンサートにおいて異常に高いピッチで演奏しようとした時、ソプラノ歌手と咽喉医の圧力でピッチを435に下げるという条件で開催にこぎ着けることができた。ロンドンの他の都市もこれに倣い、ヨーロッパとアメリカ大陸のピアノ製造会社もその後を追った。

20世紀になるとピアノ貿易協約に至るピッチに関する複雑な議論が交わされた。この議論は国際標準化機構に移され、機構は1938年の英国規格協会会議勧告に従い、標準ピッチをa’=440と勧告した。この 440 が
今日に言うところの標準ピッチである。世界的な標準ピッチがやっと決まった。それは1938年。1938年といえば、プロコフィエフがピアノ・ソナタ第6番を書いたころだ。ということはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー、ラフマニノフなどのピアノ作品は標準ピッチが決定される以前に成立した作品である。従って、私たちは作曲家が意図した高さと違うピッチで今日演奏しているかもしれないのである。
例えば、バッハの時代は今日より約半音低かったと言われている。バッハがハ長調で書いた曲を今日の標準ピッチで演奏すると、バッハの耳には半音高い調に聞こえたことだろう。バッハが意図したピッチで演奏するには、半音低いロ長調で弾かねばならないことになる。バッハが書いた調で弾くべきとの主張はピッチの上から考えても矛盾していることになる。

ピッチ

ピッチとは音の高さ、周波数のことである。オーケストラの演奏前にオーボエが a=440Hz をロングトーンで出して種々の楽器のピッチを合わせる。絶対音感教育で使用されるピアノも 同じ a=440Hz である。しかし近年のオーケストラでは輝かしい響きを求めてかピッチは上昇傾向にあり、 a=445Hz ぐらい高く合わせることもある。逆に古楽の世界ではa=415Hz ぐらい低く合わせる。a=440Hz のピアノによる絶対音感を身に着けた人達は、 a つまり 「ラ」 の音にどれくらいの幅まで許容できるのだろうか。こう考えると絶対音感教育は非絶対のように思われる。

芥川也寸志(1925〜98)は芥川龍之介の息子で戦後の日本を代表する作曲家の一人である。彼は「若い頃の標準ピッチが、自宅の住所、田端町435番地と同じ435Hzであった」と書いている。(芥川也寸志著 『音楽の基礎』 P.27 ) 彼の幼いころの日本には、未だ絶対音感教育のa=440Hz はなかったのであろう。

バッハが活躍した時代の18世紀はどうであったか。当時はコーアトーン と カンマートーン 2つのピッチ体系が存在していた。コーアトーンは絶対音感教育の a=440Hz より高く、カンマ―トーンは低い。世界標準音をa=440Hz と決めたのは最近のこと20世紀になってからである。バッハの時代に絶対音感の基準となる標準音もなかったし、絶対音感という概念すら無かった。それどころか、バッハの時代は街々によってピッチは違っていた。さらに時代をさかのぼると、歌手の都合の良いピッチが採用され、楽譜と実際の音の高さを一致させるという考え方は存在しなかった。

ここで平均律クラヴィーア曲集第1巻 3番 嬰ハ長調 プレリュードを例にとってピッチと調の関係について考えてみたい。
バッハの時代、嬰ハ長調はその効果があまりまだ知られていない調性の中に数えられ、バッハもこの調はWTC(平均律クラヴィーア曲集)でしか使用してない。何度も言うが、WTC(平均律クラヴィーア曲集)は理論上考えられるすべての調を網羅することが目的であって、調性格を確立する意図を14バッハは持ってなかった。平均律クラヴィーア曲集以外に嬰ハ長調で書かねばならぬ理由もなかった。当時一般的だったミーントーン調律で使用可能な調は大方14の調であった。嬰ハ長調を採用するにあたって、新たな調性格が作り出されたはずもない。嬰ハ長調はシャープが7個もついている高い調で、この曲は2つの声部が位置を交換しながら軽やかに舞い遊ぶ天使たちの輪舞のようである。もし、この曲を、電子ピアノのトランスポーズを使ってピッチを半音下げて演奏したらどうだろうか。勿論弾く楽譜はシャープ7個のままである。実はピッチを半音下げると古楽のピッチ、つまり丁度バッハの時代のピッチになる。演奏して出て来る音は絶対音感者の耳にはハ長調に聞こえる。しかし楽譜はシャープ7個で黒鍵ばかりの演奏である。絶対音感者はピッチ=調と考えているので、楽譜と鍵盤が嬰ハ長調でも耳はハ長調と感じるだろう。ピッチは歴史的に変動してきたことを先に述べたが、古来から調というものはピッチと無関係に存在してきた。調は楽譜と鍵盤の中に存在している。このことを忘れて、ピッチ=調と考えてしまう絶対音感者が多いようである。

現在はピッチと調を同一視する傾向が強くなってしまったが、ピッチと調は全く別の概念であることを忘れてはいけない。
さらに深刻な問題は、調の意味するものが現在の等分平均律に存在しないことである。ただ、ピッチによって区別される名目上の調が存在するだけである。等分平均律を前提にa=440Hz で覚え込んだピッチ感覚をもってして調を判別し、それがプロの持つべき優れた音感であり、調性格も聞き分けられると主張することは土台から崩壊している。さらに一層不可解なのは、相対音感者までがピッチと調を同一視することである。

絶対音感者は嬰ハ長調の曲を半音下げてハ長調のピッチで聞こえてくる場合、それを聞いて「嬰ハ長調はキラキラ輝く調性だが、ピッチを半音下げてハ長調になると、無関心であまり魅力のない作品になってしまう」と主張できるのだろうか。逆にピッチを半音上げてニ長調のピッチで聞こえてくれば「祝典行進曲風になった」と言えるのだろうか。否、もともと等分平均律はどの調も均等であり、ピッチ=調によって性格が変わることはないはずだ。確かにWTC(平均律クラヴィーア曲集)第1巻3番嬰ハ長調はキラキラした軽やかな曲であるが、それは嬰ハ長調というピッチに起因するのではない。どのピッチどの調で演奏してもキラキラ輝くのである。その原因は曲の性格そのものの中にある。

バッハは自作のカンタータを演奏する際、オルガンと他の楽器のピッチを揃えるためにオルガンのパート譜を移調した。なぜならオルガンは容易にピッチを変えられないので、楽譜の方を移調したのである。バッハが自由に移調したように、われわれも、もう少し自由に移調してよいのではないだろうか。



絶対音感

「絶対音感」はよく耳にする言葉であり、音楽家のパスポートとさえ考えている人もいるだろう。しかし、「相対音感」という言葉もあることをを知っている人は少ない。さらにプロや音大生は「相対音感」の方が多いと云うことを知っている人はもっと少ないだろう。「相対音感」は作曲家の方法であり、声楽など自分で音程を取る人達は「相対音感」が多く、自分で音程を取らないピアニストは「絶対音感」が多い傾向にある。

ピアノは等分平均律で調律されているので、このピアノの音程に即して覚える絶対音感は、等分平均律の音感を持つことになる。絶対音感保持者はピアノの音は勿論のこと、他の楽音、鳥の鳴き声、サイレンの音、コップをスプーンで叩いた音など、すべての音がピアノの鍵盤に匹敵して聞こえる。すべての音が「ドレミ」に聞こえる。とはいうものの、世の中のすべての音が、「ドレミ」の音程にドンピシャではない。「ミとファ」の間の音もある。絶対音感保持者の中には、1Hrz の違いごとに聞き分ける人もいれば、大体わかる程度の人もあり個人差が大きい。

我が国においては戦後急速に、絶対音感教育が盛んになった。日本人は皆、絶対音感が音楽の英才教育だと思い込み、全国の楽器メーカーの音楽教室や個人のピアノ教室で、さかんに 「C―E―G、ツェ・エー・ゲー」と和音を当てさせる教育が行われた。ピアノで乱暴に和音を叩き、等分平均律の音程を子供たちの耳に刷り込むことが行われた。

桐朋で使用されていた《子供のためのハーモニー聴音》は長年、版を重ねロングセラーになった。付録の和音表を見ると1番「ツェ・ーエー・ゲー」から始まり、416番「♯デー、♯エー、♯♯ゲー、♯ハー」まである。これを教育ママたちが、何番までわが子が覚えられたかを競い合い、その結果が音楽家への道につながると信じていた。《子供のためのハーモニー聴音》のはじめに「音感訓練の意味」とあり、そこには「絶対音感はこれからの音楽家にとって必須ともいうべき有利な条件で、音感訓練は少なくともその確実な取得を目標とすべきである」と書かれている。また、「現実にはよく調律されたピアノで十分である。a’音を正しく440振動とする。狂ったピアノでの訓練はむしろ誤った音感を養成する結果となり、その矯正は私たちの経験に徴しても一仕事だから、くれぐれも常に楽器を正しく調律しておくことに意を用いられたい」とある。これを信じて絶対音感教育は繰り広げられた。

《子供のためのハーモニー聴音》は1978年に、柴田南雄(1916〜96)他が編集したものである。彼は「音楽家に必要な能力はきわめて多面的で、たとえ和音聴音やソルフェージュにおいて能力が劣っていても、独創的な表現力を持ち、リズム感がすぐれ、演奏技術がひじょうに高ければ前者の欠をじゅうぶんに補うことができる訳で、音楽大学の入試などで聴音やソルフェージュの検定を重視して、その出来によって志願者をふるい落とす今日の傾向は行きすぎではないかと思う。もしこの本が過去においてそうした風潮に少しでも力を貸したとしたら、直ちに絶版にしてしまいたいと思うくらいである」と述べている。つまり絶対音感があれば聴音やソルフェージュは良い点が取れるが、それだけで志願者を選ぶのは問題であるというのだ。

《子供のためのハーモニー聴音》は、もともとピアニスト園田高弘(1928〜2004)の父である園田清秀が考案した「絶対音早教育」に「桐朋学園子供のための音楽教室」が注目し導入したものである。以後、同教室が日本における絶対音感教育の牙城となる。園田高弘は「絶対音教育」を受けた日本人第1号であるが、本人は「言葉ばかりが一人歩きしている」として、「絶対音感教育」とはあえて言わず、父親の命名に従って「絶対音教育」と言っていた。つまり、単なる絶対音がわかる教育であって、音感ではないという主張である。
それでも、後続の人達は園田高弘の真意を汲み取ることなく絶対音感教育に走り、「このCDはハ長調の曲がロ長調になっているから気持ち悪い」とか「相対音感で歌うのは頭が混乱する」と言うようになった。その陰で絶対音感を持ち得なかった人達は劣等感を持ち、自分が相対音感であることを隠すようにさえなった。

その後「桐朋学園子供のための音楽教室」は絶対音感訓練の行き過ぎに気づき、既に絶対音感と称するレッスンは止めている。室長の別宮貞雄氏(1922〜2012)は「私は絶対音感訓練の過熱が原因で教室をやめたのです」と語った。当時の生徒であったピアニストの青柳いづみこさんは師の別宮氏に尋ねた。「どうしてあんなに極端な教育をしたのか?」と。師は「我々は皆、絶対音感を持っていなかったので、それがすばらしいと思ってしまったんだね」と答えた。それを聞いて、青柳さんは「思ってしまうのは勝手だが、それで集団訓練された子供の身にもなってほしい。音の高さがすぐにわかるなどということは、専門教育を受けた人間にとってはごく当たり前で、別に特殊技能ともなんとも思っていないのだ。だから『持っている』ことをうらやましがられても困ってしまうし、勝手にコンプレックスを感じられたら、なお困る」と語った。また「二十世紀音楽のすぐれた演奏家を育成するためには役立ったかもしれないが、古典やロマン派など調性音楽を演奏する際にはむしろ障害になっていると思う」という見解も述べている。[最相葉月著 「絶対音感」文庫版解説より 新潮文庫]

現在でもまだ、無条件に絶対音感を絶賛する傾向はあるようだが、音楽家以外の人にその傾向は強い。音楽家の池辺晋一郎氏は「絶対音感は音楽性とは全く関係のない物理的な能力」と述べている。バッハは相対音感であった。バッハの時代には絶対音感という言葉すら存在しなかった。オルガンのピッチは教会ごとに違ったし、標準ピッチは街々によって違った。さらにさかのぼれば、書かれた音符と音の高さは無関係だった。歌手たちが、それぞれ歌いやすい高さで歌うのが当たり前だった。今日の絶対音感の基準となっている世界標準音440Hz=a'(1点ラ) はやっと20世紀になって定められたものである。
絶対音感は特にピアニストにとって大変便利なものである。しかし、あなたは絶対音を知りたいのか、音楽を知りたいのかと問われれば、音楽と答えるだろう。音楽は必ずしも絶対音とイコールではないことを知っておきたいものである。

移動ド読みは機能読み

「ドレミファソラシ」という名前(シラブル)にはそれぞれ固有の機能がある。「ド」は大黒柱の主音であり、残り6個のシラブルは「ド」に中心帰一する。「シ」はそのすぐ上にある半音を前もって感じさせる役割がある。これを導音と呼び「シ」は自分のすぐ上にある半音を主音として通告する役割を持つ。一方、「ソ」は完全4度上の音を主音として通告する役割を持つなど、シラブル固有の機能がある。

ハ長調の音階各音を7人家族に例えると、ド=お父さん、ソ=お母さん、ファ=長男  レ=おじいさん、ラ=おばあさん・・・・というように、個々の家族の苗字や名前は知らねど、「ド」と言えばお父さんだとわかる。どの家も、つまりどの調も、「ド」はお父さんだ。常にお父さんの役割は「ド」と呼ばれる。これが「移動ド読み」である。例えばト長調の場合は「ド」が5度高くなるので鍵盤名の「ソ」に移動する。音高や鍵盤名がどうであれ、お父さんを「ド」と読み、主音だとわかるのである。「ド」と読む音高や鍵盤名が色々な位置に移動するので「移動ド読み」というわけである。

対する「固定ド読み」は、「ド」と読む音高や鍵盤名が移動しない。「ド」と読む音高や鍵盤が固定しているから「固定ド読み」という。7人家族に例えるなら、「ド」と読みながら、その役割はお父さんだったり、お母さんだったり、調によって様々に変化する。従ってお父さんのシラブルが何かさっぱりわからない。お父さんなのに「レ」や「ソ」などと読むことになる。「固定ド読み」は、音高や鍵盤名読みであり、シラブルのもつ機能は反映されない。

一般的に、自分で音程を作るヴァイオリンや声楽は「移動ド読み」、鍵盤楽器のように押すだけで音程が作れる場合は「固定ド読み」が用いられ易いようである。
或いは単旋律は「移動ド読み」、同時に沢山の音符を奏する場合は「固定ド読み」が用いられると言ってもよいだろう。
しかし調性音楽は「移動ド読み」で理解されるべきであり、これを「固定ド読み」で演奏するのは作曲家の方法に外れるのである。無調の音楽ならば許されるというものだ。

我々は「移動ド読み」と「固定ド読み」の双方に「ドレミファソラシ」というシラブルを用いているが、「移動ド読み」では音階の機能を示し、「固定ド読み」では音高や鍵盤名を示す。意味内容の違うものを同じシラブルで読むという矛盾が生じている。例えるなら「「高い」という言葉を使っても「高い山」 か 「確率が高い」 か わからないようなものである 。「ドレミファソラシ」の混用は発案者のグィードも驚き開いた口がふさがらないというところだろう。グィードが発案した「ドレミファソラシ」は音高と無関係であり、「移動ド読み」だったからである。現在の「ドレミファソラシ」が音高や鍵盤名を示すということなどグィードは想像だにしなかっただろう。










音には過去・現在・未来がある

音楽を演奏するということはメロディーの一つの音から、次の音を思い浮かべ、思い浮かべた音を現実に発音し、直後に過去のものになるということの連続であります。次の音を思い浮かべるのは内的聴覚の働きです。音楽家にとって内的聴覚は生命線ともいえるべきもです。
内的聴覚の想像する未来が必ず現実化していくということが即ち音楽の演奏ということになります。想像する未来が必ず実現するという宇宙の法則は、音楽の演奏にも当てはまります。内的聴覚によって想像された未来の音が、正しければ美しい演奏となり、狂っていれば下手な演奏となります。内的聴覚の想像が極端な場合は「音痴」ということになります。

しかし、ここに一つだけ音楽の演奏についての例外をあげなくてはなりません。それは鍵盤楽器の演奏です。鍵盤楽器は内的聴覚で想像する未来の音が現実化しないのです。それは鍵盤楽器の名人をもってしても不可能なことです。だから鍵盤楽器は宇宙の法則に反しているといえるでしょう。鍵盤楽器において、現実化する音とは、あらかじめ調律師の定めた音です。ここで問題にしている「音」とは、音階の音程という意味です。音色やタッチではありません。この音程は演奏者が内的聴覚で想像する音ではありません。内的聴覚で正しい音を想像しようが、狂った音を想像しようが、全く無関係に、一定の音が出ます。鍵盤楽器においては優れた音楽家も「音痴」と言われる人も同様の結果を得ます。鍵盤楽器の演奏に関しては「音程の良い人、悪い人」という表現は当てはまらないのです。鍵盤楽器の音程に関して内的聴覚は作用しないのです。

このような鍵盤楽器特有の事情から、ピアニストは内的聴覚で未来の音を想像しない習慣がつき、往々にして指だけが鍵盤の上をバタつかせるタイピストになってしまいます。正しい音程を取れない人でもピアノは難無く弾けてしまうが、正しい音程の取れない人がヴァイオリンを弾くとどうなるか想像してみてください。あるいは歌を歌ったらどうなるか想像してみてください。
ヴァイオリンや声楽は正しい音程を取ることが最重要課題ですが、ピアノはその技術を必要としません。

ハンガリーの作曲家にして音楽教育者として有名なコダーイ(1882〜1976)は「内的聴覚が未発達なピアニストは、指だけで弾いているのであって、頭と心では弾いていないのです。彼らは音楽家ではなく、タイピストです。音楽大学はポンポンとピアノを鳴り響かせるだけの高貴なお嬢さんを入学させることを目指すわけにいきません。そんなお嬢さんたちは、以前は《乙女の祈り》を弾き、今日ならバルトークの《アレグロ・バルバロ》を弾くことでしょうが、それが音楽とは全く関係のない人達であることは昔も今も変わりはないのです。卒業証書の名目上の価値と、実際の価値とのギャップは、ますます大きくなっていきました。音大が卒業証書を出すことによって、それを受けとった人の能力を、はるかに超えた力量を証明したからです」と述べました。

コダーイの言葉は、特にピアノ科出身の人には耳の痛い言葉となっています。
音には過去・現在・未来があります。内的聴覚によって、過去の音から未来の音を想像し、想像した音を現在において発音し、直後にその音は過去のものとなるという一連の作業が音楽を演奏するということ、です。音楽の演奏とは想像した未来を現実化する作業に他なりません。想像できない音は現実化することもできません。この想像力が、宇宙の大生命の法則であり、それはあなたの中にあるのです。

バッハ礼讃音楽会

第3回バッハ礼讃(らいさん)音楽会を7月31日に開催しました。バッハの命日7月28日を記念して、毎年この時期に開催しています。バッハ礼讃音楽会は「バッハが礼讃したものを礼讃する音楽会」という意味です。けっしてバッハという人間を礼讃するものではありません。その理由を述べましょう。
コンサートにおいては、とかく指揮者や演奏家が讃えられがちですが、その音楽は彼らが作ったものではありません。バッハの時代と違って、現在のコンサートは過去の作曲家のもの、他人の作品を演奏することが多いものです。それならばコンサートにおいて讃えられるべきは演奏家ではなく作曲家なのでしょうか。否、それも違います。本来、音楽というものは音を通じて宇宙の波動、宇宙の法則のような 「或る聖なるもの」 を讃えているのではないでしょうか。それこそがバッハの礼讃したものであり、バッハの作曲姿勢でした。バッハが礼讃したものが「バッハ礼讃音楽会」の目的とするものです。

バッハのみならず、名を成した偉人たちは、それぞれの分野において、名もなく形も無く言葉で言い表せない「或る聖なるもの」に目覚め、それを讃えました。「皮相な見解」である儀礼的、経典的、学説的なものを除去した「或る聖なるもの」 を礼讃しました。
バッハは自己に執着する芸術家のような自己表現には一切の関心を持ちませんでした。バッハは自我を捨て、ごく当たり前の生活の中で淡々と音楽を生産しました。今日に言うところの芸術家とはかけ離れており、むしろ技術者と言えるでしょう。バッハの音楽は宗教宗派を超越した宇宙の法則のようなものであり、バッハは楽譜の最後に「ただ神の栄光のために」と度々書いています。キリスト教ルター派として一生を終えたバッハですから 「ある聖なるもの」 「宇宙の法則」 といったものを 「神」 という言葉で表現しましたが、彼の真意はキリスト教の「神」に限定されず、あらゆる宗派に通底するとろの 「或る聖なるもの」 と考えられます。それこそが宗教宗派を超えてバッハの音楽に心から感動を覚える所以でしょう。

音楽会場は築100年の洋館、旧県会議事堂です。重厚感あふれる建物の中に優雅なバッハの音楽が鳴り響きました。30余名の奏者の熱演は、観客と一体となって、言葉に現せない或る聖なるものを感じとることができたように思います。

プログラム第1部は 《平均律クラヴィーア曲集第1巻》 の1番から12番までを順に演奏。
楽器は電子ピアノのソロあり、デュオあり。音色はオルガン、ハープシコード、ピアノなど曲によって様々です。中には、ヴァイオリンと電子ピアノで演奏した曲もありました。

プログラム第2部は、演奏形態自由、編曲自由のバッハ尽しです。

ヴォーカルとしては《インヴェンション》 8番 を男性2人が「ダバダバ」で合唱、
《マタイ受難曲》より アリア 「憐れんでください、神よ、私の涙ゆえに」 の カウンターテナー独唱、
《カンタータ186番》より「ああ、魂よ、憤ることなかれ」のソプラノ、アルト二重唱、
《無伴奏チェロ組曲1番》より「ジーグ」をバスのアカペラ独唱、
《クリスマスオラトリオ》より「主よ、勝ち誇れる敵どもの息まくとき」のテナー独唱など。

鍵盤楽器では《2つのヴァイオリンのための協奏曲》より第2楽章、
《チェンバロ協奏曲 5番》よりラルゴ、
《オルガン小曲集より》より「われ汝に呼ばわる」
《フランス組曲 6番》よりメヌエット など

その他にリュート独奏で《リュート組曲 BWV 996》より、アルマンド、ブーレ、
ダルシマーで「グノーのアヴェマリア」
鼓とのコラボで《無伴奏チェロ組曲 1番》よりプレリュード、
ジェンベとのコラボで《トッカータとフーガ ニ短調》、
ギターとコントラバスで《ゴルトベルク変奏曲》よりアリア、
ギターとのコラボで《トッカータとフーガ ニ短調》など。

最後は全員で《主よ人の望みの喜びよ》を演奏しました。続いて《G線上のアリア》でお客さまをお見送りしました。
長時間のコンサートでしたが、皆さんから「楽しかった」との感想をいただきました。
翌日の新聞には写真入りの大きな記事が載っていました。
高度な演奏を追及するアカデミックなバッハは演奏者を讃えることになりがちです。「バッハ礼讃音楽会」は演奏者ではなく、バッハが讃えた或る聖なるものを讃えます。誰でも自由にバッハ体験のできる「やわらかなバッハの会」が主体となって行っているこの音楽会は毎回大好評をいただいています。これからも暖かい目で見守っていただければ幸いです。




バッハ定例会
第1日曜日 15:00 PM
第2金曜日 10:00 AM
第4土曜日 10:00 AM

第4回バッハ礼讃音楽会
日時:2017年7月30日(日)
午後2時
場所:山口県旧県会議事堂

富田庸講演会&公開レッスン
講演会:2017年9月9日 午後2時
公開レッスン:9月10日午前10時
場所:山口大学
大学会館1階大ホール
お問い合わせはこちら

<プロフィール>
鍵盤楽器の
新しい記譜法
「イコール式」を提唱

子供の頃、父と一緒に、バッハのフーガをピアノ分担奏で弾くことによって、声部進行を直感的に学び取った。爾来バッハの鍵盤作品の
とりこになった。

延べ400人の生徒のレッスンを通して、バッハのフーガを弾くことが音楽力を向上させる最も有効な手段であることを再認識した。
移調によって難易度を下げることで、ピアノの初心者も《平均律クラヴィーア曲集》に親しむことができる。

イコール式とは「鍵盤楽器においてどの調も皆同じ」という意味です。
なぜなら12等分平均律の鍵盤楽器における調性とは、ただ高さのみによって識別される2つの旋法、すなわち長調と短調の性格だけに限られるからです。
12等分平均律は勿論のこと、不等分音律を前提に論じたマッテゾンでさえも調性格の恣意性を指摘しています。
異名同音、ピッチの変動、バッハの手による移調の試みなどを考慮すれば、《バッハ平均律クラヴィーア曲集》の元調にこだわる必要は無くなります。簡単な調に移調して、まず親しむ方が大切なことです。
やわらかなバッハの会は既成概念にとらわれず、自分自身の判断で音楽の本質を探究するところです。
橋本絹代 著  『やわらかなバッハ』 春秋社
橋本絹代 編著 《イコール式バッハ平均律クラヴィーア曲集》


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音楽の構造が良く解る










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<イコール式の意味>
*12等分平均律の鍵盤楽器においてはどの調も同じ(イコール)です *フーガの各声部は主従関係ではなく対等(イコール)です *12等分平均律の調律法はイコール・テンペラメントと言います *音名と階名が同じ(イコール)読み方です
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